くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編107編3,8節
(主は)国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
主に感謝せよ。その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章12~13節
あなたがたは世にあって希望を持たず、神もなく生きていました。しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。
私にとって、昨日はいろいろなことを考えさせられる一日でした。「宗教」とは何だろうか? ということをです。人を幸せにする力もあれば、凶器となっていろいろなものを犠牲にすることもできる。何事も諸刃の剣のようなものを抱えながら、この世界に存在しているのだとは思うのですが、宗教に関しては、私たちの固定観念というものがどうしても、その本質を見るという感覚を鈍らせてしまうのだろうかと痛感しました。昨日地裁判決の出た、安倍晋三元首相銃撃事件の被告をめぐって、この世の中の反応を見て思ったことでした。
そのようなことを考えたときに、こうして日々与えられる聖書の言葉を通して、私たちは何を考え、何を思い、何を願い、希望としていくのだろうかということに、我が事として問いかけてみたいと思わされるのです。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が思ったのは「キリストに近くされた者でありたい」ということでした。
私たちは「キリスト教」というひとつの宗教の枠内で生きています。キリスト教という宗教が、2000年の歴史のなかで「本当に大切にしてきたこと」とはいったい何なのか? そんなことを考えるときに、上記の「キリストに近くされた者でありたい」ということに生きる希望を置いて生きることに尽きると私は感じていますし、皆さんもそのような憧れというものを抱きながら、自分たちの信仰を大切にしているのではないかと思うのです。
キリストに近い者とされるとは、究極的にはキリスト(救い主)であるイエスが指し示してくださった生き方というものを、自分自身の生き方とするということなのだと私は受け止めています。そのことをもっと知りたい、もっと自分自身の生きる柱にしたいからこそ、聖書の言葉にじっくりと聴いて、自分自身のなかで葛藤し、ときには対立し、もがきながらもあこがれることを決して忘れることなく、神から助けていただきながら一歩一歩ずつ歩んでいきたいと。キリストの血をいただいた者としてです。
キリストの価値観を自分のものとして生きることの幸い。今日の聖句を通して私の希望としたいと思わされたことでした。宗教が形骸化せず、さして本質でもないことを宝物のように掲げるのでもなく、神が与えてくださる希望に自分自身の心を向けて生きてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神がイエス・キリストを通して与えてくださる希望に満ちあふれることができますように。心からお祈りします。
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