05/06/2023

2023.6.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書38章19節
父は子にあなたの真実を知らせる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章6~7節
あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日の旧約聖書の言葉に「父は子に」という言葉があります。ここで指す父とは、文字通りの父のことであり、いわゆる年長者とも言える存在の人物のことを指します。その父が、子、いわゆる年若い人に対して、「あなたの真実」を知らせるとあります。ここで言うあなたとは、主なる神のことを指しますので、年長者は年若い人に対して、主なる神が真実な御方であることを教え、諭し、知らせるのだという、預言者の思いを私たちはうかがい知ることができます。
 
私はおととい、「親のカルト信仰や宗教活動を強制されて生きる『宗教2世』の問題を考えるためのシンポジウム」に行ってまいりました。私もこのシンポジウムで、登壇者のひとりとして招きを受けていたからです。(詳しくはコチラをご覧ください。当該のYahooニュースへジャンプします。)
 
昨今、いわゆる「カルト宗教2世」への児童虐待の問題が取りざたされていますが、私も元エホバの証人のひとりとして、聖書的なしつけと称して行われる子どもたちへの暴力的な虐待の現場というものを、幾度となく見せられてきました。このことに触れると、「なんとひどいことをする親なのだ」という反応を受けることが多くあるのですが、そのように安易に直結して考えて良いのだろうかと思わされることがあります。
 
もちろん、児童への虐待行為であることには何ら変わりませんし、そのことは決して許されるべきではありません。子どもたちの一生にトラウマとなって残ることで、後の人生の日々で苦しみを抱えながら生きなければならないからです。ただ、親たちもまた、そのカルト宗教団体に「精神的虐待」を受けている当事者であることも事実なのだと私は思います。繰り返しますが、親の子に対する行動は決して許されるものでひゃありませんし、親は子に対して真摯な悔い改めと謝罪が必要であることに変わりはありませんし、それがいかなる理由で正当化されるべきものではありません。ただ、親たちも、カルト宗教の影響がなければ、子どもに対してそんな暴力的な教育をすることはなかったのだろうと思うのです。
 
あるエホバの証人の親が、涙を流しながら子どもの臀部を鞭打っていた現場を、偶然に見たことがありました。その親は、私にその現場を見られてしまったからなのでしょうか。こんなことを話してくれたのを思い出したのです。「何で泣きわめく子どもに鞭なんか打たなければならないのだろうか。この時ほどつらく、また苦しいことはない。」と、その親は言ったのです。それがエホバの証人が指し示す教えだから、仕方がなくするしかないというのです。子の親もまた、エホバの証人が提示する暴力的な行為を正当化する教えに毒されてしまった。まさに、マインド・コントロールを受けたがゆえに、解放されていない「精神的虐待の被害者」なのだと。
 
話は変わりますが、私は4月から「日本基督教団東北教区センター・エマオ」の主事として働いていますが、この教区センターにある「日本基督教団仙台青年・学生センター」の働きも、主事としての働きに加えられています。つまり、私には青年・学生と呼ばれる若い方々への交流を通して、何かを伝えなければならない、そういう立場にあることを思わされています。私もあと数年で50歳を迎えようとしているなかで、自分より年若い人たちに、何を、どのように伝えなければならないかについて、日々考えさせられます。
 
そのようななかで、今日の聖書の言葉はまさに、その答えを与えられていると思わされました。それが「あなたの真実を知らせる」という聖書の言葉です。
 
神の真実とはなにか。神は正しい御方であることを、ご自分の忍耐と犠牲によって示されました。それが、究極的には最愛の御子を差し出されるほどに、私たち人間を愛された。これほどの忍耐を要した犠牲は他に見られないのです。同時に私は思いました。人を育てるということにも多くの忍耐が必要であり、時には自分自身が犠牲を払ってでも、神の真実が年若い人を育てるということを信じて、自分自身ができる最善をもって、年若い人たちに接することが必要なのだと。
 
だからこそ、エホバの証人が受け、またしてきたように、身体的・精神的な苦痛を負わせるような接し方は、結果として良いものはひとつも生み出さないのだと痛感させられます。神が愛を示されることで明らかにされた真実をもって、私もまた年若い人たちを神の愛で愛しつつ、ときには忍耐しつつ、時には自分自身が犠牲になってでも、接していくことを第一にして、自分に与えられた務めを果たすことが、今日の聖書の言葉に示された私の目指す生き方なのだということを強く思わされたのです。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉に具体的に記されています。イエスが救い主、キリストであることを受け入れた者として、キリストにあって生きる。「キリストにあって」とは「キリストのうちに」ということであって、自分自身をキリストに深く潜り込ませながら生きるということを意味しています。今日の聖書の言葉で「キリストの内に根を下ろし」とは、まさにそのような自分自身の態度のあり方を意味しています。神の愛に込められた真実を私たちに示すために、イエスは父なる神同様に、これほどまでかという忍耐をもって、私たちに向き合ってくださいました。そして、十字架の犠牲をもって自己正当化から最も遠い生き方を私たちに示された。その謙虚さは神の愛に直結するものなのだとあらためて思わされるのです。
 
自分自身がいつまでも歳若いわけではない。若さの与える魅力を尊重し、それを大切にすることができるために、自分自身を差し出し、忍耐をもって見守る生き方のモデルを神に、そしてキリストに徹頭徹尾求めながら、今日与えられたいのちに感謝したいと思います。そのことで、キリストの示された愛がひとりでも多くの方々と分かち合えることを心から願いつつ。
 
皆さんの一日に、主なる神の真実がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

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