17/06/2023

2023.6.17(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編50編1節
神々の神、主は語りかけ日の出る所から日の沈む所まで、地に呼びかける。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章20~21節
神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。少し木曜日の黙想に書きましたが、去る木曜日・金曜日と、私の所属する日本基督教団で開催された「カルト問題全国連絡会」に、主催者側として参加をしていました。長年協力関係を持っている韓国・大韓イエス教長老会(統合)のカルト対策担当者もお招きして、4年ぶりに対面での開催が実現しました。残念ながら、内容についての詳細をここに書くことはできませんが、今回はいわゆる「宗教2世」問題について、日本と韓国側からそれぞれ講演があり、よい交流の時を持つことができました。その感想も含めて、今日与えられた聖書の言葉から黙想を得たいと思いました。
 
今日の新約聖書のなかで、イエスは「神の国」についてとても興味深いことを告げておられます。神の国は、その存在を観察したり、何かを探し当てるようにどこそこにあると言えるようなものではないのだと、イエスは言われました。これはある意味で言えば、私たちが真理や真実というものを探求するときに、それを見つめ、その存在というものを確かめて、見つけるという行動をするのが、ごく当たり前のように受け止められているのではないかと思うのです。ですから、イエスが、観察したり見つけたりするものではないのだという言葉に、とても興味深く感じたのだと思います。
 
しかし、イエスは言われました。神の国とは「あなたがたの中にある」のだと。この「中にある」という表現こそ大切なのであって、神の国とは究極的に外面的なものによって表されるというよりは、私たちの内にある、つまり内面的なものを通して、神の国というものが明らかにされるのだということを、イエスは言いたかったのではないか。そう思えてならないのです。
 
カルト宗教と呼ばれるものの存在は、ことさら「見えるものを通して」「自分たちの正しさをアピールするために」「自分たちの存在(リーダーの卓越性や組織のすばらしさ)」を強調することによって、人を集めることに必死になり、「ほら、ここに真実があるからおいで」と、パフォーマンスを繰り返します。しかし、そこに究極的に落ち着くことのできる場を存在していません。ただ単に、不健全な支配の渦に巻き込み、巻き込まれる構造を作り上げるだけなのだと。
 
しかし、神の国とはそういうものではない。救い主イエスが私たちの心にとどまることによって、私たちがイエスの心によって、日々の営みというものに押し出されていくことで、その場には神の国の文化というものがあふれ出てくる。それは、イエスの心を私たちがたとえ100%受け取り、そして表現することができなかったとしても、それでもイエスがともにいてくださることで生み出される、自己省察の思い、安心感、励ましや慰めというものも含めて、神の国というものがイエスによって生み出されていくことなのだと、私はそのように今日の聖書の言葉から感じ取りたいと思わされたのでした。
 
神の国を心から信じ、また神の国がもたらす平和を「造り出す」者として、この辺をはき違えることのないように、今日の一日を歩み、明日の主の日へと導かれていきたいと思います。どうぞ、皆さんの一日にも、神が私たちの内に宿ってくださることによって生み出される幸いがともにありますように。お祈りいたします。

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