29/06/2023

2023.6.29(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書20章11節
主は、恐るべき勇士のように
私と共におられます。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章12節
私を強めてくださった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日選ばれたふたつの聖書の言葉を通して、私はあらためて「強くなる/強くさせられる」とは、いったいどういうことなのだろうか。そんなことを黙想したいと思わされました。
 
私たちは「強さ」の基準をどこにもとめるだろうか。高い能力か、知性か、腕力か、経済力や名声か、数の大小か。この世の中で一般的に、誰の目から見ても受け入れられるような強さが幅を利かすなかで、私たちは「強さの根源がどこにあるのか」ということを見る必要があるように思わされます。
 
使徒パウロは言いました。強さの源は救い主イエスにあると。ローマの市民権という社会的ステータスを有し、律法の学びを通して論理的な思考に満ちあふれ、手に職を付けて自活することもできたパウロは、世の中からすれば「強い部類の人間」とみられていたかもしれません。しかし、当のパウロ自身は、自分のうちにある「弱さ」で大いに苦しみ、悩み、だからこそ、神の助けを徹底的に求めました。弱いからこそ強いとパウロが告白したのは、自分自身の弱さというものに徹底的に向き合った結果、私は神が与えてくださる強さによってでしか、生きることができないのだという心からの告白でした。
 
私の強さは、私由来の強さではない。神が強い方でおられるがゆえに、私は強くさせられているのだ。この弱い私を。その結果、現れる強さというものは、もちろんこの世界で受け居られる強さが結果として現れる場合もあるでしょう。しかし、世界がどんなに認めなかったとしても、誰もが見てわかるような強さでなかったとしても、自分自身が神の助けによって、地を足を付けて、それを踏みしめて、たとえ地味でも、与えられた命というものをじっくりと味わうことができるのではあれば、それは「神に強められた命と生活」に他ならないのだと。私はそのように受け止めたいのです。
 
神は恐るべき勇士のようである。神からの裁きの言葉を伝えようとする前に、逡巡(しゅんじゅん)する預言者エレミヤが、神の力を信じて告白しました。多くの憎しみを買うことになるだろう。しかし、神が恐るべき勇士として私を守ってくださる。神は私に預言者としての仕事を与えられた以上、決して心配はないのだと思っての、エレミヤの告白だったのでしょう。このエレミヤの言葉にも励まされながら、今日の一日を生きていきたいと願わされました。
 
皆さんの一日に、神の守りがあり、それによって強くさせられる幸いがありますように。お祈りいたします。

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