くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章30節
主の仰せ。私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章23節
イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。今朝も寒い朝を迎えました。昨日は、この春から同業の友となる若いおふたりの結婚式に参列しました。和私も自分たちのことを思い出しながら、思いを新たにすることができて本当に感謝でした。先ほどの夜行バスで仙台へ戻ってまいりました。夜中でも移動できるので、とても楽です。今日も神とtもに健やかに生きてまいりたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の言葉に聴くとは、結局なんなのか」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
神の言葉を「守る」と聞くと、法律の条文を守る、ルールを守る、約束を守るなど、さまざまな守るという言葉と重ね合わせながら考えることがあるかもしれません。しかし、私は思うのです。神の言葉を守るということを考えるときに、法律やルール、約束を守るという「行動」に重視するあまり、その根底にある「精神」のようなものが置き去りにされてしまうことはないだろうか? そんなことを思わされました。
守るとは「大切にする」という意味があります。たとえば「礼拝を守る」という、私にとっては不可思議な教会用語がありますが、「礼拝(すること)を大切にする」と聞けば、私たちはその意味というものを理解できるのではないだろうか。そう思うのです。つまり、神から与えられた言葉を「大切にする」と聞けば、大切だと受け止めた私たちが、ではどのように大切にしていることを表現できるか、ということを考えられるのだと思います。その表現方法は、まさに千差万別だと思います。ただ、「大切にしている」という点においては、それは「ひとつになれる」ことなのだと私は思うのです。
行動という事柄だけを重視する前に、その根底にある精神に心を配ることの大切さと幸いというものを、私はじっくりと考えていきたいと思ったのです。私たちは他者の心を見透かすことはできません。見た目で物事を判断して、評価する存在です。もちろんそういうことの良い面もあるでしょう。しかし、見た目だけで物事を判断し評価しようとすると、そこにはさまざまな歪みが生じるというのが、私が考えていることです。
だからこそ、私たちの心の内奥まですべてご存知であり、そのうえで私たちを大切に「守って」くださり、私たちにご自分の言葉を、私たちの必要のために与えてくださる神がおられるということを、私たちはどのように受け止められるだろうかということを、じっくりと考えたいのです。イエスは、その根底にあるものは「神の『愛』」であることを知らせました。ですから、神の愛をともなわないような神の言葉の守り方は、結局のところ、神の言葉を守っているとは言い難いのでしょう。私はそう受け止めたいと思いました。
神の言葉に指し示された精神を、神の私たちに対する愛のまなざしを大切にしつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、愛の神の守りがともに、豊かにありますように。心からお祈りします。
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