26/06/2023

2023.6.26(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編23編4節
たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章8~9節
私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
先週の水曜日以降、昨日まで黙想をお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださっている皆さんへは、本当に申し訳ないと思っています。今日から再開しますので、どうぞよろしくお願いします。
 
今日私たちのために選ばれた聖書の言葉を通して、浮かんだテーマは「絶望のただなかに立たれる神」というものでした。私の感じる絶望について、人間社会でしばしば起こる絶望について、いろいろ考えさせられます。絶望とはその文字の通り「希たれること」です。なにもかも失ったように感じるとき、前へこれ以上進めないと感じるとき、やはり私たちを襲うのは絶望の思いなのだと。
 
そのような襲い来る絶望のただなかに神は立たれる。今日の聖書の言葉が指し示すメッセージであり、絶望のなかにあっても、なおも希望を抱こうとする神の民による告白の言葉というものを、私たちはどのように受け止めることができるのだろうか。そんなことを考えさせられます。
 
絶望から起き上がったり、希望に自分自身の心身を向けさせようとすることは、そう簡単にできることではないと私は思います。人間、そんなに切り替えを速くすることなど難しい、本当に弱い存在なのだと私は思います。自分のこだわりであるとかプライドがそれを邪魔することもあります。自分の願望が満たされないときにこそ、私たちは自分自身がつかんで放せないものがあることにすら気づけない。だから、本当は絶望でないことを絶望と感じたりすることが往々にしてあるのかもしれません。
 
私たちがつかんで放せないもの。それを「執着」という言い方で表現することもあるでしょう。そして、絶望を感じたとしても、あとひとつ、私に残されている営みがあるとすれば、それは案外、自分自身の手中でしっかりとホールドしている「自分自身」なのかもしれません。それを手放した時に、私たちはそのかわりにしっかりとつかめるものがある。それが、絶望を希望へと変える、神の御手なのかと。詩編に残したダビデ王の詩も、パウロが手紙にしたためた自分自身の告白も、そういうところから来る思いのアウトプットなのだろうと、私は今日の聖書の言葉を通して、受け止めていきたいと思わされました。
 
どうか、皆さんにとっての一日も、主と手を取り合い、主に導かれて歩む幸いを味わう一日でありますように。お祈りいたします。

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