31/01/2026

2026.1.31(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編92編5節
主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。私はあなたの手の業を喜び歌おう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録3章6節
(脚が不自由であった男は)躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったろ踊ったりして神を賛美し。(ペトロとヨハネ)二人と一緒に境内に入って行った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日となりました。この一週間、皆さんにとってどのような日々でしたでしょうか? 神が皆さんの生活にどのように関わり、守ってくださったかを想い起こしつつ、来週への備えの一日として、今日の時をも過ごしていくことができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、新約聖書の言葉は、使徒言行録3章の冒頭にあるエピソードが選ばれました。長い間脚が不自由で、生活のすべを他者から頼らざるを得なかったひとりの人物が、使徒ペトロとヨハネによる「主イエスのお名前によって」なされた癒しの奇跡によって、脚力が復活して、心から神を賛美した出来事です。
 
神殿の門前で、物乞いをしながら生活しなければならなかった彼にとって、頼る相手は神殿を参拝する人たちでした。施しの行為をすることは、当時の人たちの功徳として広く受け入れられていましたから、別に悪いことでもなんでもありませんでした。その物乞いにとって、頼る相手が、他者から神へと変化していった一瞬がここにありました。
 
まさかこの男にとって、そのような心境の変化が起きるとは、つゆだに思わなかったでしょう。しかし、彼はペトロとヨハネの助けによって、神と向き合う機会というものが与えられました。神殿の存在は、彼にとっての生活の手段ではもはやなくなりました。生活の目的であり、彼にとって神殿は、自分の生活の中心となったのです。
 
私たちは、自分自身の経験してきたことによって、感情や思考、行動が規定されます。ですから、今までどのような生活を営んできたかで、自分自身の方向性というものが確立されていくわけですが、それがすべてではないということが、神との出会いによって明らかにされ、新たな道、神とともに歩む道の幸いというものが、提示されていくのです。
 
男は、神との出会いによって、明らかに心躍り、脚が躍り、喜びに包まれました。この喜びこそ、私たちひとりひとりにも例外なく、神から与えられるということを、今日の聖書の言葉は私たちに伝え、教え、経験させようとしているのです。それが神の願いなのです。
 
いにしえの詩人は歌いました。神の働きこそ私を喜ばせると。私たちの日々出会う出来事のなかで、いつもそのような思いに導かれるわけではありません。しかし、神はその人にとってベストなタイミングをもって、かならず喜びの時を与えてくださる。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。数日後か数年後かもしれない。その時が来ることを、希望をもって心待ちにしたいのです。
 
皆さんにとって、この一日もまた、そのような待望の時となりますように。また、喜べると感じたときに、大いに喜べる時となりますように。神が与えてくださる平安を、心からお祈りします。

30/01/2026

2026.1.30(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章19節
主は民に答えられた。
「私は穀物と新しいいぶどう酒
 また新しいオリーブ油を送り
 あなたがたを満ち足らせる。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書6章41~42節
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰ぎ、感謝し、パンを裂き、それを弟子たちが分配するようにと渡され、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
金曜日となりました。週末に近づくこの一日もまた、神が与えてくださった言葉によって、私たちの心も体も健やかに生きることができますように。そんなことを願いつつ、今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「味わいの喜び」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
神はご自分の民にひもじい思いをさせることはない。そのようなことを書こうものならば、世界には、この日本ですら、今日食べるものすら窮している多くの人たちがいることを知っていますから、そう簡単に無責任なことは言えないわけですけれど、今日の聖書の言葉に聴けば、私たちの腹を満たして、ひもじさから解放してくださる神がおられるのだということに、私たちは言葉に秘められた神の思いというものを、ちゃんと探りたいと思わされるのです。
 
世の中に十分に腹を満たすことができない環境があるならば、それは神のせいではありません。神の願いを無視し、自分たちが「神」となって世界を支配しようともくろむ、人間たちがゆがんだ支配をこの世界に向けているからです。分配できないのです。独占してしまうのです。このゆがみこそ、神の切なる願いを壊していく現実があることを、私はぜひ受け止めたいと思うし、忘れてはならないのだと思うのです。
 
だからこそ、今日の旧新約聖書の両方に記されていますように、神は、そしてイエスは、目の前にいる人たちの不足を、ご自分の最高のものをもって、分け与えてくださるのだというう思いがあることを受け止めつつ、では、そのような神の思いを前に、私たちには何ができるのだろうかということに、心を寄せる者でありたいと願わされます。
 
現実の状況を抱えながら、神にその思いをぶつけること、祈りを通して聴いていただくこと、食べるに不自由を覚えている人たちのために生きること、自分自身に与えられたものをもって神に感謝をささげること、それを味わい、その味わい深さをしみじみと、また大いに喜ぶこと。そして、今日の新約聖書の言葉にもあるように、神の奇跡を心から信じること。指折り数えれば、私たちにできることなど、いくらでもあることを思わされます。
 
食物を通して、神は私たちにご自分の喜びを分け与えられました。その喜びを私たちは受け取り、味わう喜びを他者と分かち合うことができるのです。この食べ物とは、実際の食べ物もそうですが、神が与えてくださる言葉もまた、私たちにとっての「命のパン」であることを想いつつ、今日の言葉を胸に抱きつつ歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日が、そうであるがゆえの幸いを、味わう時でありますように。心からお祈りします。

29/01/2026

2026.1.29(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編6節
わが神、主よ、あなたが私たちにお示しくださった驚くようなみわざとその思い計らいは偉大です。あなたに並ぶ者はありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書2章12節
すると、その(癒された)人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を崇めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちに生きる命を与えてくださった神が、私たちのゆく道を大切に守ってくださり、私たち一人ひとりに神とともにある幸いに気付かせてくださいますように。そして、私たちもまた神とともにあるという出来事を、大切にすることができますように。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の偉大さ」についてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の偉大さというものを、私たちはどのように受け止めることができるのだろうか。そんなことを考えます。今日の新約聖書の言葉は、長年の病に悩まされたひとりの人物が、イエスとの出会いによってその病が癒やされたことが記されています。そして、イエスとその人物をつなげた四人の友人のことが記されています。
 
イエスに出会いたいというその人の切なる願いと、その願いを惜しみなく手助けし、イエスとつなぐことを実現した友人たちの思い。このふたつの方向というベクトルが、神との出会いというものを実現したわけです。もっとも、神は人の思いにかかわらず、私たちに近づいてくださる方であるということを私は信じていますが、神が訪れ来るのを、ただ指をくわえて待っているだけというのも、どこか違和感を覚えるのです。
 
神の私たちに対する迫りと、私たちの神を慕う思いがしっかりと組み合わさった時にこそ、神のなさることが「偉大である」と私たちが認識することができるのだと。私たちが神を慕い求めることが、本当に神の願いに沿うものであれば、神は必ずそのように私たちを導いてくださるし、私たちの思いや願いが神の期待との間にズレを生じさせるものであるならば、神は私たちが軌道修正できるように、働きかけてくださる。そのことを心から信じて、神ととの歩みというものを大切にしていきたいのです。
 
長年病を得ていた人の願いは、「まず、神に出会う」というものでした。自分自身が抱えてきた痛みや苦しみ、頼りにしていた担架から解放されたいという願いが、神との出会いによって果たされることへの切なる願いが、神によって取り除かれ、神に出会い、神とともに歩むことに差しさわり無く神が助けてくださることを、イエスは豊かに果たしてくださいました。ここにこそ、私たち人間が、神の偉大さに触れ、その偉大さに生かされていることを実感する一瞬がありました。
 
このような出来事を今日の聖句としていただいたことを胸にしながら、神の偉大さに触れる一日を歩むことができますように。皆さんのすべてに、神の守りと祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

28/01/2026

2026.1.28(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章8節
主よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠ざからないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書5章23節
(ヤイロは)しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も寒い一日となりますが、すべてにおいて神が私たちとともに歩んでくださることを信じて、神を慕い求めつつ過ごすことができますように祈ります。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったテーマは「見捨てない神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句は、見捨てないでくださいという、神に対する嘆願の言葉です。そして、その嘆願は、決して身勝手な要求に基づくものではありません。要求ばかりをして義務を果たさないといったものではなく、あくまで神の思い願いを心から理解したうえで、そのことに同意し、その思いに自分自身を沿わせつつ、神とともに歩みたいという願いによるものです。
 
もちろん、神の慈愛に出会うまでは、いろいろと思い違いをすることもあるでしょう。神に出会ったあとでも、誤った判断に基づいて行動することもあるでしょう。しかし、神が私たちの心にご自分の思いを注がれたときに、私たちが「気づき」を覚えるならば、その時点で神は必ず、その大きな腕のなかで私たちを守り、見捨てることはなさらない。今日の聖句はそのような思いをも与える言葉なのだと私は受け止めました。
 
見捨てないという言葉に決して甘えることなく。深い自覚を覚えながら、神が与えてくださる言葉と聖霊の助けによって生きていくことの幸いというものを、今日も味わっていきたいと心から願います。そこには心の安心、平安があることを心から望みつつです。そのことを希望とし、祝福された時となりますように。心からお祈りします。

27/01/2026

2026.1.27(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章8節
私の思いは、あなたがたの思いとは異なり
私の道は、あなたがたの道とは異なる ー主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙4章13,15節
さて、「今日か明日、これこれの町に行って一年滞在し、商売をし一儲けしよう」と言う人たち、むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんにちは。
長い寒波が終わったようです。まだまだ寒さが続くようではありますが、大雪で生活の差しさわりを感じておられる方々が、少しでもその不便が解消されることを、ただ願うばかりです。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御心(みこころ)を自分の心とする」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは何を思い、願って神へ祈るのでしょうか。もちろん、日々の生活のなかで「そうなってほしいこと」「自分がしたいこと」と思うことを、私たちは神へ祈るでしょう。そして、そのようにならなければ、自分の願いが果たさなければ、そのことで祈り続ける私たちがあるでしょう。
 
そのようななかで、私たちは「神の御心を求める」という言葉をよく用います。神の御心はどこにあるか、私たちはよくわかりません。だからこそ、わからないゆえに、祈りのなかで起きていく出来事を「これは神の御心だった」と言うこともあれば、「これは御心ではなかった」と言うこともあるでしょう。
 
しかし、究極的にそのことが「神の御心」であるかどうかは、私たちが神の思いや願いということを知らなければ、その少しも知ることはできません。神の御心と言いながら、実は私自身の願望を神にかこつけ、押し付けているだけなのではないだろうか。そんな風に思うのです。もしそうならば、それは「私が神に成り代わっている」一瞬なのでしょう。自分が神に成り代わるというのは、まさに、聖書で物語られている「罪」の本質に他なりません。
 
私たちは祈ります。具体的に祈ります。しかし、それがなかなか果たせない場合、思い通りにならない場合、神の御心は別なところにあるのかもしれないし、神が差し出してくださる御心を前にして、私自身の心や思いが神の御心によって「変えられていく」ということが求められるかもしれません。こうして軌道修正されていくときに、私たちは神の思いが、願いがどこにあるのかということを理解し、その御心によって生きる幸いというものを味わえるのだと、私はしっかりと受け止めたいと思わされるのです。
 
その神の御心を知るために、私たちには神の言葉である聖書が与えられました。祈るときに、その祈りを通して私たちの心に神の御心がしみわたるために、聖霊様の導きが注がれます。聖書の言葉に聴き、祈るという循環が、私たちと神との深い絆となっていく。そんな生活を、今日も営んでいきたいと心から願わされました。
 
皆さんの一日が、そのような神の助けによって支えられますように。心からお祈りします。

26/01/2026

2026.1.26(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書2章21節
神は時と時期を変え
王を退け、王を立てる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章1~2節
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のために献げなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんにちは。
今朝はゆっくりと休みました。仙台は最低気温がマイナス5度近くまで下がったとのことで、朝ごみを出しに外にでたら、いつになく寒い空気でしたが、シャキッとしました。今週も毎日を大切に過ごしたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は、実に日本に住む私たちの必要にぴったりと合った言葉であると私は感じました。どちらの聖句にも「王」という言葉が登場します。日本には王は現存しませんが、政治をつかさどる方々を指す言葉であると、私たちは読み替えることができるでしょう。明日から衆院選が始まりますが、私たちは何を政治に求め、期待することができるのでしょうか。
 
実際には、この国の政治をおこなうのは政治家の皆さんですから、どのような政策を考え、公約を出し、それに向かって歩むかについては大きな関心を抱くことでしょう。私も国民のひとりとして、より良い国民生活を営めることを望みますから、いつもと動きが異なる今回の選挙にはいつになく大きな関心を抱いています。
 
ただ、そのような関心を抱きながらも、私は「神の国に属する国民」であることも間違いないわけです。私たちは現実の国家と、神の国の国家というふたつの国に国籍を持つものとして、そのどちらも大切なものであり、また神の国が全世界を治めることを信じていますから、あくまで「神の国が示す価値観」というものに自分自身の生き方を求め、その価値観を抱くなかで、この世の中の目に見える政治に関心を抱くということを忘れないようにしたいのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ユダヤ人を捕虜としたバビロニア帝国の王であるネブカドネツァルをめぐる、預言者ダニエルと神とのやり取りのなかで発されたひと言です。暴虐に満ちた王であるネブカドネツァルは、ダニエルとの出会いによって、異教の神が自分たちになそうとすることを知るにいたります。一国の王が、神の価値観に触れて徐々にその神が偉大な方であることを受け入れるようになりました。神がこの世界に平安をもたらす方であることが、自分自身の政治力をはるかに超えていることが分かったからです。
 
この日本においては、ネブカドネツァルのような心境の変化が同じように起きるかどうかはまったく分かりません。しかし、私たちは神の価値観を知る者として、できることは必ずあるはずなのです。それは今日の新約聖書の言葉にもある通り、「願いと祈りと執り成しと感謝」を、それら政治の務めにあたる人はもとより、すべての人のために神へささげることなのだと。つまり、神に祈ることの重要性というものを切に思わされるのです。
 
昔、東京にいた頃、定期的に国会議事堂の周りを歩いて祈るという「プレヤウォーク」を、クリスチャン仲間たちと行っていたことがありました。こんなことをしたとて、政治が変わるわけがないだろうと思うかもしれません。しかし、それはただのパフォーマンスではありませんでした。歩きながら真剣に執り成しの祈りを神にささげたときに、それは、神がご自身の知恵と力をもって、この国を治め、道を定めてくださるということへの確信を生むこととなりました。このような思いを抱いて、政治に関心を抱くということが、本当に大切な営みなのだと思わされたのです。
 
今日も政治のために祈ります。私たちのために政治を執り行うひとりひとりのために。たとえそれが、自分自身の望みではない政治体制であったとしても、そのことを神に聴いてもらい、祈りをささげる。この営みを衆院選に先だった一日の祈りとしたいと思いました。
 
皆さんの午後のひと時が、神の助けが豊かにあふれるものとなりますように。心からお祈りします。

25/01/2026

2026.1.25(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書27章5節
私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、地と、地の面にいる人と動物を造った。そして、私の目に適う正しい者にそれを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙1章20節
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されて以来、その筋をきちんと追ってさえすれば、その御業の内に見て取ることができたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今朝はどうしても礼拝の準備などでローズンゲンの黙想をつづることができませんでしたので、夕方になってのお届けです。ローズンゲン運動が始まったドイツ・ヘルンフート兄弟団は、労働が始まる前の朝に村の礼拝堂に集まって祈りの時をささげ、労働が終わった後に再び礼拝堂に歩まって、夕の祈りの時をささげたのだそうです。一日の営みを振り返られるような思いをもって、聖書の言葉に聴き、祈るための備えをしたいと思います。
 
今日のローズンゲンを通して示されたふたつの聖書の言葉は、どちらも「神による創造の御業」というものに言及されています。神がこの世界を創造され、天体を整備され、この世界に生きる動植物を造られ、それら被造物を管理するために、私たち人間が最後に創造されました。そのことは、創世記1章から2章冒頭に描かれている通りです。
 
しかし、聖書に描かれている創造の業というものを知っていたとしても、自然界を見て、その美しさに驚嘆し、深い感動を覚えたとしても、私たちにとって大切なことは、創造主である神が、これら創造の業を通して、私たちに何を伝えようとしているのかということを、私たちがいかに理解するか、ということにあると私は改めて思わされました。
 
今日のふたつの聖句は、神によって造られたものは「私の目に適う正しい者」に与えられる(旧約聖書・エレミヤ書)とあり、「その筋をきちんと追ってさえすれば、見て取ることができる」(新約聖書・ローマの信徒への手紙)と記されています。
 
つまり、神の創造の業を通して、神は何をもって世界を創造されたかということを、いかに私たちが理解しているか? 受け止めているだろうか? この世界を造られた神の思いに、自分自身が歩調を合わせて生きようとしているだろうか? そんなことを、今日の聖句を通して考えさせられます。
 
この世界は進化によって発展したという、すでに常識化した通説を踏まえれば、創造という考え、神がおられるという考えは、現在の世界ではなかなか受け入れられないこともあるでしょう。時代遅れの、古い考えなのです。そのような声が、聞こえてくることでしょう。
 
しかし、それでも私たちは考えたいのです。もし神がこの世界を創造されたのであれば、その目的はまさに、「造られた者が平和と安全のうちに生きる」ことであり、そのことを私たちの神は切に願い、その願いを込めつつ、すべてを創造されたというのが、聖書に描かれている創造論の中心にあるものなのです。
 
この神の願いは、たとえ神を知らなくても、私たちならば誰でも願うことなのではないかと私は思います。ただ、私たち「だけ」では、その考えをゆがみなくとらえ、それを健全に運用するのは非常に難しいというのが、人間が営んできた歴史が証明しているのです。
 
だからこそ、神がこの世界に対して言わんとしていることを、丁寧に、丹念に聖書の言葉から聴き、神へ祈りつつ、聖霊の助けをいただきながら歩むことの大切さを、今日のふたつの聖句から黙想させられました。そのような思いをもって、今週も歩んでまいりたい。そのように思わされました。
 
まだまだ寒い日が続きます。どうか皆さんの日々が、健康が神によって支えられますように。皆さんの主にある守りと祝福を心からお祈りします。

24/01/2026

2026.1.24(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書30章20節
その集いは私の前に揺るぎなく建てられる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章20節
あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石はキリスト・イエスご自身です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間の旅路はいかがだったでしょうか? 七日間を振り返りつつ、新しい週への備えとして、この一日もまた神とともに歩む幸いを感じるときでありますように。ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「確かな土台」でした。私たちはそのような土台のうえに建てられていれば、たとえ私たちを揺るがす出来事が起きたとしても、それに揺らされながらも、たとえいささかの不安や恐れを感じることがあったとしても、究極的に破壊され、崩れ去ることはないのだということを、神は私たちに伝えようとしているのです。
 
それが、今日の新約聖書の言葉である、エフェソの信徒への手紙のなかでは「隅の親石」と呼ばれているわけです。建物を支えるためには、四隅をしっかりと支える土台の存在は不可欠です。たとえとして適切かどうかはわかりませんが、数年前に熊本を襲った大地震の際に、熊本城の石垣の多くは崩れてしまいます。しかし、四隅の角にあたる石垣だけはしっかりと建物を支えたため、建物の崩壊を免れることができました。「奇跡の一本石垣」と呼ばれ、ときの話題となりました。
 
パウロは、その隅の親石こそ、私たちの命の救い主であるイエス(キリスト・イエス)であると手紙にしたためました。私たちの心身に災いが襲うのは避けることができなくても、そのたびごとに、イエスがしっかりと私たちの心と身体を、聖霊様の守りをもって支えてくださるというのです。こうして私たちは、その守りによって生き抜くことが可能とさせられるのです。
 
そのことはいにしえから、神の言葉を伝え続けてきた預言者などによって受け継がれてきました。今日の旧約聖書の言葉はまさに、預言者であったエレミヤによって語られたものです。ご自分とともに歩む者の足取りがしっかりと守られているのだという神の思いが、エレミヤによって語られました。ひとりだけではない。ひとつの願いによって支えられた人々が、共同体としてその幸いをいただくことができるのだと。エレミヤの時代ならばそれはユダヤの民であったし、現代であれば、キリストによって構成された信仰共同体であると言えるでしょう。
 
今週も神によって守られたことを振り返りつつ、想い起こしながらその恵みを味わい知ることができますように。皆さんを守ってくださる神である主が、今日もそのことを想い起こさせてくださいますように。お祈りします。

23/01/2026

2026.1.23(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章18節
主は代々とこしえに治められる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章33節
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
寒波が全国各地に大雪などをもたらしているなかで、生活の支障をお感じになられている方も多くあることかと思います。仙台は雪の被害こそはありませんが、とても寒い朝を迎えました。体調と健康が今日も守られますようにと祈ります。そして、病中のなかにある皆さんもまた、一日も早く回復しますようにと、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神による永遠の支配」についてです。そのことの黙想をつづりたいと思います。
 
神が永遠に私たちの世界を統治される、ということへの信仰を神からいただいて、私たちの生きる中心に据えるという営みは、聖書に描かれている歴史を貫いて、大切にされてきたことがわかります。それを心の糧として、希望の源として歩んできた信仰者の歴史というものを、私たちは受け継いできましたし、それを次の世代に継承させるという務めを担っていると言えるでしょう。
 
「信仰の継承」という言葉があります。自分がいただいた信仰のバトンを、いかに自分の後の世代に受け渡すことができるだろうか、という問いがあります。しかし、その問いに応えるべく、信仰を継承させるということが、いかに困難なことであるかということは、継承の当事者としての経験のある方ならば、痛いほどご経験されているのではないかと思うのです。
 
宗教2世問題というものがあります。あまりにも強権的に、たとえそれが真剣さゆえの結果であったとしても、その抑圧的な振る舞いが、継承の受け取り手である2世の思考や行動、人生に悪影響をもたらしてしまうときに、そのような呼ばれ方で問題化していることをご存知かと思います。そういうことを踏まえれば、信仰の継承などと、言葉では簡単に言えるかもしれませんが、その方法も含めて、そのことが決して容易などではないのだということを、私たちに強く認識させているのです。
 
だからこそ、私たちに必要なものとは何か。今日の聖句にある通り、「神が歴史を貫いて、私たちを治められている」ということへの信頼に尽きるのでしょう。神が私たちのために生きて働いておられるということを、私たちがいかに真摯に受け止めていて、その真摯さに裏打ちされた生き方を私たちが大切にしているか、ということが問われています。つまり、信仰を継承するためには、まず自分自身が神のご支配のなかで幸福に生かされているだろうかということが問われているのです。
 
神は、私たちに幸福を与えるために、私たちを治められます。だから、私たちが神とともに歩むということが、幸福と逆行するような思いを抱くような出来事があるならば、その原因がどこにあるのかということを、自分の置かれた状況をじっくりとながめながら、検証することが必要なのだと感じさせられます。だからこそ、自分自身の生き方が問われているということができるでしょう。
 
私は教会という場を通して、神が私たちにご自分の平安を授けてくださることに信頼をもって応えるという務めが与えられていますが、そのためには、自分自身のあり方というものが神のそのような願いを受け取ることへの幸いを、常に確認しながら歩む者でありたいと心から願いますし、そのために謙虚な思いをもって、神の語りかけに謙虚に応えていきたいと、今日の聖句を通してあらためて思わされた次第です。
 
少しでもゆがみなく、自分の務めというものが、神の喜びに裏打ちされたものであることを心の糧として、今日の一日も歩んでまいりたいと思います。皆さんが神の平安によって、少しでも健やかに歩むことができることを願いつつ、祈りつつ歩むことができますように。心からお祈りします、

22/01/2026

2026.1.22(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編107編3,8節
(主は)国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
主に感謝せよ。その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章12~13節
あなたがたは世にあって希望を持たず、神もなく生きていました。しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
私にとって、昨日はいろいろなことを考えさせられる一日でした。「宗教」とは何だろうか? ということをです。人を幸せにする力もあれば、凶器となっていろいろなものを犠牲にすることもできる。何事も諸刃の剣のようなものを抱えながら、この世界に存在しているのだとは思うのですが、宗教に関しては、私たちの固定観念というものがどうしても、その本質を見るという感覚を鈍らせてしまうのだろうかと痛感しました。昨日地裁判決の出た、安倍晋三元首相銃撃事件の被告をめぐって、この世の中の反応を見て思ったことでした。
 
そのようなことを考えたときに、こうして日々与えられる聖書の言葉を通して、私たちは何を考え、何を思い、何を願い、希望としていくのだろうかということに、我が事として問いかけてみたいと思わされるのです。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が思ったのは「キリストに近くされた者でありたい」ということでした。
 
私たちは「キリスト教」というひとつの宗教の枠内で生きています。キリスト教という宗教が、2000年の歴史のなかで「本当に大切にしてきたこと」とはいったい何なのか? そんなことを考えるときに、上記の「キリストに近くされた者でありたい」ということに生きる希望を置いて生きることに尽きると私は感じていますし、皆さんもそのような憧れというものを抱きながら、自分たちの信仰を大切にしているのではないかと思うのです。
 
キリストに近い者とされるとは、究極的にはキリスト(救い主)であるイエスが指し示してくださった生き方というものを、自分自身の生き方とするということなのだと私は受け止めています。そのことをもっと知りたい、もっと自分自身の生きる柱にしたいからこそ、聖書の言葉にじっくりと聴いて、自分自身のなかで葛藤し、ときには対立し、もがきながらもあこがれることを決して忘れることなく、神から助けていただきながら一歩一歩ずつ歩んでいきたいと。キリストの血をいただいた者としてです。
 
キリストの価値観を自分のものとして生きることの幸い。今日の聖句を通して私の希望としたいと思わされたことでした。宗教が形骸化せず、さして本質でもないことを宝物のように掲げるのでもなく、神が与えてくださる希望に自分自身の心を向けて生きてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神がイエス・キリストを通して与えてくださる希望に満ちあふれることができますように。心からお祈りします。

21/01/2026

2026.1.21(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編42編3節
神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章6~7節
それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
大寒波が日本を襲っています。そのことによって差しさわりがあると思います。そのようななかで皆さんの安全が守られますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「見えない神を見える神とする」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが人を見るように、神の姿かたち、その表情や声に触れることができたら、どれだけ安心できるだろうか。そのように思うのは私だけではないかもしれません。私たちは誰でも、与えられた五感を通して安心できる部分があるからです。
 
しかし、神をこの世で出会う物事のように、五感で感じ取ることは大変難しいと言えます。だからこそ、私たちには「第六感」、つまり霊的な感覚というものをもって、神を感じ取ることができるのです。これは聖霊の授与と導きによって、私たちはそのような感覚を神からいただき、それを感じ取ることができるのです。こうして、神が私たちとともにおられることを私たちが自分自身のものとすることができるとき、それが「信仰」であり、その信仰によって人生の旅路を神とともに歩むことができるのです。そのことを、使徒パウロは手紙に書きしたためました。
 
物理的に神を見ることができなくても、心配ないのです。安心してくださいとパウロは手紙の読み手に示しました。私たちが生きることに渇きを覚え、神と出会えないことに苦しみを覚えても、神は見えないところで私たちのために働いてくださるというのです。そのことを希望として、私たちはいただくことに何の妨げもないというのが、神がご自分の言葉を通して伝えようとするメッセージなのです。
 
神が見えない、自分の苦しみに応えてくださらない。心配でたまらないときにこそ、聖霊が私たちのために働いてくださいます。私たちの第六感に働きかけてくださいます。そのことを祈り、神に語りかけてみたいと思います。必ずなんらかの形で、神は応えてくださるでしょう。そのことを私たちの希望とすることができますように。私たち一人ひとりの安心が豊かにありますように。心からお祈りします。

20/01/2026

2026.1.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章6節
夢が多ければ、ますます空しくなり、言葉も多くなる。神を畏れよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章16節
私たちが、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神が与えてくださったこの一日が、私たちにとって無くてはならないものとなりますように。新しいひとつひとつの出会いに、神が私たちに喜びを与えてくださるものとして、私たちを導いてくださいますように。祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちの想像を超えて」とおいうものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、コヘレトの言葉(伝道の書)でした。賢人によって書かれたこの書物には、私たち人間の現実と空虚さ、その空しさのなかで神が私たちのことをどのようにご覧になられ、私たちに祝福された人生を与えてくださるかについてつづられています。
 
夢が多ければとあります。夢を持つことそれ自体は、決して悪いものではありません。ここで言及されている夢とは、神が私たちの人生を支え、導き、祝福と幸福をお与えになられる方であるということへの深い信頼をそっちのけにし、ないがしろにして歩もうとする人間の空想や夢想のことを指しています。
 
そのような夢想や空想は、神が与えてくださる言葉を自らのなかから排除して、自分自身の野望を「神」になったかのように饒舌に語るのだという、賢者の観察がつづられているのです。賢者は、私たちの夢や希望というものは、神の指し示されるものを理解しようとする態度、それを胸にして歩もうとする態度があってこそ、はじめて夢や希望が明らかなものとされるのだということを、私たちに知らせているのです。
 
そのことをより明らかにしてくださったのは、神が救い主として与えてくださったイエス・キリストでした。イエスが私たちの生活のただなかに現れたとき、私たちの想像をはるかに超越する出来事を、また私たちの心を超えて多くの希望に満ちふれた言葉を語られました。それらは嘘いつわりなく、確かに私たちの心を平安なものに導いてくださいましたし、それは現在にいたっても、実際に何の変わりもない良いたよりとして、私たちが受け取ることのできるものなのだと、「ペトロの手紙」を記した著者は書き記したのでした。
 
空しくなるような作り話ではなく、主イエスが私たちと、そのお名前をもってともにいてくださる。そのことを胸に抱きつつ、今日も希望にあふれた一日でありますように。心からお祈りします。

19/01/2026

2026.1.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下18章4節
どうかまず主の言葉を伺ってみてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章63節
(イエスの言葉)私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週はとても寒くなるという、仙台の天気予報です。本格的に冬らしい冬を迎えるのは、決していやなことではありませんが、それでも何かと健康が損なわれやすい時でもありますので、健康に留意しつつ過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「神の御心に聴く」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、歴代誌下18章の言葉ですが、イスラエル王国が南北に分裂してそんなに時が経ってない頃、南イスラエル(ユダ王国)の王であったヨシャファトによって語られたものです。彼は神に忠実な態度を示し、善政を実行した人物として知られています。
 
そのヨシャファトが物事を決める際に大切にしたことは、「私がどう思うか?」ではなく「神である主はどう思われるか?」ということでした。彼はよく知っていました。人間の願望よりも、神の願いのほうが必ず平和をもたらすということをです。人間の判断は時として状況を狂わせ、ゆがみを生じさせます。それによって犠牲を生むことすら往々にしてあるのです。「これこそ神の願いである」と思い違いしたり、場合によっては自分の願望を神の名を借りて、知らず知らずのうちに悪用してしまっていることすらあるのです。
 
だから、私がどう思うかではなく、神がどう思われるのかということに、自分自身の思いや考えを集中させることが必要なのです。そのために、神の言葉である聖書の言葉が私たちに与えられているわけですが、私たちに求められているのは、その本質を見極められるような読み方をすることです。神が送ってくださる聖霊の助けがどうしても必要です。しかし、その聖霊を盾にして、自分自身の願望を神の意思とすり替えてしまうことも往々にしてあるのです。気を付けなければならないことなのです。
 
イエスは言われました。「私の言葉」と。イエスが私たちに示してくださった言動のひとつひとつの本質というものを、私たちは是非大切にしていきたい。これが改めて私が思わされたことであり、黙想でした。
 
今日の一日が、皆さんにとって平和をもたらすものでありますように。心からお祈りします。

18/01/2026

2026.1.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章17節
(主の言葉)私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙二3節
父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。今日、世界中の教会や集会で行われる主の日の祝祭、礼拝のすべてに、神が私たちに臨んでくださいますように。それぞれの営みを祝福してくださる神に感謝しつつ、今日もローズンゲンに示された神のみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私にとって平和と正義とは?」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者イザヤによって語られた、神がもたらしてくださる新しい世界のおとずれについて描かれたシーンです。そのなかで神は、その世界に住む私たち人間に対して、「管理者」かつ「監督者」を私たちのために置くと仰せになりました。では、管理者とは誰でしょうか? 監督者とは誰のことでしょうか? それが「平和」と「正義」であるというのです。
 
私たちのなかで、平和を愛さない人はいないでしょう。正義を嫌う人もいないでしょう。しかし、自分が愛してやまない平和や正義がどのようなものかということを、私たちはじっくりと考える必要があるのだと思います。人を殺し犠牲を生むことで、平和や正義を実現しようと考えている人たちもいえるのです。これが、本当にイザヤ書で触れられている平和や正義のあり方なのでしょうか?
 
私は、人間の歴史が平和や正義というものを追求するなかで、多くの犠牲というものが確かに存在していたことを思わずにはいられません。平和を愛している、正義の正統性を振りかざしながら、結局のところ、人のことなどお構いもなく自分自身の欲求をまき散らしているだけなのです。そうではないのです。私たちを監督し、管理する平和や正義は、あくまで神由来のものであることを、私たちはどれほど自分自身のものとしているでしょうか?
 
神の平和、そして正義というのですから、それが何かを私たちは知り、そして私の生き方を神が願うような平和と正義があふれるようなものとすることこそ、私たちの健やかな日々へと神が導いてくださるということを受け入れたいのです。
 
そして、それは具体的に、神がイエス・キリストを通して示された「恵みと憐れみと平和、真理と愛」であるというのが、今日の新約聖書の言葉が指し示しているものであるということを、私たちは是非胸にして歩みたいのです。そんなことを黙想しました。
 
皆さんの新しい一週間のスタートが、神の平和と正義に支えられたものでありますように。心からお祈りします。

17/01/2026

2026.1.17(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編91編9節
主はあなたにとって確かな方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章47節
(バルティマイは)ナザレのイエスと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
一週間も最終日を迎えました。私たちはこの七日間の旅路をどのように過ごすことができたでしょうか? 私たちとともに歩んでくださる神である主が、私たちをどのように養い、導き、先導者として伴走者として歩んでくださったでしょうか? そんなことを思いのなかで巡らせながら、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴こうと思います。
 
今日の聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「憐れみをもって私たちを守られる神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編91編9節の言葉を歌った詩人は、神のことを「確かな方」と呼んでいます。何が確かなのでしょうか? 
 
『日々の聖句』では、原版である『ルター訳聖書2017年版』からの翻訳です。そのうえで、日本語訳聖書では、この部分を「逃れ場」「避け所」という日本語で翻訳しています。つまり、神が何において私たちにとっての確かさを感じさせるのかということを考えたときに、それは、私たちを徹底的にご自分の思いや願いで、その人生を守ってくださることに対して、その確かさを賛美していることがわかります。
 
私たちは神を信じて歩んでいても、自分自身の思いや願いが叶えられず、神が自分の苦悩に顔を向けて下さらないように感じることがあるでしょう。その時に、私たちは神に見捨てられたような感覚に陥るでしょうか? 神が私たちを守ってくれないと感じるのでしょうか? 神は私たちの「欲求」に必ずしも応えられるわけではありません。しかし、私たちが本当に「必要」とすることには、ご自分の意志とその価値観をもって私たちを安全な道へと導いてくださるのだ。これこそ、この詩編の一節を通して私たちが感じ取ることができるメッセージなのだと、私は受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、盲人であるバルティマイがイエスに対して、自分自身の眼が見えないという苦悩を憐れんでほしい。そのような願いが込められたバルティマイの懇願のひと言です。これはバルティマイの切なる「欲求」に他ならないでしょう。しかし、欲求だけではありませんでした。バルティマイが神とともに歩みたいという切なる願いが、彼の人生にとって必要なものであることを、バルティマイは心のどこかで感じていたのかもしれませんし、何よりもイエスが彼にとって、これは必要なことなのだと感じておられたのです。だからこそ、イエスはバルティマイの眼を癒やされました。バルティマイが神を賛美することができるように、その必要を現実のものとされたのでした。
 
私たちの「必要」とは何なのか? それは私たちにとって神は、確かに私たちの人生を大切に守り、それを導かれる方であるという、私たちの人生の「必要」である。そんなことを私自身胸にして、一週間の振り返りを行いたいと思わされました。
 
どうか私たちの必要をご存知である神が、私たちの欲求がどこにあるのかを識別し、私たちにとって本当に必要なことを指し示してくださいますように。その必要を大切に守り続ける心と思いを、神が与えてくださいますように。心からお祈りします。

16/01/2026

2026.1.16(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章23節
あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一12章13節
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も目覚めとともに、神から生きる命が与えられました。この一日をともに歩んでくださる神が、私たちの行く道を幸いなものへと導いてくださいますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに指し示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「どんな者でも」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ゼカリヤ書8章23節の後半部分でした。前半部分を読むと、さらに理解が深まると思います。このようにあります。
 
万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言語の諸国民の中から、十人の男たちが一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。』」
 
一緒に行かせてほしいと願ったのは「あらゆる言語の諸国民」でした。そして願った先は「ユダの人」でした。裾をつかんだと聖書には記されています。十人の者が一人の人間の裾をつかんで願ったとあります。ユダ(ユダヤ)は、世界にあるひとつの国に過ぎませんでした。それも決して目立つことのない小さなところに、周囲の者たちが「一緒に歩ませてほしい」と懇願している姿を、私たちはイメージすることができます。
 
この言葉は、ユダという単一民族の宗教であったユダヤ教、そしてそこで崇拝されていた父なる神が、決して限定された神ではなく、大勢の諸国民のための神でもあることを私たちにイメージさせるものであると言えるでしょう。そのことは、後に私たちの前に与えられたイエスの生涯を通して明らかにされていくのです。万民のための命の救い主なのだと。
 
神は誰でも、その話を聴き、一緒に行かせてほしいと願うところには、私たちの神でいてくださいます。そもそも万民のための神なのです。大切なことは、私たちがそれに気づき、それを受容できるかどうかというところにあるのだと思います。そうなったときに、神の願いと人間の思いというものが「一つとさせられる」瞬間なのでしょう。
 
そのことを具体的に示した聖書の言葉が、今日選ばれた新約聖書の言葉なのです。どんな者でも、民族や立場にかかわりなく、私たちは神の霊の働きによって一つとされたのだと、この手紙を書いた使徒パウロは私たちにその思いをつづっています。
 
一つとなるとは、私たちの努力や意志、共通する趣味や好みによるのではありません。もちろん、ある程度一つとなることはできるでしょう。しかし、どうしても「無理をしてしまう」のです。無理がたたれば必ずゆがみが生じます。疲れます。究極的に、私たちの努力だけでは決して一つとなることはできない。これが聖書の語るメッセージなのです。
 
神がお与えになる言葉によって、その言葉に聖霊様のお働きが十分に込められ、私たち一人ひとりをご自分の価値観で一つとしてくださるのです。今日の新約聖書の言葉は「洗礼」を受けた根拠がパウロによって記されていますが、それは、私たちと神がひとつにされるのもさることながら、同じ価値観によって養われるところには、どんな者でもその価値観を共有し、そのうえで個々人に与えられている、きらりと光る個性を尊び合う社会というものが生み出されるのだと。これこそ、パウロの書いている「(キリストの)体」である教会の真髄なのだと私は受け止めました。
 
教会でも、家族でも、ひとつの価値観によって集められるところには平和が宿る。齟齬があったとしても、それをお互いに修正されようという力が必ず働きます。誰かが割を食ったり犠牲になったりする必要はどこにもないのです。それが神の願いなのですから。
 
今日も私たちの生活が、神の価値観によって整えられ、幸いな道をそれぞれが歩むことができますように。祈りつつ歩みたいと思います。神の大きな助けによって。

15/01/2026

2026.1.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編95編1節
さあ来て主に向かい、喜び歌おう。
私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録15章4節
あらゆる国々の民が来て
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが
明らかにされたからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
寒くなったり暖かくなったり乱高下を繰り返してる最近ですが、そんなときにこそ、私たちの健康が守られますようにと祈るばかりです。どうぞ今日の一日も、皆さんの生活を守り、導いてくださる神である主が、皆さんとともにありますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「『岩』としての神」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
岩とはなんでしょうか。私のイメージする岩はふたつです。ひとつ目に「強力である」こと、ふたつ目に「私たちの隠れ場である」ことです。その岩が私たちの神を比喩するものとして描かれているということに、私たちのイメージを寄せたいと思うのです。
 
実際にこの言葉の原語であるヘブライ語「ツール」も、同じような意味があります。岩の持つ頑丈で強いイメージ、その頑丈で強力なものをもって私たちを守るというイメージです。私たちの日々出会う出来事のなかで、神とともに歩みたいという思いを削ぎ、損なわせるようなさまざまな力から、しっかりと私たちをガードして、私たちに心に安らぎを与えるのが、岩である神御自身であるというのです。
 
だから、そうしてくださる主に向かって喜べるのだと。この喜びはいつも明るく快活で、元気そのものという姿を人に見せられるものというよりは、どんなに辛いことがあったとしても、神が必ずこの苦しみを分かっていてくださる。一緒にいてくださるのだという安心感ゆえに生み出される「内なる喜び」なのだと私は受け止めたいのです。こうした内なる喜びが、時に表出したときに、それが私たちが分かち合うことのできる、結果としての喜びなのでしょう。
 
そう考えると、私たちの喜びとか賛美といったものは、もちろんそういう姿が他者に良いものも与えることは間違いないのですが、それらの「雰囲気」というものが、結果として「そうしなければならない」という押し付けであったり、同調圧力を生むような要素となってしまうのであれば、その喜びは喜びでなくなってしまうのです。あくまで、神との深い関係性によって、私たちの心からにじみ出るように生み出されるもの。それが喜びなのだと受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、ヨハネ黙示録の一節でした。あらゆる国から集められた神の民が、どうして喜ぶことができたのでしょうか。「神の裁き」が明らかにされたからです。このときに、私たちは裁きという言葉を、悪を撲滅するという意味だけで用いていないことに注目したいのです。裁きとは「公正かつ公平な判断」のことであり、そのような神のご判断が明らかにされたときに、私たちが大いなる岩によって守られていることの実感がわいてくるのでしょう。その結果、喜びに満ちあふれるというのです。
 
こんな類の喜びが、今日も私たちの生活を豊かなものとしてくださいますように。その喜びを私たちに感じさせてくださる神に感謝しつつ。皆さんの平安を心からお祈りします。

14/01/2026

2026.1.14(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編34編6節
主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録5章19~20節
夜の間に主の天使は牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
一週間も中日を迎えました。今日一日起きることが、皆さんにとって神の恵みと慈しみを感じ取れる場面が、ひとつでもありますように。そのことを心から願いつつ、お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神である主とともに歩むために」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖霊の力を受けた使徒たちが、神に仕え隣人に仕えることを自らの使命とした結果、多くの人たちの人生が幸いなものに変えられていった結果、それを見ていた時の宗教指導者たちの妬みを買うことになりました。そして、ペトロをはじめとする使徒たちが投獄されてしまったときに、神が天使を通して語りかけられたシーンの一節です。
 
神は彼らを牢のなかに閉じ込めておくことを許されませんでした。そして、一人でも多くの隣人たちの命が幸いなものに導かれるために、神殿の真ん中でご自分が授けた言葉を、その言葉をもって救いの道を与えられた救い主イエスを、余すところなく人々へ伝えて、ともに分かち合いなさいと告げられました。
 
そんなことをしたら再び宗教指導者たちの妬みを買うのではないか? そう思ってしまいます。実際に、使徒たちが再び神が与えられる恵みと慈しみの言葉を大胆に告げようとする使徒たちを、ひっ捕らえようとします。しかし、彼らはその話を聞きたいと心から願う人々の逆襲を恐れて、手荒なことをすることはもはやできませんでした。
 
宗教指導者たちの、使徒たちに対する妬みは最高潮に達します。殺そうとする思いすら、彼らのなかには芽ばえたくらいです。しかし、良心ある宗教指導者の対応に、彼らは使徒たちに対して最低限の脅しをすることしかできなかったのです。こうして、使徒たちが神の言葉を人々に伝え続けることを、誰もが阻んだり差し止めたりすることができなかったことが、今日の聖句の続く部分に記されています。
 
ここで、神の言葉が神の言葉として明らかにされることを良しと思わない、あくまでそれに抵抗し続けようとする人間の本心というものがあらわにされます。そのような抵抗は、人間の「嫉妬」によるものでした。しかし、そんな人間の妬みが神の思いを打ち砕けるはずなどない。神はそういう思いによって、神とともに歩みたいと願う人たちが押しつぶされてしまうことのないように、しっかりと支え、神とともに歩みたい願いを守られたのでした。
 
それはまさに、今日の旧約聖書の言葉にもある通り、神は、ご自分とともに歩むことを心から願う人たちに陣営を敷かれ、しっかりとその心と体を守られると歌った詩人の言葉に相通じるのです。
 
私たちは、さまざまな人間関係のなかで、感情のゆらぎというものを感じることがあります。その揺らぎは時として、神とともに歩む思いすら削いでしまうこともあるでしょう。そうすることが恐ろしくなってしまうのです。こればかりは、私たちの心からわき出る正直な思いですから、決して否定するものではありません。そう思っちゃうのだからしょうがないのです。
 
しかし、私たちが本当に神とともに歩みたい。神から良いものをいただいて日々をはつらつと幸いなうちに過ごしたいと心から願うのであれば、その願いを神が捨て置かれるはずがないのです。私たちの心をすべてご存知である神が、私たちの願いを幸いなものへと必ず導いてくださる。その神のなさることに、信頼をもって応えていくことは、まさに神の助けをいただかないと不可能なことだと私は思いたいし、信じたいのです。
 
今日も私たちに神の言葉が与えられました。この言葉によって慰められ、そして励まされながら、一日の旅路を踏みしめてまいりたいと思います。必ず神が助けてくださることを心から信じつつ。皆さんの主とともにある平安を、心からお祈りします。

13/01/2026

2026.1.13(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章30節
主の仰せ。私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章23節
イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。今朝も寒い朝を迎えました。昨日は、この春から同業の友となる若いおふたりの結婚式に参列しました。和私も自分たちのことを思い出しながら、思いを新たにすることができて本当に感謝でした。先ほどの夜行バスで仙台へ戻ってまいりました。夜中でも移動できるので、とても楽です。今日も神とtもに健やかに生きてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の言葉に聴くとは、結局なんなのか」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の言葉を「守る」と聞くと、法律の条文を守る、ルールを守る、約束を守るなど、さまざまな守るという言葉と重ね合わせながら考えることがあるかもしれません。しかし、私は思うのです。神の言葉を守るということを考えるときに、法律やルール、約束を守るという「行動」に重視するあまり、その根底にある「精神」のようなものが置き去りにされてしまうことはないだろうか? そんなことを思わされました。
 
守るとは「大切にする」という意味があります。たとえば「礼拝を守る」という、私にとっては不可思議な教会用語がありますが、「礼拝(すること)を大切にする」と聞けば、私たちはその意味というものを理解できるのではないだろうか。そう思うのです。つまり、神から与えられた言葉を「大切にする」と聞けば、大切だと受け止めた私たちが、ではどのように大切にしていることを表現できるか、ということを考えられるのだと思います。その表現方法は、まさに千差万別だと思います。ただ、「大切にしている」という点においては、それは「ひとつになれる」ことなのだと私は思うのです。
 
行動という事柄だけを重視する前に、その根底にある精神に心を配ることの大切さと幸いというものを、私はじっくりと考えていきたいと思ったのです。私たちは他者の心を見透かすことはできません。見た目で物事を判断して、評価する存在です。もちろんそういうことの良い面もあるでしょう。しかし、見た目だけで物事を判断し評価しようとすると、そこにはさまざまな歪みが生じるというのが、私が考えていることです。
 
だからこそ、私たちの心の内奥まですべてご存知であり、そのうえで私たちを大切に「守って」くださり、私たちにご自分の言葉を、私たちの必要のために与えてくださる神がおられるということを、私たちはどのように受け止められるだろうかということを、じっくりと考えたいのです。イエスは、その根底にあるものは「神の『愛』」であることを知らせました。ですから、神の愛をともなわないような神の言葉の守り方は、結局のところ、神の言葉を守っているとは言い難いのでしょう。私はそう受け止めたいと思いました。
 
神の言葉に指し示された精神を、神の私たちに対する愛のまなざしを大切にしつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、愛の神の守りがともに、豊かにありますように。心からお祈りします。

12/01/2026

2026.1.12(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下14章10節
主よ、あなたには、弱き者を強き者に抗して助けることも難しいことではありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書9章42節
イエスは汚れた霊を叱り、子どもを癒やして父親にお返しになった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
三連休の最終日、それぞれの一日を楽しまれることと思います。皆さんが事故なく、おだやかに今日の日を過ごすことができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「弱いところに目を向けられる神」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、南イスラエル王国(ユダ王国)の統治者であったアサ王の、神への告白と嘆願の言葉が選ばれました。遠くアフリカより、ユダヤを攻めようとする大軍を前に、アサ王は人間的な力ではどうすることもできません。王という立場にありながら、王として何ができるだろうか。無力を痛感するなかで、彼は神に嘆願しました。
 
アサ王にできることは、ただ神の助けを乞うことでした。アサ王は自分自身の弱さというものを知っていたからこそ、その弱さを隠すことなく、弱さに卑屈になることもなく、神の御前に自分自身の弱さというものをさらけ出して、神の助けを望み、そして神に全幅の信頼をもって告白したのでした。その結果、アサ王は神の助けによってこの困難を乗り越えることができたのでした。
 
私にとって難しいと思えることでも、神にとっては難しいことではないというアサ王の告白は、まさに私たちと神との関係にも相通じるメッセージであることを受け取りたいのです。もちろん、行動するのは私たちです。しかし、その行動をご自分の価値観で支え、導き、助けてくださるのは神なのです。私たちは、いかにそのことに心を寄せて生きることができるのか。今日の聖句はそんなことを私たちに問いかけているような気がしてなりません。
 
息子の奇病のために八方手を尽くしても、何ら改善を見ることがなかった父親の嘆願が、その場に遭遇したイエスに向けられます。まさに藁をもすがる気持ちであったに違いありません。父親は息子の弱さとともに、自分自身の弱さをも抱えて、イエスに向かって言ったのでした。そういう弱さの告白を、イエスはしっかりと受け取り、その弱さに報いられたのです。息子の病はしっかりと癒されて、父親に平安と喜びとともに息子との生活を回復させたというのが、今日の新約聖書の言葉です。
 
弱さとは何か。自分自身のうちにある弱さというものを、私自身が見つめるときに、その弱さをすべてご存知である神がともにいてくださる。ここに希望を抱きつつ、神に私たちのまなざしを向けることができますように。今日一日の歩みを、神がしっかりと導いてくださることに、私たちの心が素直になることができますように。お祈りします。

11/01/2026

2026.1.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編50編1節
全能者なる神、主は詔(みことのり)して、日の出るところから日の入るところまで、あまねく地に住む者を召し集められる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書16章15節
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。どうかこの七日間の旅路も、私たち一人ひとりが神である主が授けられる言葉によって、健やかに生かされますように。そのことを願いつつ、私たちひとりひとりも、神の言葉に耳と心を傾けることができますように。祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
今日の聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「誰が、神の国の良いたよりを伝え、教えるのか?」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書は詩編の一片の言葉でした。神が私たち一人ひとりを招き、集めてくださるということを、神御自身が私たちに宣言された(みことのりするというのは、神がお告げになられたという意味)。そのことを詩人は神への賛美の思いを込めて歌いました。
 
神が集めてくださるのです。ですから、神の世界を伝え、教えるのは、まさに神御自身による業に他ならないのです。そのために、神の言葉である聖書が私たちに与えられ、その言葉がより具体的に体現されるために、命の救い主イエスが私たちに与えられ、そのイエスが神のもとに帰られた後でさえも、私たちを守り、神の価値観へ導くために聖霊が与えられ、その価値観を知り、共有することができるように、父なる神・子なるキリスト・聖霊の有機的なお働きによる教会が誕生しました。
 
今日の新約聖書に示されたイエスの言葉にもありますように、教会はその神の働きをあまねく全世界へ伝えなさいというご命令を受け取り、それを果たす使命を教会の最も大切な務めとしています。こうして伝道の業が生まれ、神の価値観を受け取った人たちが、全生活においてその価値観を自分自身のものとすべく、神とともに生活を営むことで、神の国に向かってその旅路を歩んで行くことができるのだと。今日のふたつの聖書の言葉は、そのような関わり合いを持ちながら、私たちに語りかけているのだと私は受け止めました。
 
そこで、ひとつ考えたいと思います。神の国の良いたよりを告げられるのは神御自身のお働きなのだから、私たち人間は何もしなくて良いのか? 逆に、神の国を伝えることを委ねられた私たちが、神の価値観を問うこと無しに、勢力拡大のごとく、教会の規模拡大だけを目指して歩むべきなのか、という問いがあったとしたら、私たちはどのような態度を抱くべきなのでしょうか。
 
確かに、イエスは私たちに「全世界に行って宣べ伝えなさい」というご命令を与えられたのですから、それを受け取った私たちが、そのご命令を担うことは大変重要なことと言えます。ただ、それはあくまで、父・子・聖霊なる神が私たちを呼び集め、ご自身の価値観というものを明らかにされたことに基づいて、神の助けをいただきながら、神とともに、あくまで神が私たちの言動をも、ご自分の価値観で導かれることを受け入れて歩むことが大切なのです。だからこそ、神に責任をすべて押し付けることも、また神をないがしろにして宣教をすることも、私たちにとってはあり得ないことなのです。そのあたりのバランスというものを、じっくりと私たちは反芻しながら、今日も礼拝やその他のできごとを通して、神の国の喜びを味わい、それを分かち合っていきたいと願わされました。
 
今日、世界中で行われる主の日の礼拝が、神の国の先駆けとして、私たちの心に安らぎと潤いを与えるとともに、神とともに生きる原動力の機会となりますように。皆さんのために、そして私自身のためにも祈りたいと思います。

10/01/2026

2026.1.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記22章29節
今日、私たちが主に逆らって、主から離れ去ることなど、私たちがするはずがありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章16節
自分のことと教えとに気を配り、それをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。年明けの初週ということもあり、慌ただしくもあったかもしれません。寒い毎日も続きました。ここまで神が私たちを導いてくださったことを喜び、また感謝しつつ、今日も神の言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「主とともに生きるために」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、年若い伝道者であったテモテに対して、年長者であるパウロが大切なことを伝え、教えることを目的として書かれた手紙の一節です。これが本当にパウロによって書かれたものであるかどうかという議論もありますが、少なくともこれからの時代を担う、成長著しい者たちに対して、大切なことを教えようというコンセプトがあることは間違いありません。私たちもまた年若い者となったつもりで、この手紙が語ろうとしているメッセージに、耳と心を傾けることができるのです。
 
「自分自身」と「教え」とに気を配るとあります。神がイエス・キリストを通して私たちに授けられた「良い教え」は、私たちの知識欲を満たし、教養を高めることだけにあるのではありません。そうではなく、自分自身に気を配りつつ、己の生き方を整えることに大きな意味があると言えるのです。自分自身の生き方というものを、イエスが抱き、与えられた価値観によって整えられたときに、私たちはキリストの香りを放つ者として、主とともに生きる幸いを味わうことができるというのです。
 
ですから、この手紙のなかでは、自分自身と教えとに気を配った結果として、「自分自身」と「あなたの言葉を聞く人々」を救うことができるとつづられています。私たち自身が、イエス・キリストの価値観によって生きようとする思いを、神は必ず祝福し、そのように私たちを整えてくださり、私たちが出会う人々ひとりひとりにも良い感化を共有できるのだということを、私は信じたいし、そうであって欲しいと心から願うし、そのように生きる者でありたいという憧れを、現実のものにしたいと思うのです。
 
私のことだけでない、私と関わる人々も神によって平和になれる。そのために、私がまず、神の良いものをいっぱいに受け取って、その指し示された生き方というものを自分自身のものとする。そのために御言葉に聴き、そして祈るという営みの循環を大切にしたい。そうすることで、キリストの教えが形骸化せず、いつまでも活き活きしたものとして、私たちの心に響くのでしょう。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルのそれぞれの地にあった者たちが、この地に導かれた神のなさることに喜び、感謝しつつ、その神に対して自らの決意を述べた言葉です。神である主に背中を向け、離れ去ることなど決してないのだ。そんな彼らの確固たる意志というものを、この言葉から読み取ることができます。そのためには、彼らが神の語り掛ける声に耳と心を傾け、そこに真摯に向き合って自分自身の生き方としたときに、このような告白の言葉が実質的なものとなっていったのでしょう。
 
この一週間を振り返って、私たち自身の生き方がどのようなものであったか。私たちはそのことを誠実に向き合って、神とともに生きる幸いというものを確認しつつ、新しい一週間に軸足を向けることができますように。皆さんの一日が神によって良いものとなりますように。心からお祈りします。

09/01/2026

2026.1.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章13節
私は彼らを慰め、悲しみに変えて喜びを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章7節
私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、皆さんの心と身体のすべてを神である主が守り、祝福してくださいますように。今日出会うさまざまな出来事、さまざまな人との関わりが、そのような神の守りと祝福によって支えられ、慰めを大いに受けることで、生きる力となりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワード、それは「慰め」です。慰めとは何でしょうか。国語辞典では「不満な心をしずめ満足させる。心を楽しませる。相手の悲しみや苦しみをなだめる。いたわる」とあります。そのすべての意味が、今日の聖句における慰めという言葉に表れていると言ってもよいでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉である第二コリント書の一節は、このような慰めが「希望」へとつながるのだということを、この手紙の著者であるパウロが明らかにしています。慰められるからこそ勇気づけられ、元気づけられて、それが希望に結び付くということを、私たちはよく知っていると思います。実際に「慰め」と訳されているギリシア語は「弁護者」という言葉と同義で用いられています。
 
イエスが弟子たちに対して、たとえ見える形であなたがたの前からいなくなることがあっても、あなたがたの苦しみをともにし、あなたがたを弁護するための助け主を与えることを約束されました。それこそ「聖霊」なのであって、聖霊が「慰め主」と呼ばれるのも、よく理解できるのです。
 
だからこそ、今日の聖句を読み解き、それを自分自身への言葉として染み入るものとするために、無くてならないのは「聖霊の助け」に他ならないのです。聖霊は極めて未来志向的なものであるから、慰めと希望というものは切って離すことのできない大切なものなのだと私は受け止めました。パウロがコリント教会における数々の困難のなかにあっても、それでも決して希望を忘れ去ることをしなかった。なぜならば、そこには聖霊による慰めがあったからです。
 
これは、辛酸を舐め尽くしたユダヤの民とて同様でした。苦しみの極みに立たされたときに、彼らにとってただ必要なのは、慰めとともに希望を与えてくださる神御自身が民たちとともにいてくださることでした。こうして、彼らは再生の道を神とともに歩む思いが高められていったのでした。
 
この慰めが、今日も私たちの生活を支え、その慰めを聖霊によって神が与えてくださいます。その助けが希望を生むことができますように。祈ります。

08/01/2026

2026.1.8(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記3章24節
主よ、あなたはその栄光と力強い御手とを、あなたの僕に示し始められました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章24節
(イエスの祈り)父よ、あなたが私にお与えになった者たちが、私のいる場所に共にいられるようにしてください。あなたが私に与えてくださった栄光を、彼らが見るようになるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も寒い一日ですが、どうか私たちの身体と心が神によって守られますように。私たちの神とともにある一日が、私たちの出会うすべての方々にとっても、大きな喜びとなりますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「私のためだけでなく」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトから40年間にわたる苦難の旅路を終えようとしているイスラエルの民を率いた指導者モーセが、神へ願いをささげているその冒頭の一節です。モーセはこの長い流浪の旅のなかで、つねに神が民たちにご自分の力強い御腕をもって導かれたことを実際に経験しました。そして、今や神が示された約束の地を目前にして、その神に向かって40年間を振り返りつつ、神に向かって自分の告白をしています。
 
今日の聖書の言葉のあとに続く部分で、モーセは「自分は是非約束の地にたどり着きたい」という思いを神に告白しました。しかし、神はその願いをお許しにはなりませんでした。モーセの切なる願いを、決して聞かれることはなかったのです。しかし、神はご自分の40年間んの導きを決して無駄なものにはされませんでした。モーセの後継者としてヨシュアを指名し、そのヨシュアに約束の地を渡らせるための指導者としてお立てになられました。
 
自分はその夢を叶えることはできませんでしたが、民たちにはご自分の約束を果たされることによって、ご自分の栄光を示されました。モーセの40年間を、そして人生の歩みを、決して無駄にはされませんでした。ここにこそ、神が世代を経てもご自分が民たちの神であることを明らかにされたのでした。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉にもよく表れています。今日の新約聖書の言葉は、十字架に架けられる前夜、イエスが神に向かって祈った、その祈りの一節が選ばれています。今や十字架に架けられて死の極みに立とうとされておられるイエスは、まさに神の栄光からは一番遠いように見える姿でした。しかし、ご自分の死を通して、遺された弟子たちが引き続き、いやそれ以上に神の力強い御手によって守られるように祈ったのでした。まるでその祈りは、モーセに対して神が示された姿に重なると私は受け取ったのです。
 
私自身の願いは願いの通りに叶うことがないかもしれない。しかし、神が人に対してなされた約束は、必ず何らかの形で継承され、果たされていくのだ。そのことに喜ぶ者でありたい。私はそんなことを今日の御言葉から受け取りたいと思いました。
 
こうしてキリスト教の歴史は2000年にわたって継承されてきたことを思うと、私のためだけではなく、神が愛しておられるご自分の民たちのためにもその力を余すところなく働かせてくださることを、私たちの希望としていきたいのです。そのことを信じて、今日も歩むことができますように。お祈りします。

07/01/2026

2026.1.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章11節
さあ、あなたがたの悪しき道から立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章21節
真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
とても寒い、氷点下の朝を迎えました。インフルエンザも流行していますので、身体に気を付けつつ、今日も健康が守られるように一日を乗り越えていきたいと思います。どうぞ皆さんの一日の健康と信仰が守られますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の方角をただ見つめて生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばは、預言者エゼキエルに語りかけられた神の言葉です。神がご自分の民イスラエルに対して、エゼキエルを通してご自身の思いと願いを、この言葉に込められました。そのメッセージこそ「神の方角へ向き直して、神のもとへ帰る」ことを、神が切に願っておられることだったのです。
 
「なぜあなたは死のうとするのか」と神は問われます。この言葉に私たちは問われていることを真剣に受け止めたいのです。どうして死に急ぐのか。神との別離と隔絶は、今イスラエルの民たちが経験している苦悩へと直結するものでした。故郷を離れ、バビロニア帝国の捕虜として数十年にわたる苦しみを味わわなければならなかったからです。
 
この苦しみは、神のくだした罰ではないと私は受け止めています。いわゆる民たちの「自業自得」なのだと。だから、自分自身のこれまでの生き方というものを精査することなしに、それを棚に上げて、神にその責を問うことは、実に本末転倒なのだと私は思っています。神のもとから知らず知らずのうちに、自らが心も体も離れていった結果、彼らは苦しみを得ることになったのです。
 
一番安全な道、平安な生き方は、死に急ぐことを決して望まれない神が放たれる光によって、自分自身の生き方を軌道修正することでした。ご自分のもとに帰られることを神は心から望まれて、エゼキエルを通してご自分の言葉を授けられたのでした。その言葉は、今もなお、私たちひとりひとりに語りかけられた言葉として、有効であるということに、私たちひとりひとりが受け止められるのだろうか? そんなことを私は真摯に受け止めたいのです。
 
私たちのために、闇夜に投じられた光とともにお生まれになられたイエス。そのイエスこそ「世の光」として、私たちの前にその生き方を示されました。イエスが私たちに示されたその生き方から、私たちは「神とともに生きる幸い」というものを、聖書のことばを通して丹念に聴き取り、自分自身の生き方にすることによって、「神の方角をただ見つめて歩む」ことなのだと思います。そのような生き方がもたらす幸いを、心から大切にすることができますように。

06/01/2026

2026.1.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編10節
あなたは荒れ狂う海を治め
高波が起こるとき、これを鎮めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章26節
イエスは弟子たちに言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ怖がるのか。」そして、起き上がって風と湖とを叱りつけられた。するとすっかり凪になった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、教会の暦に「公現日(栄光祭)」が位置付けられています。当方から来た博士たちが、乳飲み子イエスを拝みに来たことにちなんで、この日が設けられました。実際には、後の信仰者たちが設定したものですので、クリスマスから約2週間後の出来事であるかどうかの記述が聖書にあるわけではないのですが、聖書に記されたストーリーを自分たちの生活に取り入れようとした姿勢は、大いに学ぶところがあると私は感じています。イエスが私たちのあいだに明らかにされることの意味について、今日の一日、じっくりと思い巡らせたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「ざわつく心」でした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、詩編の一片でした。そのなかで「荒れ狂う海」という言葉が登場します。この表現について、他の聖書では「誇り高い海」と訳されていますし、「海の高まり」と訳されているものもあります。つまり、「荒れ狂う」とは、私たちの持つプライドにゆえに起きる高慢さが、ちょっとしたことで荒れ狂った海のように、自分自身の心に大きなざわつきを生じさせるのだという風に私は受け止めました。
 
私のプライドはどこにあるのか。それはどのような種類のものなのか。そのプライドは、私たちの心をざわつかせるようなものなのか、海を荒れ狂わせるくらいに、私たちの心を支配してしまうものなのか。そんなことを自分自身の胸に手を当てて、じっくりと考えてみたいのです。
 
私は、第一コリント書にある「誇る者は主を誇れ」という言葉が思い浮かびました。自分自身の存立は、つまらない自分自身だけのプライドによるのではなく、神がともにおられて、私たちの心のざわつきを鎮めてくださることによる安心を、自分自身の誇りとすることができるのだと。そんなことを感じたときに、今日の新約聖書の言葉が響いたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、荒れ狂った湖のなかで、舟が沈んでしまうかもしれないことに恐れを抱いた弟子たちに対して、イエスが奇跡を起こして波を鎮めることによって、弟子たちの心のざわつきをも鎮められたエピソードの一節でした。
 
私たちの心は、日々のさまざまな出来事によって大きくざわつくことがあります。そして不安の渦に巻き込まれ、恐怖を抱き、その恐怖ゆえに、あらぬ方向へと自分自身を誤導してしまうこともあるでしょう。そうならないために、私たちとともに主イエスがともに歩んでくださるということを、私たちの心の柱としたい。そんなことで得られる安心感や平安を味わいたいと私は感じされられました。
 
そんな平安な思いとともに、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある守りと祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

05/01/2026

2026.1.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編28編8節
主こそ、その民の力。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二2章16~17節
私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、礼拝に出席された方、休日を楽しまれた方、それぞれの持ち場で一日をお過ごしになられたかと思います。今日から仕事始めというところも多いかと思います。すべてが神が与えてくださる良いものをもって、皆さんの生活が素敵なものとなりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「善い言葉を語る者」という、新約聖書・第二テサロニケ書の一節にある言葉でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
善い言葉を語る者とは何でしょうか。ここで、あえて「善い」という言葉が用いられていることに私は注目しました。ただの良いではない、自分の周りにいる方々にとっても良いものがあふれ出るような意味合いを私は感じました。そして、そこには明確な基準というものがあります。
 
「主は善いお方」という言葉にもあるように、神である主が与えてくださる善さが私たちのうちにあふれるときに、私たちは神からの影響を大いに受ける者として生きることができるというのです。「神が助けてくださる」というのは、私たちが神によって感化を受けることであると私は受け止めています。
 
私たちが感化を受けたくもないのに、神の助けを得ようとしても、神の善さが自分自身の内にあふれ出すことは無いでしょう。神はどんな者をも助けてくださるでしょう。しかし、助けを受ける私たちに「神から助けられている」ことへの自覚、そして認識がなければ、善いものをただ受け流し、垂れ流して終わってしまうのだと私は思うのです。
 
だからこそ、神から受けた善いものをもって、それをしっかりと握りしめながら私たち自身の生き方としていくのは、神とともに歩むがゆえの出来事だし、私たちはその出来事を本当に大切にしたいのです。善いものとは、神が与えてくださる慰めや励ましによって生み出される、私たちの生き方にあふれる善い言動なのでしょう。その言動には神がともにいてくださることが明らかにされるのですから。
 
ですから、私たちは神の心がどこにあるのか、神の思いがどのようなものなのか、神がより具体的に私たちのために遣わしてくださったイエスの生き方を自分の生き方とするために、聖書の言葉から丹念に聴きとっていきたい。祈りを通して神との素敵な交流をもっていきたい。そんな営みが、今日の詩編の言葉にもあるように「民の力」となるのだろうと望みたいのです。
 
神の善いものをもって生きることでわきあふれる幸いに、今日も生きることができますように。お祈りします。

04/01/2026

2026.1.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編2節
わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章7~8節
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人はいません。私が行く間に、ほかの人たちが先に降りてしまうのです。」イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。クリスマスシーズンも終わりを告げ、私たちは年始とともに、日常に戻りつつあるなかに今週の一週間があると思います。皆さんの七日間の日々が、神とともにあるがゆえの祝福が豊かにありますことを、心よりお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちを決して見捨てられない」というメッセージでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが長い間、病のために起き上がることのできなかった人に、癒しを与えられたエピソードが収録されています。その舞台となったのは「ベトサダの池」でした。ローズンゲン日本語版を出版しているベテスダ奉仕女母の家は、この地名から取られたものですが、もともともは「あわれみの家」という意味があります。
 
神のあわれみが豊かにあふれると言われる場で、38年ものあいだ身体の不自由を抱えていた方が、まさにそのあわれみを求めていました。しかし、待てど暮らせど、自分の不自由は一向に改善されませんでした。池の水が動いたときに、池のなかに入ればそのあわれみを受けることができるというのです。しかし、なかなかこの人は池にたどり着くことができませんでした。自力でどうすることもできなかったのです。
 
そこにイエスとの出会いがありました。イエスは池のなかにこの人が入ることなく、長年の苦しみにあわれみを加えられました。こうして、この人は長年の苦しみから解放され、ひとりで床を担いで歩くことができたのです。まさに神のあわれみがこの人に現れた一瞬でした。
 
自力ではどうすることもできない。その苦悩を私たちの神はすべてご存知である。大切なのは、私たちが神の与えてくださるあわれみがあることを心から信じて、神のなさることに信頼の思いを寄せることなのでしょう。なかなか待つことはできない場合があります。待ち続けることも多くの苦痛をともなうからです。しかし、神がベストなタイミングをおって必ず応えてくださる。そこに一縷の希望を託して生きることで、最終的な幸いが見いだされるということを、私たちは今日生きる励みとしたい。そんなことを受け止めたいと思ったのです。
 
もし、今苦しみの渦中にあるならば、そのような神がともにおられることを私たちのただひとつの希望とすることができますように。皆さんの主にある平安と祝福が豊かにありますように祈ります。

03/01/2026

2026.1.3(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書5章3節
主よ、あなたのまなざしは
真実に向けられてはいないのですか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙三5節
愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
正月三が日の最終日であり、今週の最終日を迎えました。今年は1月4日が日曜ですので、あと少しだけ休日を楽しまれる方もおられるかと思いますし、交通ラッシュの渦のなかにおられる方もおられるかと思います。いずれにせよ、今日も一日、皆さんの安全を神が与え、守ってくださいますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「真実はどこにあるのか」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
まず、真実とは何か。そんなことを考えてみたいのです。真実とは、私たちが出会うさまざまな出来事に対して、私自身がどれだけそのことに誠実かつ忠実に、真摯にまた正直に向き合おうとしたときに起きてくるものであると、私は受け止めています。どんなに事実を立て並べても、私自身の心や思いがそれを認めなければ、事実が真実とはなり得ないのです。
 
つまり、神がおられるという事実を、私たちが真実として受け入れなければ、究極的な意味で、私たちが「神を信じる」ということには至らないのでしょう。預言者エレミヤの時代、神の民であったユダヤ人は、誰もがそんな状態に陥っていたと、今日選ばれた聖句は物語っているのです。
 
神を知っている。自分は神の民だという自覚がある。しかし、その事実を真実なものとして受け止めることがないからこそ、彼らは神の御心に対して誠実に応えようというところまでは到達しなかったのです。「まなざしが真実に向けられていない」とは、まさに神に対して、また自分自身に対しても欺いた態度を、ユダヤの民たちは自分たちの生き方としたのです。
 
その慢心こそが、後に数十年にわたるバビロン捕囚を経験することになります。それは神罰でもなんでもありません。彼らの蒔いた種を自ら刈り取らなければならない結果を生んだのでした。だからこそ、私たちは神との関わりにおいて、自分自身のまなざしが真実に向き合っているかどうかを、丁寧に振り返り、分析して、自らのあり方というものをじっくりと見つめることが、本当に大切なのでしょう。そのような私たちを、神は大いに赦され、祝福してくださるのです。
 
そして、神に対する真実が込められた態度は、おのずと他者にも向けられるということを、私たちは今日の新約聖書の言葉から知りたいと思います。きょうだいに対する「誠実」は、神が与えてくださった恵みに対する「真実」と共通するのです。私のきまぐれな、個人的感情から起きるものではなく、あくまで神が与えてくださる愛に生きるがゆえに、その愛をもって他者に向き合うとき、真実が真実として神が受け入れてくださり、祝福してくださる一瞬があるのでしょう。
 
そのような思いを込めて、今日の一日を過ごすことができますように。私たちの世界に、神の真実が豊かにあふれますように。その豊かさに生きることができますように。お祈りします。