03/01/2026

2026.1.3(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書5章3節
主よ、あなたのまなざしは
真実に向けられてはいないのですか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙三5節
愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
正月三が日の最終日であり、今週の最終日を迎えました。今年は1月4日が日曜ですので、あと少しだけ休日を楽しまれる方もおられるかと思いますし、交通ラッシュの渦のなかにおられる方もおられるかと思います。いずれにせよ、今日も一日、皆さんの安全を神が与え、守ってくださいますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「真実はどこにあるのか」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
まず、真実とは何か。そんなことを考えてみたいのです。真実とは、私たちが出会うさまざまな出来事に対して、私自身がどれだけそのことに誠実かつ忠実に、真摯にまた正直に向き合おうとしたときに起きてくるものであると、私は受け止めています。どんなに事実を立て並べても、私自身の心や思いがそれを認めなければ、事実が真実とはなり得ないのです。
 
つまり、神がおられるという事実を、私たちが真実として受け入れなければ、究極的な意味で、私たちが「神を信じる」ということには至らないのでしょう。預言者エレミヤの時代、神の民であったユダヤ人は、誰もがそんな状態に陥っていたと、今日選ばれた聖句は物語っているのです。
 
神を知っている。自分は神の民だという自覚がある。しかし、その事実を真実なものとして受け止めることがないからこそ、彼らは神の御心に対して誠実に応えようというところまでは到達しなかったのです。「まなざしが真実に向けられていない」とは、まさに神に対して、また自分自身に対しても欺いた態度を、ユダヤの民たちは自分たちの生き方としたのです。
 
その慢心こそが、後に数十年にわたるバビロン捕囚を経験することになります。それは神罰でもなんでもありません。彼らの蒔いた種を自ら刈り取らなければならない結果を生んだのでした。だからこそ、私たちは神との関わりにおいて、自分自身のまなざしが真実に向き合っているかどうかを、丁寧に振り返り、分析して、自らのあり方というものをじっくりと見つめることが、本当に大切なのでしょう。そのような私たちを、神は大いに赦され、祝福してくださるのです。
 
そして、神に対する真実が込められた態度は、おのずと他者にも向けられるということを、私たちは今日の新約聖書の言葉から知りたいと思います。きょうだいに対する「誠実」は、神が与えてくださった恵みに対する「真実」と共通するのです。私のきまぐれな、個人的感情から起きるものではなく、あくまで神が与えてくださる愛に生きるがゆえに、その愛をもって他者に向き合うとき、真実が真実として神が受け入れてくださり、祝福してくださる一瞬があるのでしょう。
 
そのような思いを込めて、今日の一日を過ごすことができますように。私たちの世界に、神の真実が豊かにあふれますように。その豊かさに生きることができますように。お祈りします。
 

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