08/06/2023

2023.6.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記5章33節
あなたがたの神、主があなたがたに命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章4節
これまでに書かれたことはすべて、私たちを教え導くためのものです。それで私たちは、聖書が与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日(6月7日)は、私の個人的な事情のために、黙想をお届けすることができませんでした。ですので、前日のものではありますが、あらためてブログに黙想を掲載したいと思いました。
 
昨日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して与えられたこと。それは「神が私たちの人生を導かれるために、ご自身の言葉を豊かに与えられた」というものです。
 
昨日の旧約聖書の言葉は、申命記の一節でした。申命記と言えば、モーセをはじめとするイスラエルの民が、40年間にわたる流浪の日々を経て、いよいよ神が示された約束の地へたどり着こうとしていた時、モーセによって語られた追憶集です。彼がこれまでの歩みを振り返り、大切なことをもう一度民たちに伝えておきたい。その中心にあるものは、イスラエルの民たちを導いたのは、私モーセではなく。究極的には神であったのだということなのではないか。私は、昨日のローズンゲンの言葉を通して、そう思えてならないのです。
 
この感覚というのは、実はすごい大切なことで、自分で建てた人生設計が思い通りにならない場合、その中心に立つのが自分自身「だけ」だとすれば、それは空しいものとして自分の記憶のなかに、後悔や疑問とともに残るだけなのではないか。そう思うのです。そうではなく、私の人生をご自分の計画のなかで、ご自分の言葉をもって豊かに導く神がおられるからこそ、私に与えられた賜物であるとか、私の環境というものが豊かに人生の日々のなかで生かされていく。人生設計の主体が誰であるかを考えるだけで、感じ方というものが俄然変わっていくのだと、私はとらえたいのです。
 
私の日々を導かれる神が、私にどのようなチャレンジを与えてくださるのだろうか。そんなわくわくした気持ちとともに、希望を抱きながら与えられた一日を歩む。そこに幸いがあるのだと。たとえ流浪の苦しみがあっても、忍耐や労苦がともなうことがあっても、そこに意味を見い出せるような姿勢というものを大切にしたい。昨日のローズンゲンの言葉から、あらためて明くる朝に考えてみました。
 
皆さんにお届けするのが遅くなったことをお詫びしつつ、お読みくだされば幸いです。主の守りと祝福をお祈りいたします。

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