15/01/2026

2026.1.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編95編1節
さあ来て主に向かい、喜び歌おう。
私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録15章4節
あらゆる国々の民が来て
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが
明らかにされたからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
寒くなったり暖かくなったり乱高下を繰り返してる最近ですが、そんなときにこそ、私たちの健康が守られますようにと祈るばかりです。どうぞ今日の一日も、皆さんの生活を守り、導いてくださる神である主が、皆さんとともにありますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「『岩』としての神」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
岩とはなんでしょうか。私のイメージする岩はふたつです。ひとつ目に「強力である」こと、ふたつ目に「私たちの隠れ場である」ことです。その岩が私たちの神を比喩するものとして描かれているということに、私たちのイメージを寄せたいと思うのです。
 
実際にこの言葉の原語であるヘブライ語「ツール」も、同じような意味があります。岩の持つ頑丈で強いイメージ、その頑丈で強力なものをもって私たちを守るというイメージです。私たちの日々出会う出来事のなかで、神とともに歩みたいという思いを削ぎ、損なわせるようなさまざまな力から、しっかりと私たちをガードして、私たちに心に安らぎを与えるのが、岩である神御自身であるというのです。
 
だから、そうしてくださる主に向かって喜べるのだと。この喜びはいつも明るく快活で、元気そのものという姿を人に見せられるものというよりは、どんなに辛いことがあったとしても、神が必ずこの苦しみを分かっていてくださる。一緒にいてくださるのだという安心感ゆえに生み出される「内なる喜び」なのだと私は受け止めたいのです。こうした内なる喜びが、時に表出したときに、それが私たちが分かち合うことのできる、結果としての喜びなのでしょう。
 
そう考えると、私たちの喜びとか賛美といったものは、もちろんそういう姿が他者に良いものも与えることは間違いないのですが、それらの「雰囲気」というものが、結果として「そうしなければならない」という押し付けであったり、同調圧力を生むような要素となってしまうのであれば、その喜びは喜びでなくなってしまうのです。あくまで、神との深い関係性によって、私たちの心からにじみ出るように生み出されるもの。それが喜びなのだと受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、ヨハネ黙示録の一節でした。あらゆる国から集められた神の民が、どうして喜ぶことができたのでしょうか。「神の裁き」が明らかにされたからです。このときに、私たちは裁きという言葉を、悪を撲滅するという意味だけで用いていないことに注目したいのです。裁きとは「公正かつ公平な判断」のことであり、そのような神のご判断が明らかにされたときに、私たちが大いなる岩によって守られていることの実感がわいてくるのでしょう。その結果、喜びに満ちあふれるというのです。
 
こんな類の喜びが、今日も私たちの生活を豊かなものとしてくださいますように。その喜びを私たちに感じさせてくださる神に感謝しつつ。皆さんの平安を心からお祈りします。

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