30/06/2023

2023.6.30(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章4節
倒れたら、起き上がるのではないだろうか。
背いたら、立ち帰るのではないだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章5節
使徒たちは「私どもの信仰を増してください」と、主に言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書の言葉は、弟子たちが救い主イエスに、自分たちの信仰を増してくださいと願い出ているシーンです。そして、それら弟子たちの願いに応じて、イエスは、このようなことを弟子たちに語っていることがわかります。
 
主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。
(ルカによる福音書17章6節)

からし種一粒ほどの信仰。
イエスが言われた、大変有名なひと言です。実は、私が働く教会の祈祷会で、昨日この「からし種の話が話題になりました。私たちが読んでいた聖書箇所はマタイによる福音書17章であって、少しシチュエーションは違いますが、イエスが弟子たちに対して「あなたがたの信仰は薄い」ということを告げたのちに、からし種の話をされたことが記されています。
 
では、信仰とはいったい何だろうか。信仰の厚い薄いは何をもって語ることのできる事柄なのだろうか。桑の木でも山でも動かすことのできる信仰の力とは、どのようなものなのだろうか。そんなことを考えさせられます。
 
信仰とは、努力の結果獲得できるものではなく、あくまで神から与えられるものである。
よく言われる言葉です。そして、神から与えられるものと言えば、やはり「アガペーの愛」なのかなと思えてなりません。あくまで周囲の幸せのために自分自身が働く愛。そんな意味を持つアガペーの愛を携えながら、イエスは私たちの内にとどまってくださる。この事実こそ「信仰」の本質なのだと。私たちが何かをする功徳を積むということそのものが信仰ではなく、その前に先立つ神の愛が私たちの内にとどまることなのだと。
 
からし種は、あんぱんの上に乗っているけしの実よりもさらに小さいものです。ひと粒とっても、注意深くしていなければ簡単にこぼれ落ちてしまう。それがからし種です。しかし、私たちが簡単に見過ごしてしまいそうなからし種であったとしても、そのひと粒に神の愛が十分に詰まっていて、世の中を変える力があるのだ。イエスが弟子たちに語られた「からし種ひと粒の信仰」とは、そのような神の不思議な業について語っているのかなと思わされました。あくまで私たちの側の努力の問題ではなく、神がそうしてくださるから、私たちは神から信仰の本質をいただき、それをもって日々の生活のなかで神とともに生きることができるように導かれているのだと。そんなことをあらためて思わされました。
 
今日一日が、私たちの見過ごしてしまうような出来事にも、神の愛が詰まっていることに信頼して歩むことができますように。心からお祈りいたします。

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