16/01/2026

2026.1.16(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章23節
あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一12章13節
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も目覚めとともに、神から生きる命が与えられました。この一日をともに歩んでくださる神が、私たちの行く道を幸いなものへと導いてくださいますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに指し示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「どんな者でも」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ゼカリヤ書8章23節の後半部分でした。前半部分を読むと、さらに理解が深まると思います。このようにあります。
 
万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言語の諸国民の中から、十人の男たちが一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。』」
 
一緒に行かせてほしいと願ったのは「あらゆる言語の諸国民」でした。そして願った先は「ユダの人」でした。裾をつかんだと聖書には記されています。十人の者が一人の人間の裾をつかんで願ったとあります。ユダ(ユダヤ)は、世界にあるひとつの国に過ぎませんでした。それも決して目立つことのない小さなところに、周囲の者たちが「一緒に歩ませてほしい」と懇願している姿を、私たちはイメージすることができます。
 
この言葉は、ユダという単一民族の宗教であったユダヤ教、そしてそこで崇拝されていた父なる神が、決して限定された神ではなく、大勢の諸国民のための神でもあることを私たちにイメージさせるものであると言えるでしょう。そのことは、後に私たちの前に与えられたイエスの生涯を通して明らかにされていくのです。万民のための命の救い主なのだと。
 
神は誰でも、その話を聴き、一緒に行かせてほしいと願うところには、私たちの神でいてくださいます。そもそも万民のための神なのです。大切なことは、私たちがそれに気づき、それを受容できるかどうかというところにあるのだと思います。そうなったときに、神の願いと人間の思いというものが「一つとさせられる」瞬間なのでしょう。
 
そのことを具体的に示した聖書の言葉が、今日選ばれた新約聖書の言葉なのです。どんな者でも、民族や立場にかかわりなく、私たちは神の霊の働きによって一つとされたのだと、この手紙を書いた使徒パウロは私たちにその思いをつづっています。
 
一つとなるとは、私たちの努力や意志、共通する趣味や好みによるのではありません。もちろん、ある程度一つとなることはできるでしょう。しかし、どうしても「無理をしてしまう」のです。無理がたたれば必ずゆがみが生じます。疲れます。究極的に、私たちの努力だけでは決して一つとなることはできない。これが聖書の語るメッセージなのです。
 
神がお与えになる言葉によって、その言葉に聖霊様のお働きが十分に込められ、私たち一人ひとりをご自分の価値観で一つとしてくださるのです。今日の新約聖書の言葉は「洗礼」を受けた根拠がパウロによって記されていますが、それは、私たちと神がひとつにされるのもさることながら、同じ価値観によって養われるところには、どんな者でもその価値観を共有し、そのうえで個々人に与えられている、きらりと光る個性を尊び合う社会というものが生み出されるのだと。これこそ、パウロの書いている「(キリストの)体」である教会の真髄なのだと私は受け止めました。
 
教会でも、家族でも、ひとつの価値観によって集められるところには平和が宿る。齟齬があったとしても、それをお互いに修正されようという力が必ず働きます。誰かが割を食ったり犠牲になったりする必要はどこにもないのです。それが神の願いなのですから。
 
今日も私たちの生活が、神の価値観によって整えられ、幸いな道をそれぞれが歩むことができますように。祈りつつ歩みたいと思います。神の大きな助けによって。

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