27/01/2026

2026.1.27(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章8節
私の思いは、あなたがたの思いとは異なり
私の道は、あなたがたの道とは異なる ー主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙4章13,15節
さて、「今日か明日、これこれの町に行って一年滞在し、商売をし一儲けしよう」と言う人たち、むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんにちは。
長い寒波が終わったようです。まだまだ寒さが続くようではありますが、大雪で生活の差しさわりを感じておられる方々が、少しでもその不便が解消されることを、ただ願うばかりです。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御心(みこころ)を自分の心とする」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは何を思い、願って神へ祈るのでしょうか。もちろん、日々の生活のなかで「そうなってほしいこと」「自分がしたいこと」と思うことを、私たちは神へ祈るでしょう。そして、そのようにならなければ、自分の願いが果たさなければ、そのことで祈り続ける私たちがあるでしょう。
 
そのようななかで、私たちは「神の御心を求める」という言葉をよく用います。神の御心はどこにあるか、私たちはよくわかりません。だからこそ、わからないゆえに、祈りのなかで起きていく出来事を「これは神の御心だった」と言うこともあれば、「これは御心ではなかった」と言うこともあるでしょう。
 
しかし、究極的にそのことが「神の御心」であるかどうかは、私たちが神の思いや願いということを知らなければ、その少しも知ることはできません。神の御心と言いながら、実は私自身の願望を神にかこつけ、押し付けているだけなのではないだろうか。そんな風に思うのです。もしそうならば、それは「私が神に成り代わっている」一瞬なのでしょう。自分が神に成り代わるというのは、まさに、聖書で物語られている「罪」の本質に他なりません。
 
私たちは祈ります。具体的に祈ります。しかし、それがなかなか果たせない場合、思い通りにならない場合、神の御心は別なところにあるのかもしれないし、神が差し出してくださる御心を前にして、私自身の心や思いが神の御心によって「変えられていく」ということが求められるかもしれません。こうして軌道修正されていくときに、私たちは神の思いが、願いがどこにあるのかということを理解し、その御心によって生きる幸いというものを味わえるのだと、私はしっかりと受け止めたいと思わされるのです。
 
その神の御心を知るために、私たちには神の言葉である聖書が与えられました。祈るときに、その祈りを通して私たちの心に神の御心がしみわたるために、聖霊様の導きが注がれます。聖書の言葉に聴き、祈るという循環が、私たちと神との深い絆となっていく。そんな生活を、今日も営んでいきたいと心から願わされました。
 
皆さんの一日が、そのような神の助けによって支えられますように。心からお祈りします。

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