10/06/2023

2023.6.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章25節
私が疲れた魂を潤し、衰えたどの命も満ち足らせる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章3節
心の貧しい人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今週も早いもので最終日を迎えました。ここのところ(なぜか毎年6月がそういう時期であることをつくづく思わされるのですが)、何となくバタバタしていて、心に余裕のない日々を過ごしている自分自身を思います。務めがあることは本当に感謝ですし、ひとつひとつの出来事に向き合える喜びもあります。ただ、それで心の余裕がなくなるのでは、本末転倒なのかなとも思わされています。そんなときに、今日、ローズンゲンによって選ばれた聖書の言葉は、私にとって大変慰めとなるものでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、救い主イエスが民衆に対して語られた、いわゆる「山上の説教(垂訓)」と呼ばれるメッセージ集の一節です。私はかねてから「説教」という言葉がふさわしいだろうか、ましてや「垂訓」という言葉にいたっては、イエスがこの時に人々に語られたイメージから離れてしまっているような気がしてたまらないのです。
 
垂訓、それは「訓示を下々の者たちに垂れる」という意味があります。だいたい、イエスのもとに集まってきた人たちは、おそらく日々の生活に疲れ、なんとかイエスの言葉によって癒されたい。そういう言葉をひと言でもいいから欲しいと願って、集まってきたのではないか。私はそう思うのです。そういう人たちに訓を垂れても、抱えている疲れは癒されることはないのではないか。これが私の抱くイメージです。説教というのも何となく違う。やはりイエスは、人々の疲れを癒しへと導くメッセージを、ひと言、ひと言、軟膏を塗るようにお語りになられた。そんな風に思えてならないのです。
 
その冒頭が「心の貧しい人は幸いである」というものでした。心の貧しい人という表現は、日本では決して良い意味では語られません。度量が小さく、しみったれているような様子を、私たちは「心が貧しい」という言葉を用いて表現します。では、イエスが言われた「心の貧しい」とは、そのような私たちが普段使いしている、心が貧しい状態を指すのでしょうか。決して、そのような人々のことを指しているのではないと私は思うのです。
 
日々の出来事に忙殺されて、疲れを抱えている人たちが、イエスのもとに集まりました。安心を感じるような余裕すらない彼らに、イエスは「あなたはもうすでに幸いな者とさせられている」と告げられたのです。私たちは誰でも、心の余裕というものが削がれていくと、おのずと、心が狭くされている自分自身というものが現れるかもしれません。そして、そのような状態に気づくことなく、気持ちが不安定になったり、怒りや悲しみという感情が自分自身を支配するということは往々にしてあると思うのです。かく言う私が、まさにそういう状態に陥ってしまうのを実感させられます。
 
ただ、そのような自分自身に気づけるならば、それはイエスの語られる「すでに幸いである」ということなのでしょう。自分自身の何かが足りなくさせられているというのは心、つまり神の霊が自分のうちに満たされていない状態のことを指すのでしょう。実際、今日の言葉である「心の貧しい人」とは、本来の訳では「霊において貧しい人々」という意味なのです。つまり、神が私たちを助けるために惜しみなく与えてくださる聖霊が、何かを受け入れる余裕のない私のうちに注がれるならば、それは本当に幸いなことなのだと。なぜならば、神が私と常にともにいてくださるということが、私にとっての励みとなり、慰めとなっていくからです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、まさにそのことを物語っています。神は語られました。「私が疲れた魂を潤し、衰えたどの命も満ち足らせる。」と。だからこそ、疲れを癒される方の助けが、私の魂を潤し、衰えから回復させてくださることに期待して、今日の一日を歩む者でありたいと願わされました。
 
どうぞ今日の一日が、明日への備えのひとときとして、私たちの疲れを癒すときでありますように。心よりお祈りいたします。

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