31/03/2025

2025.3.31(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編145編10節
主よ、造られたものはすべて、あなたに感謝し
あなたに忠実な人たちはあなたをたたえる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章16節
詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節23日目を迎えました。そして今週も、ウィークデイの日々が始まりました。日曜日に礼拝から私たちはこの世界に派遣されました。この平日の6日間、どのようなことが待ち受けているのでしょうか。年度末・年度始めの慌ただしいなかにあっても、神が私たちの生活に潤いを与えてくださることを願い、期待しつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に触れたいと思います。
 
今日の聖句に共通するテーマは「感謝と賛美」であると私は受け止めました。私たちは神に何を感謝することができるのでしょうか。今日の一日を生きるいのちが与えられたこと、人との出会いが与えられたこと、神の言葉が授けられたこと、自分の祈りが聴かれたこと、その他、数え上げたらいろいろと感謝できることが出てくるかもしれません。
 
しかし、同時に私たちは「感謝できない」ことも心や思いから出てくることもあるでしょう。感謝しなさいと言われても、自分自身がなかなかその気になることができないという時もあるのです。感謝できない自分に嫌気がさしたり、感謝したいのにどうして神は感謝する思いを与えてくださらないのだろうかと嘆きたくなることもあるでしょう。まさに「悲喜こもごも」とはそういうことを指すのかもしれません。
 
だからこそ、一喜一憂するなかにあっても「神との対話」の時を少しでも持つことができればと私は願いたいと思うのです。今日の新約聖書のことばには「詩と賛歌と霊の歌」という言葉がありました。これらの歌の数々は、聖書の言葉に散りばめられています。ほんの少しの言葉でもいい、聖書を通して神は私たちに語りかけてくださいます。この語りかけに私たちはじっくりと黙想し、そして神に自らの心のうちにあるものを打ち明けることができるのです。それこそ祈りの真髄と呼べるものなのでしょう。
 
御言葉に聴き、そして祈るという循環が、私たちを感謝と賛美へと神が導いてくださることを期待して、今日の一日もまた歩んでまいりたいと思います。苦しみのなかにあっても、そのために苦しみを一手に引き受けてくださった救い主イエスを想いのうちにとどめながらです。皆さんの一日の生活に、そのような神の促しが豊かにありますように。お祈りします。

30/03/2025

2025.3.30(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編105編7節
主こそ我らの神
その裁きは全地に及ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章10節
義のために迫害された人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節4回目の日曜日を迎えました。今日は私の働く仙台宮城野教会は創立5周年の記念礼拝のときをもちました。救世軍仙台小隊から始まり、日本基督教団の教会を経て2020年に、新しい教会として仙台宮城野教会が誕生しました。礼拝のあとは墓前礼拝を執り行い、先月召された伯父の納骨をおこないました。教会に戻り、ひと息ついてローズンゲンの黙想に取り掛かっています。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「正義」であると私は受け止めました。そのなかで、イエスによって語られたいわゆる「山上の説教」と呼ばれる部分の一節が、今日の新約聖書の言葉なのですが、あらためて気づか有れたことをつづりたいと思います。
 
義のために迫害された人々は、幸いである
と、イエスは民たちに語られました。すでに神から幸福を受けている人たちとは一体誰なのかというテーマのもとで、「義のために迫害された人々」とイエスは告げておられるわけですが、では、いったいその「義」とは何なのか。これは神そのものであると私は受け止めました。つまり、聖書で語られている義とは、私たちのうちから自家生産される正義のことではありません。神そのものと言い換えても間違いないものなのです。
 
つまり、イエスが言われたこの言葉は「神のために迫害された人々は、すでに神によって祝福されているのだ」と、言い換えて聴くことのできる聖句なのだと、私はあらためて気づかされたのです。自分のためにではありません。神が神とされるために私たちが生きていくなかで、その差し障りがこの世の中でたとえあったとしても、神はあなたを必ず祝福するというのです。
 
義のためにという言葉を私たちがどのようにとらえるかで、この言葉の意味合いは随分異なってくるのです。私たちの間で起きる争いの100%は、正義と正義の衝突であることを私たちは忘れてはならないのだと思います。しかもそのような正義とは大概、神の正しさをそっちのけにした、自分自身の正しさであることが実はほとんどなのだということに、私自身本当に気づかされているのだろうかと思ってしまうのです。
 
そうではないのです。神の正しさがこの世界に公平さをもって臨まれるのです。これが今日の旧約聖書でも語られている「裁き」に他なりません。裁きとは何も悪を断罪するだけのものではありません。神の正しさがこの世の中に判断と決断を加えるのです。神の正しさが全世界に及ぶときに、私たち人間の姿も神の正しさによって整えられていく。そのような自分自身にさせてもらえることを望みたい。そのように受け止めました。
 
今週も年度末年度初めの忙しい一週間を過ごされる方が多くおられると思います。一切に神の与えられる平和が豊かに臨みますように。心からお祈りします。

29/03/2025

2025.3.29(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハバクク書2章20節
主はその聖なる神殿におられる。
全地よ、主の前に沈黙せよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章17節
イエスは
人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
『私の家は、すべての民の
 祈りの家と呼ばれる。』」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節22日目を迎えました。そして一週間も最終日となりました。そして3月も残すところあとわずかとなりました。日本では年度末のこの時に何かとあわただしくあるなかにあって、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちにそのような忙しさにあっても大切にしたいことが記されていたと私は受け止めました。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
今日の聖句に共通するテーマは「神殿」です。旧訳聖書の時代やイエスの時代に神殿と呼ばれるものは確かに存在していました。エルサレムにある神殿です。ここで礼拝が執り行われ、動物の犠牲がささげられて祈りの言葉が常に神に向けられていた、そのような場こそ神殿だったのです。極めて神聖な場所であったことがわかります。
 
つまり、神殿に象徴されることは何かと言えば、神の前に自らの心と思いを鎮めて、ただ神の声に耳を傾けるために静まること、つまり「沈黙」にあると私は思っています。世の中の雑踏にまみれて生きている私たちですから、静まるという機会を確保するのは簡単なようで難しいことなのかもしれません。物理的に静寂なところであっても、私たちは心騒ぐこともあるのです。日々の悩みが私たちの身や心をそのことで満たしてしまうならば、鎮静することが難しくなってしまうのです。
 
神の前に鎮まるということは、私たち自身の努力では成し得ないことなのでしょう。今日の旧約聖書の言葉には、預言者の呼びかけによって神である主ヤハウェの御前に沈黙せよと勧められています。神の助けをただただ求めながら、ささやかれる神の御声にそば耳を立てて聴こうとするならば、神は必ずご自分の思いというものを私たちの心に届けてくださることを期待しながら、私たちは神の御前に黙することができるのでしょう。
 
イエスの時代、神殿では犠牲としてささげるための小動物が売られていました。礼拝のために必要な供えでした。しかし、イエスが指摘されたのは、祈りという本質よりも、動物が売り買いされることのほうが大切であるかのようにイエスの目には映ったのでしょう。だから、イエスはそのことを厳しくとがめました。神殿は「祈りの家」でなければならない、と。
 
私たちにとって神殿はどこにあるのでしょうか。それは私たち一人ひとりの「心」にあります。建物としての神殿ではありません。どんなに立派な教会堂があったとしても、そこに心がともなっていなければ、ただ沈黙して神の声を聴くこともできないでしょう。大切なのは私たちの内に神殿はあるのだろうかということへの問いにただ真摯に向き合うことです。今日の聖句を通して、神が私たちの心に建ててくださる神殿を地大切にしたいという思いが与えられ、そのことを心から受け入れたいと思ったのです。
 
明日は主の日の礼拝が、世界中の教会や集会でおこなわれます。そのための大切な準備の一日が、神の祝福のうちに過ごすことができますようにと祈ります。皆さんにとっても良い備えのひとときでありますように。心から神に祈り、皆さんの平安のためにお祈りします。

28/03/2025

2025.3.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書31章5節
空を飛び回る鳥のように
万軍の主はエルサレムを守られる。
これを守り、救い、助け、解放する。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章6~7節
イエスは弟子たちに命じられた。
イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節21日目を迎えました。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、一日を始めるための黙想をつづりたいと思います。今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちのために四方八方を取り囲んで、私たちを守ってくださる」ということです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神が「空を飛び回る鳥」にたとえられています。大空を飛び回る鳥は、空の上から私たちの住む地上を見渡すことができます。そして休める場所、食事にありつけるところを探し回っては、必要な場所に向かって翼を広げる、そんな光景をイメージしました。その鳥のように、私たちの神は私たちが生きる必要のために、その翼をひろげて私たちのところへ向かってくださるというのです。ときにその翼は私たちを外敵から守るために広げてくださり、時には安全な場所に運び、そして必要な糧というものを与えてくださるのです。
 
神がそのように私たちのために大空を飛び回ってくださるこの姿こそ、神の国の幸いなのだとイエスは語られました。そして、町や村を行き巡っては、その幸いを必要とする人たちに届けてくださった。この福音宣教の歩みが、今日まで継承されていることをおもいます。イスラエルの家の「失われた羊」のところに行く業は、イスラエルという枠組みを超えて、今や全世界に広がっていることを思いますし、これからもその業はさらに神が広げてくださるものと心から信じたいのです。
 
最近「会いに行く牧師」を名乗っておられる石川さんという方とSNSでやり取りをすることがありました。石川さんは、イエスがされたことを自分はしているんですと仰られたことに、私は印象深いものを抱きました。彼は既存の教会というものを持たず、いわゆる既存のキリスト教という枠内に収まらない活動をしておられるという点では、教会という場で働いている私の活動とは一線を画していますし、石川さんの考えておられることと私の考えは違う面もあるわけですが、しかし、今日の聖句を通して想わされることは、「会いに行く」というイエスが行われた感覚というものは、やはり大切にしなければならないということです。そして、何よりも、神が私たちのために会いに来てくださっているということ真実を、私は深く受け止めたいと思ったのです。
 
神は、今日もどのような方に出会われるのか。そして私自身もどのような方々に出会うように神が導いてくださるのか、そんなことを神に期待しつつ、今日の一日を歩みたいと思いますし、そこに福音の幸いというものを深く味わうことができるように、与えられた一日に感謝して歩みたいと思います。皆さんの歩みにも、神様が親しくともなってくださいますように。お祈りします。

27/03/2025

2025.3.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編68編27節
集会の中で神をたたえよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章46~47節
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節20日目を迎えました。日曜日を除く40日間の四旬節も、折り返し地点を迎えました。今朝起きて私が一番に感じたことは、自分自身がキリストによって練られた人格を望んでいるだろうか、ということでした。自分自身の努力だけでは絶対に果たすことができないことです。だからこそ、イエスが十字架上で苦しまれたその想いを大切に聴き取りたいと思ったのです。自分自身が決して思い上がることのないように、さも自分自身の努力ですべてを勝ち取ったかのような傲慢な思いから離れたいと、祈りつつつくづく感じさせられました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「集うことの尊さ」というものでした。5年前のパンデミック以降、私たちは集うということについて、いろいろと考えさせられる機会が与えられているように思います。これまで当たり前のように受け止め、こだわっていた「対面」という概念が変化したように思います。オンラインという方法で顔を見合わせ、会話をすることができるようになった。対面でなくてもその必要を果たしているようにも見えるのです。
 
最近ではオンラインに特化した教会も誕生していますし、対面とオンラインをうまく組み合わせた教会のあり方というものを積極的に捉えようともしていることは、皆さんもご存知の通りだと思います。私はこの傾向は決して悪いものではないと思う一人なのですが、ただ、対面にしてもオンラインにしても、そもそも「集まる」とはどういうことなのかということを、私たちはじっくり考える必要があるのだと思うのです。その本質を考えること無しに、形式ばかりに目が行ってしまうことにこそ、私は危惧を感じたりするのです。
 
集まることの本質は、神を賛美することにある。
このひと言に尽きるのでしょう。教会という言葉の原語であるギリシア語エクレーシアは「集会」という言葉で訳したほうが、より本来の言葉の意味を反映していると言われています。神によって集められた人たち、それがエクレーシアの意味なのです。神がいらっしゃいと私たちを手招きしてくださっている。神がごちそうを準備して待っていてくださる。そして、集められた人たちがその準備された良いものを存分にいただいて喜べる。神様ありがとうと私たちが応答できる。これこそ「賛美」であり、集うことの幸いそのものなのだと。
 
今日の新約聖書の言葉である使徒言行録の一節は、聖霊の喜びをいただいた最初期のクリスチャンが、集うことによって得られた喜びについて語られています。この喜びが人々に良い感化を与えて、エクレーシアが成長したという話です。この喜びがオンラインであっても対面であっても、キリストによってつくられようとしていることを、私たちはどれだけ自分たちの喜びとして受け止め、受け入れて自分のものとすることができるか。そのことに思いを寄せつつ、集うことの幸いというものを今日も味わっていきたいと思わされたのです。
 
皆さんの一日にも、キリストを真ん中にした喜びがあふれますように。心からお祈りします。

26/03/2025

2025.3.26(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編34編7節
苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き
あらゆる苦難から救ってくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11章28節
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節19日目、そして4週目を迎えました。今日も救い主イエスの十字架の意味をじっくりと味わう一日となりますように。昨日・一昨日と黙想をお届けすることができず失礼しました。私も思いを新たにして、今日の御言葉に聴きたいと思います。
 
四旬節は、救い主イエスが十字架に向かい、そしてはりつけにされたその苦しみを想う時とされています。救い主の苦しみは、私たちが日常的に抱える苦しみである。イエスが私たちの苦しみをご自分の苦しみとされることで、私たちのすべてを理解し、それを受け入れ、ご自分の苦しみとしてくださいました。私たちが不要な苦しみをこれ以上負うことのないためです。
 
究極的に、私たちの生活から苦しみが消えてなくなることは御国が来る時までは無くなりません。そういう意味では私たちが生きている以上、苦しみと付き合わなければならないのです。しかし、そんな苦しみのなかにあってこそ、私たちに苦しみを緩和するための安らぎをイエスは与えてくださる。これこそが私たちの生きる「希望」に他なりません。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られた大変有名な言葉です。日々の重荷を背負って、その重圧に疲れを覚えているならば、イエスはその荷を降ろして安らぎを与えてくださる。この安心を感じてこそ、また荷を担いで明日を歩むことができるというのです。主イエスというくびきが、私たちの日々を少しでも平安に過ごせるように、ともに担ってくださるからです。
 
では、そのくびきとは何か。これこそイエスが私たちのために語ってくださった言葉と、その言葉をもって実際的に私たちの安らぎへと導くために遣わされた聖霊の助けに他なりません。今日もその言葉が私たちの心に染み入るときに、イエスが共に歩んでくださる。少しでも私たちの抱える苦しみが取り除かれるよう、イエスが私たちを救ってくださいます。それがイエスとイエスを私たちのために与えられた神の切なる願いだからです。
 
だからこそ、私たちは御言葉に聴き、そして神に大胆に叫び求めたいと思います。神はその叫びを聞かれ、ご自分がベストと思われる方法で私たちに応答してくださることを、心から信頼しつつ、今日も歩んで行くことができますように。皆さんの一日に一抹の安らぎがよき清涼剤となりますように。お祈りします。

23/03/2025

2025.3.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編59編17節
朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわが砦。
苦難の日の逃げ場になってくださいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録26章22節
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節3回目の日曜日を迎えました。今日、世界中で行われる主の日の礼拝や集会のすべてに、神の守りと祝福が豊かにありますように。それらの集まりを通して、すべての方々が神とともにある幸いを味わうことができますように。救い主イエスが十字架につけられたことの意味が、私の命にかかわっていることを喜びのうちに味わうことができますように。祈りつつ一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の助け」についてです。今日の詩編のことばを歌った歌い手はイスラエル王ダビデでした。詩編59編の表題には、自分が先の王サウルから命を狙われていたときに、神に助けを求める歌として歌われたものであることが分かります。自分自身が危機のときに、いかに神である主ヤハウェの存在が自分自身の守りとなったかについて、彼は自分の気持ちをストレートに詩に込めたのでした。
 
そのストレートな思いは、のちに宣教者であったパウロにもしっかりと継承されています。今日の新約聖書の言葉は、パウロが数多くの迫害や困難を経て、いよいよローマ王アグリッパの前で、自らの証しをもって福音を伝えることになった、その弁明の一節です。いろんなことがあったけれど、どんなときにも神は私の守りとなり、幾多の困難を助けてくださったからこそ、今の自分があるのだとパウロはそれを「良いたより」としてアグリッパ王に伝えたのでした。
 
困難のなかにも、いや、困難のなかにあるからこそ喜びがあるのだ。なぜならば主がともにいてくださるから。果たして、私はそんな境地にとどまり続けることができるだろうかと考えるのです。つらい時はつらいことにとどまり続けて、負のらせん階段に自分自身を巻き込んでいないだろうかと。こうして「不幸のヒーロー」を自分自身でつくりあげて、神の助けというものをおのずから排除してしまってはいないだろうか。そんなことを思わせられるのです。
 
なぜイエスは十字架のうえで苦しみながら死なれたのか。そこには復活という希望が待ち受けていたから。苦しみが苦しみのままで終わることを、神はお望みなはずがないのです。どんなときにも私の、私たちの助けとなってくださる神が、今日も私たちとともにいてくださいます。だから、苦しみの先にある希望を、私たちは決して忘れず今日という一日を生きてまいりたいと願います。神の守りと祝福をお祈りします。

22/03/2025

2025.3.22(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨエル書3章1節
その後
私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章33節
イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節16日目を迎えました。そして、今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路が、皆さんにとって良い時であったことを振り返りながら、新しい週への備えの一日となりますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「神の霊」です。具体的には神である主ヤハウェとイエスが私たちのために注いでくださる聖霊です。聖霊の導きが私たちの命を活かす。そのことについて黙想したいと思います。
 
つい最近も触れましたが、聖霊を通して働く神の御心というものが、私たち一人ひとりに変革をもたらす。そのことに私たちがどれだけ受け入れることができているのだろうかということを、あらためて思わされるのです。なぜならば、私たちは根本的に「変わるのを好まない」存在だからです。長い時間をかけて積み重ねてきた現状を維持することが、私たちにとって心地よいのです。
 
私たちが変わりたいと願うのは、私たちに危機が訪れていることを認識する時なのかもしれません。そういう時こそ、あらゆる変化を味わいながら、自分自身を模索する良いきっかけなのかもしれません。そういう時にこそ、聖霊を通して神がご自分の御心というものを、私たちに対してダイレクトに働きかけてくださる。ここにこそ、聖霊の尊さというものを私たちは心の底から認識できるのでしょう。
 
しかし、安定しているときにこそ、現状にある程度満足しているときにこそ、私たちは静かに働く聖霊のささやきというものを感じ取るということが必要なのだとも感じるのです。なぜならば、聖霊は危機の時だけに働くのではなく、私たちの人生を見守られる神が私たちの日常を包み込んでくださっているからです。神の言葉が自分自身に浸みこむときに、聖霊は私たちの理解に働きかけてくださいます。ときに私たちの固定観念やゆがみというものを矯正する力をもってくださるのです。こうして私たちは神によって整えられて、神とともに歩む幸いというものをじっくりと味わうことができるのです。
 
今日の新約聖書は、聖霊降臨の現場に立ち会ったイエスの弟子たちが実際に味わったことを「今、見聞きしている」という言葉で表現しています。しかし、それはなにも2000年前の出来事だけではないのです。今日、この時もまた、私たちは四旬節の真っただ中を生きる者として、救い主イエスの十字架へ向かう姿をリアルに感じとることができるように、聖霊は私たちの思いと心に働きかけてくださるのです。
 
今日もそのような聖霊の働きが、私たちをますます活かす力となっていることを、私たちがじっくりと感じとる時でありますように。皆さんの主にある平安と祝福を心からお祈りします。

20/03/2025

2025.3.20(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編138編3節
私が呼び求めた日に答えてくださった。
あなたは私の魂を力づけてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章10節
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節14日目を迎えました。今日は一日の休日を楽しまれる方も多いかと思います。今日のすべての予定に、神である主が豊かにともなってくださいますようにと祈ります。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちの求めに応えてくださる」というものでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
私が今日あらためて確かめたいと思ったのは、私たちが神に向ける「求め」とは一体なんだろうかということです。結論から言えば、私たちのいかなる求めにも神は応えられますが、自分の要求をそのまま、神がその通りに応えてくださるわけではない、ということです。もしそうだったら、この世の中はとんでもないことになるでしょう。
 
そうではなく、私たちの求めが何に基づいたものなのかということを、私たちは神に求めつつもじっくりと熟慮する必要があるのでしょう。つまり、神が応じてくださる私たちの求めは、あくまで神の御心に基づいたものであることを、私たちは十分に認識する必要があります。そのためにも、私たちは神の御心というものを聖書の言葉から丹念に聴き取っていくことが必要なのだと私は感じます。
 
神は私たちの求めに応えてくれないと不平をこぼしたりすることがあるかもしれません。効き目のない神様であると結論付けてしまうこともあるかもしれません。本当は神がご自分の御心であると示してくださっているにもかかわらず、これは御心ではないと自分のより好みを神のせいにしてしまうこともあるでしょう。しかし、それは本当にふさわしいことなのかと、つねに自分自身のあり方を見つめつつ、御言葉と祈りをもって神と対話していく必要があるのです。
 
聖霊は私たちの生き方を導かれます。しかし、自分の感性や願望を「聖霊の導き」としてしまってはいないでしょうか。ときに聖霊は、私たちのそのような固定観念を変革する力をお持ちですし、慰めや励ましを与えながら、自分自身があらゆる束縛から解放されるためにご自分の御心を示してくださるのです。私たちに求められるのは、神とともに歩みたいという切なる願いから来る、謙虚な思いと自己変革に他なりません。
 
今は四旬節のなかを歩んでいます。自らのうちにある意識的無意識的にかかわらず、神と同調できない心や思いそのものが「罪」の根源であることを理解するこの期節にこそ、私たちの求めに神が応えてくださるという神の約束に、私たちの心を整えたいとあらためて感じさせられました。そのようなところには、神は必ずご自分の答えというものを祝福をもって与えてくださいます。そのような祝福が、今日の営みすべてに働くことを祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。

19/03/2025

2025.3.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記40章3~4節
ヨブは主に答えた。
私は取るに足りない者
何を言い返せましょうか。
私は自分の口に手を置きます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一13章12節
私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節13日目を迎えました。そして四旬節を迎えてから3回目の水曜日を迎えました。今日もローズンゲンに示された神の言葉から、黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、私たちは神のことを知っているようで、実はまだまだ知らないことが多くあるということです。だからこそ、神の助けをいただきながら、神を理解する営みというものを大切にし続けたいと思うのです。
 
今日の旧約聖書は、悪魔のいたずらによって災いを受けたヨブが、これまで神への忠実な信仰者として歩み続けてきた自負というものが、神の御前で打ちのめされたときにヨブの口から出た正直な告白でした。確かに、ヨブは神とともに歩んだ人物であることには間違いありません。しかし、そのヨブですら、神のスケールの大きさに圧倒されるときに、いかに自分はいと小さき者なのだろうかという自己洞察に至りました。だからこそ、自分自身からほとばしり出る自負の思いに手を当てて、神のなさることにあたらめて心から信頼する思いが与えられました。
 
私たちは、どんなに聖書を丹念に読み、聖霊の助けをいただきながら、神が言わんとしていることを知ろうと努めます。ある程度は知ることができるでしょうし、それによって誠実に神とともに歩む思いも与えられるでしょう。しかし、これだけは忘れてはならないことがあります。それは、私たちは決して完璧になり得ることはない、ということです。神の御前にあって、私たちは常に打ちのめされながらも、そのたびに神の愛と慈しみというものを受け取ることで、神とともに歩む幸いというものを味わうことができるのではないでしょうか。
 
ヨブはこの思いがあったからこそ、悪魔のいたずらに翻弄されながらも、その最後まで神とともに歩むことが出来ましたし、神はそのようなヨブの告白に祝福をもって応えられました。私たちに完璧などないのです。そのうえで言うならば、私たちは神の完全によって生かされる者となるということなのです。
 
私たちはいずれ、神の国の訪れを経験するときに、今まで見えなかったものが見えるようになるのでしょう。そのことを希望をもって待ち続けながらも、与えられた人生の道筋を\一歩、そして一歩、神の導きによって歩むことが大いに許されているのです。そのために、今日も神の助けによって御言葉に聴き、祈りつつ、神とともに歩んで行きたいと思います。そこには必ず、神の助けと幸いがあることを心から信頼しつつ、です。
 
今日の私たち一人ひとりの歩みが、そのような神の助けによるものでありますように。そのために、私たちにできることを誠実に営むことができますように。心からお祈りします。

18/03/2025

2025.3.18(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書16章19節
主よ、わが力、わが砦
苦難の日のわが逃げ場よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章12節
私は自分が信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節12日目を迎えました。今日も救い主イエスの負われた犠牲を心に刻みつつ、与えられた一日を過ごすことができますようにと祈りつつ、ローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日の新約聖書のことばであるテモテへの手紙の一節は、手紙の書き手であるパウロが愛する若い同労者であるテモテに対して示した励ましが込められています。ときに、イエスを救い主として伝えるということは決して楽ではありませんでした。常にその活動を阻み、迫害する人たちの存在があったからです。そのようななかで救い主を伝えるというのは、実に戦々恐々な出来事だったに違いないのです。
 
私たちは今、この日本においては「信教の自由」というものが保証されているなかで、福音を伝えることが許されています。そういう意味で言えば、それはとても幸せなことなのだと思います。今、某宗教団体が信教の自由という言葉を盾に、自分たちの行ってきたことを棚に上げて、自分たちは宗教弾圧を受けているとさかんにアピールしているのを耳にします。宗教弾圧と聞けば実に穏やかではありません。ただ、真実を隠蔽してそのような声を張り上げて人々の同情を買うおうとする姿は実に往生際の悪さというものを感じるのです。
 
私は、今日のパウロの言葉からぜひいただきたいと思ったメッセージは、そのような反対が迫害というものが、今後私たちにも及びかねない可能性がゼロではない世界のなかで、私たちはいったいどのような態度を取るべきなのかということについてです。もちろん、理不尽なことに対しては戦い続ける必要があると私は思います。しかし忘れていけないことは、それが自己保身のためになされるのでははく、イエスがご自分の命を投げうっても貫き通された愛が土台になければ、前述の某宗教団体と何も変わりはないのだろうと思わされたのです。
 
テモテもまた、周囲の反応ゆえに臆病になっていました。しかし、そんなテモテをパウロは励ましつつ、キリストの愛が私たちを必ず守られるのだからということをテモテに思い起こさせようとしたのでした。パウロが言われた委ねられたものとは、まさにキリストの愛に他ならないのだと私は受け止めたいのです。この愛が愛として世界を必ず平和へと導いてくださることを胸に、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

17/03/2025

2025.3.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書7章18節
あなたのような神がいるだろうか。
ご自分の民である残りの者のために過ちを赦し
その背きの罪も見過ごされる方。
いつまでも怒りを持ち続けず
むしろ慈しみを望まれる方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章54節
主は慈しみを忘れず
その僕イスラエルを助けてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節11日目を迎えました。今日も救い主イエスが負われた十字架の意味深さを噛みしめつつ、新しく与えられた一日を過ごすことが出来ますようにと願いつつ、ローズンゲンに示された聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「神の慈しみ」であると私は受け止めました。逆らっても、裏切っても、なおも神は私たち一人ひとりにご自分の慈しみを示されたことを心から思うときに、私たちはこの慈しみによって支えられていることを想わされるのです。
 
昨日の仙台宮城野教会の礼拝で御言葉の取り次ぎをしてくださった朗子牧師が「聖霊に対する冒瀆」とはいったい何かについて、分かりやすく解説してくださいました。聖霊とは親心であるということを前にも触れましたが、聖霊には神の私たちに対する深い慈しみが十分に込められているゆえに、それは親心なのだというのです。その親が私たちに慈しみを示されるときに、それを具体的に私たちに見せてくださったのが救い主イエスでした。
 
イエスによって病が癒された出来事に対して、それを親心による慈しみであることを受け入れることができずに、単にイエスに対する嫌悪感から来る感情が、ファリサイ派に「悪霊の頭ベルゼブルの仕業」と言わせたのです。私たちは人間の外面的な姿ばかりを見て、その奥底にある神の慈しみを見ようとしないということが、往々にしてあるのではないだろうか。いや、確かにあるのです。私たちが神の真実に目を向けることなく、悪魔の思うつぼに自分のうちにある感情を荒立て、思いと行いを行使してしまう。ここにこそいわゆる「罪」の本質があるような気がしてならないのです。
 
私たちは自分自身の言動を紡ごうとする際に、そこに神の慈しみがどのように働いているのだろうかということをじっくりと考えるのは本当に必要なのだと、自戒を込めながら思わされたのです。神はそのようにして、どの時代にもある意味どうしようもない私たちを、ご自分の慈しみをもって、聖霊の助けをともないながら、私たちに慈しみを示し続けてくださったのです。
 
私は、この慈しみに生き、応答する者でありたい。今日を生きる柱としてこの言葉を受け止めてまいりたいと思います。皆さんの一日が、主の慈しみによって健やかなものでありますように。お祈りします。

15/03/2025

2025.3.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書62章2節
あなたは、主の口が定める新しい名で呼ばれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章17節
だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節10日目を迎えました。そして、明日は四旬節2回目の日曜日を私たちは迎えます。四旬節の最初の「旬(10日間)」が過ぎようとしています。あっという間に過ぎ去っていく日々のなかにあって、今日の一日が救い主イエスの十字架による命の尊さを、心から噛みしめる一日となりますように。そして、明日への良き備えの時となりますようにと祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神によって新しい者とされる」ということでした。そのことについて黙想したいと思います。今日の旧約聖書・イザヤ書の終わりにある一節には、神による再生と回復によって、そここに生きる者は「新しい名で呼ばれる」ことが記されていますし、今日の新約聖書の言葉である第二コリント書の一節には、古いものが過ぎ去り新しいものが生じる出来事が、救い主イエスによって私たちのうちに生じることが記されています。
 
余談ですが、月刊誌『本のひろば』(キリスト教文書センター)の最新号に、私が担当した書評が掲載されました。18世紀のドイツの神学者であるシュペーナーによる『新しい人間』という著作の書評です。ドイツ敬虔主義の父と言われているシュペーナーが指し示そうとした新しい人間とは何を指しているのだろうか。この著作を通して改めて知らされたのは、神は私たちを再生へと常に向かわせてくださる方であるということでした。
 
私たちは常に古くされていく自分自身と否が応でも向き合わなければならないことがあります。老いや古ぼけた自分自身と直面しながら、過去の新鮮さや新しさというものを振り返っては「あの頃はよかった」とつぶやいてしまう自分自身があるのかもしれません。固定観念やバイアスからなかなか解放されない自分自身があります。意味のない固守というものにしがみ付くこともあるでしょう。どうしても未来志向になかなか自分自身を進めることはできないのです。
 
そのようななかで、今日の聖句にもとづいて考えるならば、私たちのなかなか進まない足どりを整えて、神がその新しさをもって私たちをしなやかなものとしてくださる。そして、神が備えられた道というものを踏みしめて歩むことができるように、私たちに新鮮さを与えてくださるというのです。自力ではどうしようもないことを、神は私たちを慰め励ましながら、未知の世界、しかし神によって明確に約束された道の先というものに私たちの視線を向けさせてくださるのです。大切なのは、私たちが神がなさることにどれだけ信頼の思いをもって歩むことができるかに尽きるのだと思うのです。
 
四旬節が進み行くなかで、主の日が与えられていく備えを大切にしたいというのは、まさに苦しみを苦しみで終わらせず、復活へと向かう主イエスが私たちの同伴者となってくださるということそのものなのです。このイエスを救い主としていただいたことに心から感謝できるような一日でありますように。心からお祈りします。

14/03/2025

2025.3.14(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書14章9節
主はすべての地の王となられる。
その日には、主はただひとり
その名もただ一つとなる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節9日目を迎えました。今日もレントの期節のなかで与えられた御言葉を黙想したいと思います。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「すべての民の神である『主』」であると私は受け止めました。
 
イスラエルという限定された民族的宗教であったものが、イエス・キリストを境目に世界的宗教へと広がったのがキリスト教であったわけですが、それはキリストによるオリジナルなのかと言えば決してそういうことではないと私は思います。イエスは本来神が意図されたことを明確に理解した結果として、すべての民に救いを与えたのでした。
 
神の本来の目的とは、ご自分が手ずから造られた人間に管理を委ねられた「楽園」にすべてが込められています。この楽園で人間が増えていき、数々の被造物とともに、ひとひととともに、そして神とともに生きる幸いというものを味わう。これこそ神の意図の中心にあるものであったはずなのです。
 
しかし、そうはなりませんでした。私たちは自分たちの身に降りかかった混乱の結果、自分たちだけでひとつになろうとする目論見が外れました。バベルの塔の出来事によって言語がばらばらとなり、民族という概念ができ、それが際立つことによって神の本来の意図というものから、人間世界がどんどん乖離していったのではないかと考えるのです。今、民族間・国家間で起きている様々な差し障りなどは、まさにその実例と言えるでしょう。
 
しかし、イエスがご自分の十字架上で果たされた清算は、姿かたちは異なった民族であったとしても、それぞれの心において救い主イエスによってひとつとされることの可能性を確実なものとしてくださいました。私たちはどれだけ、その信仰の実体となられたイエス・キリストによってひとつとされているだろうか。さまざまな価値観が跋扈する世の中だからこそ、こういうことをじっくりと考えていきたいと思ったのでした。
 
キリストにあってひとつであるということが、陳腐な差別意識や下手な優劣意識を産むことが決してありませんように。今日一日の主にある平安と祝福を心からお祈りします。

13/03/2025

2025.3.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記6章8節
ノアは主の目に適う者であった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章9節
あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節8日目を迎えました。レントも5分の1が過ぎようとしています、救い主イエスの十字架を想うこの期節に、私たちは何を想うことができるのだろうか。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して受け止めたいのは「神の目に適う」ということについてだと私は思いました。
 
そもそも私たちは、神の目に適うような存在ではないのだと私は思っています。ただ、そのような思いが私のなかにあるのは、あくまで「一般的」な価値基準に照らし合わせた場合にそう思うのです。神に適格者と思われるためには、あれあれこういうことをしなければならないと、その目標点に到達すべく成績を積み重ねるように、自己努力していくという価値観です。その価値観に基づけば、到底私自身は適格者とみなされるような存在ではない、と思うのです。
 
そう考えると、ノアがそうであったように、神の目に適う者とされるというのは、何か目に見えてそうであるという結果論より、もっと別なところで神の目に適うという大切な要素があるのではないかと思わされるのです。では、それはいったい何か。それは過程論であり、神とともに歩むというプロセスにおいて、神が私たちを慈しみ、その深い愛をもって私たちを取り扱ってくださるということを、いかに私たちが受容し、そのことを生きる慰めや励ましにしながら日々を営みたいかという私たちの気持ちを、神はご自分の眼に適う者として拾い上げてくださるのではないかと、私は信じたいと思ったのです。
 
ノアもその生涯のなかで、まったく失敗をしなかったわけではありませんでした。そういう意味で言えば、やはり私たちと同じ、いわゆる罪を抱えた一人なのです。しかし、そういうノアを神はご自分の眼に適う者としてともに歩んでくださった。それはやはり、ノアの側に神とともに歩みたいという切なる気持ちがあったからだと私は思いますし、そのためにはどうしたら良いだろうかということを考えたうえで、神の言葉を忠実に自分の生き方としていったのだと思うのです。
 
このような気持ちを、神にどうしても背を向けてしまうような私たちの現実のなかにあっても、神の向けてくださるまなざしというものを大切にしながら、与えられた一日を歩むものでありたいと願わされた次第です。このことが、レントの日々を生きる私たちの慰めとなることを願いつつです。今日も主にあって、素敵な一日となりますように。お祈りします。

12/03/2025

2025.3.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書50章20節
その日、その時には、イスラエルの過ちを探しても、もうない――主の仰せ。ユダの罪も見いだされない。 私が生き残らせた人々を赦すからである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章24節
この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節7日目、そして第2週めを迎えました。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「赦されることとは癒されること」というものです。つまり、私たちが神と向き合えないがゆえに私たちが負うこととなった「罪」という病理によって、私たちもまた傷つき、この傷を痛ませながら日々を歩むものとさせられている、ということです。そして、傷には傷をもって私たちを癒そうとされる神がおられるということです。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちが負った傷は、イエスが負った打ち傷によって癒されたのだと記されています。傷が癒されるということは、傷口を守り続けることによって本来回復へと向かうというのが一般的に思われていることです。余談ですが、私は正月にすりむき傷を得ました。その時に特殊な絆創膏を貼りました。傷口から出る体液が傷を保護することによって、治りを早くするという効果を期待した絆創膏です。乾燥させてかさぶたを造るよりも生理的に良いのだそうです。実際に、私の傷もそれによってきれいに治りました。
 
同様に、私たちの負った罪という傷も、イエスが十字架で流された血液によって洗い清められて、罪という傷口が癒されることによって罪赦される、つまり神との関係が回復して神と向き合うことのできる関係性が回復したということなのでしょう。傷ゆえにあふれでる体液をもって傷を癒す。そこに究極の体液であるイエスの血液が用いられたということになります。
 
とは言っても、私たちのうちに傷が完全になくなるわけではありません。傷跡はシンボルのように残ることがありますし、またあらたな傷が実際にできることもあるでしょう。しかし、神との関係性が保たれていくならば、そのたびごとに癒される経験というものも、私たちは実感することができるのだと、私は今日の聖句から思わされた次第です。
 
自らの傷をながめながら、見つめつつ、それを癒してくださる方の助けが、今日一日も豊かにありますように。皆さんの主にある守りと祝福によって得られる平安がともにありますように。心からお祈りします。

11/03/2025

2025.3.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章22節
ヨシュアが民に向かって、「あなたがたが主を選び、主に仕えるということの証人は、あなたがた自身である」と言うと、民は「私たちが証人です」と答えた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章10~11節
ですから、きょうだいたち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするようにいっそう努めなさい。これらのことを行っているなら、決して過ちを犯すことはありません。こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節6日目を迎えました。そして、東日本大震災が起きて14回目の3月11日を迎えました。今日は、そのことを胸にしつつ一日を過ごしてまいりたいと思いますが、それに先立ち、ローズンゲンを通して与えられた御言葉を思いめぐらしたいと思います。
 
昨日、仙台の海沿いにある荒浜を訪ねました。いつもに増して、荒浜を訪れる方々が多いなかで、あらためて14年という時間を感じる機会となりました。整備された震災遺構を見ると、この出来事を忘却のかなたに置いてはならないという人々の確かな熱意というものを感じつつも、その整備もまた、あの時の生々しい惨状を知る者としては、その完成された感に、いささかの違和感のようなものを感じてしまうのです。もちろん、整備自体が決して悪いことではないのです。しかし、私のなかで何かを客観化し、やはり大切なことを忘れているのではないだろうか。そんな気持ちにさせられたのも、偽らざる事実なのです。
 
そんなことを思いながら、今日の聖句に聴こうとすると、私たちが神に召されて選ばれているという事実というものに、私はどれだけのリアルな感覚というものを抱かされているだろうかということを思わずにはいられなくなりました。私が神から大切にされているということを心の底から喜び、そして確信をいただいた時の新鮮さというものを、私が今日、この時を生きるしっかりとした柱とされられているだろうかという感覚をです。
 
私たちが神から召されているという事実に対して、それを自分自身の生き方で証明することができるのは、私たち自身である。今日の旧約聖書のことばであるヨシュア記の一節が伝えようとしているメッセージです。もちろん、神は助けてくださいます。どんなときにも支えてくださいます。しかし、そのような助けや支えというものが、本当に自分自身が生かされているということへの根拠となるような生き方というものを、私自身が本当に望んでいるということにこそ、記憶を決して風化させないことなのだと思ったのです。
 
震災という出来事を振り返ろうとする今、私がクリスチャンであるという自覚とあいまって、どのように神の支えや助けというものを反芻しながら、震災15年目の歩みへと一歩、そして一歩進むことができるだろうか。そんな黙想を通して、是非神による祝福というものを嚙みしめていきたいと、今日の聖句を受け止めたいと思います。
 
今日の一日が、皆さんにとって素敵な神との時間となりますように。心からお祈りします。

10/03/2025

2025.3.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編4編9節
平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。
主よ、あなただけが、私を
安らかに住まわせてくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章27節
私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節5日目を迎えました。昨日から始まった新しい一週間が、皆さんんにとって平安に満ちあふれた日々となりますように。心からお祈りします。そして、東北地方にとってはこの週はまさに「特別な一週間」を迎えます。東日本大震災から14年。明日はいたるところで震災を思い起こすための行事が行われようとしています。私もこの時に祈りを合わせて、震災が与えた教訓と、その世界の真ん中に立たれる神を想う時としたいと思っております。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「安らぎ」であると私は受け止めました。そのことを黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、救い主イエスが十字架につけられる前夜に弟子たちへ語られた言葉の一節です。「おびえるな」とイエスは語られました。先々訪れようとしている不安に弟子たちはおびえます。自分たちの今までの生活が一変してしまうことへの不安です。実際にただならぬ雰囲気を、弟子たちはイエスの言葉から感じたことでしょうし、ほどなくしてその不安は現実のものとなります。だから、弟子たちはおびえるのです。
 
そんな弟子たちの想いをすべて見通していたイエス。だから、弟子たちがおびえないように、イエスは「平和」を弟子たちに授けると約束してくださいました。その平和とは、この世が与える平和のかたちとは違うものであるとイエスは断言されます。この世の平和とは何でしょうか。刃を向け合い、優位性を確保することによって得られる平和のことでは決してありません。誰かだけが得をするようなことを、イエスはきっぱりと否定されるのです。
 
大切なことは、このイエスの提示される平和に、私たちがどれだけ自分自身の生き方とするかです。イエスの言葉が指し示しているエッセンスに耳と心を傾けることによって得られる平和です。しかし、何もしないままでは、イエスの語ろうとしていることを拒むならば、そこには究極的な平和を得ることは決してないのです。平和、平和と言いながら、平和でない状況をつくりあげてしまう。これが人間の偽らざる姿であり、悲しいかな「性(さが)」なのです。
 
平和とは安らぎである。神がつくりあげ、その想いを受けた私たちがつくりあげようとする平和は安らぎ、つまり「平安」がベースにあってこそ成り立つものであることを胸に刻みたいのです。今日の旧約聖書で歌われているように、身を横たえて安らいで眠りにつくことのできる状況こそ、平和の基盤にある決して欠かせないものであるということです。その平安を与えてくださるのも、私たちの神であって私たちを全身全霊で守ってくださる救い主イエスに他ならないということなのです。
 
この平安を私たちもいただいて、今日の一日を歩むことが出来ますように。

08/03/2025

2025.3.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
アモス書5章4節
主はこう言われる。
私を求めよ、そして生きよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68節
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節第4日目の朝を迎えました。
昨日は眼の調子が良くありませんでしたので、黙想をお休みしましたが、昨晩ゆっくり休んだおかげで、今朝は眼の調子がかなり戻ってきました。少し遅めに起きて、今日一日明日のための備えをしたいと思います。その備えをするうえで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想したいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「いのちの源である神」ということでした。私たちのいのちは誰のものか?もちろん、私たちは自分自身に与えられたいのちは自分のものであるであるわけですが、しかし、そのいのちをどのように用いるかという自由意志が与えられているなかで、やはり源というものを考えることは大切だと思うのです。
 
親から頂いたいのちを粗末にするなということを、幼い頃よく言われていたことを思い出します。両親のいのちを受け継いだ以上、生きていることに感謝の気持ちを忘れてはいけないということを表す言葉として、このような言葉が当たり前のように受け入れられてきたのだと思います。この言葉自体、決して間違っていることではありません。
 
しかし、この「親」について考えるときに、聖書が伝えようとしているメッセージは、その親とは誰のことを指すのか、という問いについて深く考えさせられるものであると私は思います。肉親もさることながら究極的に私たちの親とは、今日の聖句にも指し示されているように神に他ならないと私はあらためて思わされるのです。
 
聖霊とは親心という言葉を聞いたことがあります。私たちを守るために生きて働き、独り子のいのちまでも惜しみなく差し出してしまうような親心をともなって、私たちひとりひとりに大切なことを教え、そして授けてくださる神が、今日の聖句でも「私を求めよ、そして生きよ」と、与えたいのちをもって、その源である神とともに生きる幸いというものを提示してくださるのです。
 
私たちは、いのちが自分自身のものであるという意識はときに、自分自身のいのちをどのように用いようが、それは私に与えられた「権利」であると主張することもあるかもしれません。できるだけ人の干渉を受けずに自由を謳歌し、自分のものであるいのちを想い存分に用いたいという考えが心の片隅にあるものです。そして時にその思いが心のなかを占拠してしまうこともあるでしょう。
 
しかし、そういうときにこそ、私たちのいのちを与え主のことを心にとどめたいのです。決して自暴自棄になることなく、権利と自由の誤用をすることもなく、生きよと私たちに告げておられる神が、今日も私たちとともにおられることを心に刻みたいのです。それが一時的な喜びのためではなく、今日の聖句にもあるように、永遠へとつづくいのちをもって、救い主となられたイエスとの揺るぎないつながりを大切にしたいのです。
 
そのようなイエスとつながれたいのちにこそ、一日を充実して生きる重要な鍵があるのだと私は受け止めたいと思いました。このような一日を経て、明日の主の日を迎えることができますようにと祈りつつ、生きよと叫ばれた神とともに命を用いたいのです。
 
皆さんの一日にも、神がともにいてくださることの充実感を味わうことができますように。お祈りします。

06/03/2025

2025.3.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書1章11節
日の出る所から日の沈む所まで、諸国民の間でわが名は大いなるものとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章11節
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節第2日目の朝を迎えました。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「日のいずるところから沈むところまで、つまり東から西まで、神の世界がすべてにおよんでいる」というテーマであると私は受け止めました。このことについて、黙想したいと思います。
 
昨日のニュースで、アメリカ合衆国のトランプ大統領が施政方針演説をしたことが報道されました。約100分にわたる、史上最長の米国大統領の施政方針演説だったとのこと。アメリカ政治にそんなに詳しいわけではありませんが、つい先日のゼレンスキー・ウクライナ大統領との舌戦の直後だけに、トランプ大統領がどのような演説をするのかは少なからず興味がありました。
 
あれが政治的演説と呼ばれるものなのかもしれませんが、かなりストレートなモノの言いであり、前の民主党政権をけちょんけちょんにこき下ろすあたりは、私としては「もう少し紳士的な言い方はできないのだろうか」とちょっと思ってしまったくらいです。しかし、そのことよりも思ったのは、アメリカは世界の上に立つ中心国であるという自負がやはりあるのだなということでした。まさに、東から西までアメリカの手中にあるかのような意識がどこかにあるのではないだろうかと思ったのは私だけでしょうか。
 
アメリカ合衆国は、神の信託によって建てられた国であるという自負ゆえのことなのか、しばしば「神の国アメリカ」と呼ばれるのも、このような姿勢や態度から理解できるような気がします。しかし、私はアメリカ国民ではありませんし、ひとつの国家だけが神の国を構成するという考え方は、アメリカからすれば外国人である私からすれば、やはり違和感を思わずにはいられないというのも、正直な意見です。
 
今回、アメリカがロシアとウクライナの和平の使者として名乗りを上げているのも、第二次世界大戦後の日本に対して、アメリカが多分に関わり続けているのも、神の国の代弁者としての純粋な意識ゆえのことなのか、それとももっと俗っぽい国益重視ゆえのことなのかは分かりませんが、私としては、東から西にいたるまで神の世界があるとは、私にとって何を意味するのかということを、既存の国家の枠を超えて考えるべきなのだろうと、やはり思わされるのです。
 
国家の枠を超えて神の世界がここにあるということを、国家というかたちの問題ではなく、心の問題として私はとらえたいのです。どんな者をも愛しいつくしまれる神が、そのことをなかなか理解できない人間のために、平和の使者であるキリスト・イエスを与えてくださったという事実を、今の世界情勢を眺めつつ、自分自身に突きつけられた課題としてどのように受容できるのか。四旬節の期節だからこそ、こういうことに思いを寄せる一日でありたいと心から思わされた次第です。
 
今日も救い主イエスにあって、平和を望む一日でありますように。世界の平和を心から願いつつ、祈りを合わせたいと思います。

05/03/2025

2025.3.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書59章2節
あなたがたの罪が神の御顔を隠し
聞こえないようにしている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節第1日目の朝を迎えました。
今日から4月19日までの期間、救い主イエスが十字架の犠牲への道を歩まれたことを記憶にとどめる四旬節(レント)の時をもちます。教会がカレンダーのなかで、自らのうちにある罪(神に背を向けて歩む人間の姿)を想い起こしながら、その日々を過ごしてまいります。神の価値観と私自身の価値観にあるズレというものに気付くことができますようにと祈りつつ、今日の御言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに「罪」とは何かについて明確に指し示しているものと私は受け止めました。罪とは何か悪いことをするといったことに思いが集中しがちですが、それは罪の結果外に表れることなのであって、その根本にあるものとはいったい何なのか、今日の旧約聖書であるイザヤ書の一節で語られているのは、神の御顔が隠れてしまうほどに、私たちの視線と神の視線が合っていない状態のことを指します。これを新約聖書で使用されるギリシア語では「ハマルティア(的外れ)」という言葉が用いられているのは、実に秀逸なのだと私は思うのです。
 
いのちの与え主である神と視線が合っていないわけですから、そこにはいのちが宿っていない。それは単に心臓が動くか動かないかということではなく、神が与えられたいのちが欠けている状態であるというのです。これを今日の新約聖書では「罪の報酬は死である」という表現をもって、罪の結果というものを明らかにしています。
 
そんな私たちに神が賜物として与えられたのが、イエス・キリストによる「いのち」でした。私たちのためにそのいのちを犠牲としてくださったイエスが、私たちひとりひとりに賜物、つまり「ギフト」として与えられたことの意味というものを、この四旬節の期間中に、いつもよりも意識しつつ、その幸いというものを味わっていきたいと願わされます。
 
どうか、このレントの期節が、そのような神のなされる良いことに感謝できる日々でありますようにと心から祈りつつ、その初日であるスタートも祝されますように。皆さんの一日が主にあって豊かなものでありますように。心よりお祈りします。

04/03/2025

2025.3.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章14節
娘シオンよ、喜び歌え
今、私は来て
あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章10節
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「救い主が私たちのただ中におられる喜び」というものです。そのことについて書きつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、いよいよイエスが弟子たちとともにエルサレムの都に入城したときの様子を描いたものです。群衆にとってイエスの存在は「世直し大明神」と言ったところでしょうか。自分たちを平和へと導く王が来られるという大きな期待とともに、イエスの入城を迎えました。「ホサナ」と叫ぶ群衆たちがそこにありました。ホサナとは「救ってください」という意味の言葉です。まさに自分たちを救ってくださいという言葉がイエスに向けられたのです。
 
それに対するエルサレム市民の反応というものが、今日の新約聖書の言葉です。一体これはどういう人だという驚きの声が、都中の人たちの反応でした。ということは、イエスをホサナと叫び迎えた群衆とは、エルサレム市民ではなかったのかもしれません。この市民の驚きに対して、群衆が「預言者イエスである」と答えているわけですから。
 
のちにイエスを十字架につけろと騒ぎ立てたのは、おそらくその時に驚いたエルサレム市民のほうだったのでしょう。自分たち市民ではなく、ガリラヤのナザレという田舎からやって来た、どこぞの馬の骨とも知らない奴がメシア(王であり救い主)を名乗るということは、批判の的にする格好の対象だったのではないかと私は思うのです。しかし、逆を言えば、エルサレム市民を騒がせるほど、イエスの登場はインパクトの強いものであったし、それを心から喜ぶ大勢の群衆がいたことも確かです。確かに、救い主イエスが人々のただ中にいることが、大きな喜びへとつながっていったのだと思うのです。
 
この喜びこそ、今日の旧約聖書であるゼカリヤ書で語られた、神である主の仰せだったのです。私はあなた方のただ中にいる。それゆえに、私の喜びによって大いに喜びなさいと、神はご自分の民たちに呼びかけておられるのです。
 
このことから、その喜びというものを、私たちはホサナと叫んだ群衆のように喜ぶことができるのか、それともいぶかしながら驚き続けたエルサレム市民のようになるのかということは、私たちの受け止め方次第なのではないだろうかと思わされます。つまり、私たちがいかに神の喜びというものを、自分自身の心に染ませることができるのだろうかということが、今日のふたつの聖句を通して伝えているメッセージなのだろうと、私は受け止めたいと思ったのです。
 
明日は灰の水曜日です。ここから4月19日までの期間、私たちは四旬節(レント)の期節を迎えます。イエスが私たちの喜びのために、自ら十字架の道へと進み、そして私たちの救い主となられたことの意味を今一度噛みしめつつ、その備えの一日となりますようにと祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、主の携えてくださる喜びがともにありますように。お祈りします。

03/03/2025

2025.3.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編139編23~24節
神よ、私を調べ、私の心を知ってください。
私を試し、悩みを知ってください。
御覧ください
私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。
とこしえの道に私を導いてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章14節
命に通じる門は狭く、その道も細い。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「道」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって人々に語られた珠玉の言葉集、つまり「山上の説教」と呼ばれるものの一節です。イエスは民たちに対して、「命の道」と「滅びの道」というふたつの道があることを話されます。そして、今日の聖句にもあるように、命へと至る道は狭く、しかし滅びへと至る道は広いことが語られます。
 
この二者択一的なイエスのアプローチを、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。私はかつて、神によって救いの道を得るものは実に少数であり、大多数は滅びの道を歩むものだ。だから、大多数のキリスト教会に身を置くのではなく、神が唯一選ばれた私たちの団体で信仰生活を送るならば、命の道に至ることができると教えられたことがありました。キリスト教会は神の道からそれて歩んでいるので、やがて滅びの道を歩むのだというアプローチです。
 
そのような私の自分史を経たからなのでしょう。そのようなアプローチで私たちの心をひこうとするアプローチが、どうも信用ならぬところがあるのです。もちろん、私も含めて既存のキリスト教会が100%正しいなどとはつゆだに思っておりません。判断の誤りや間違いを私たちは繰り返します。だから、狭い道を歩もうと誠実さをもって神に向き合う態度は本当に大切なのですが、自説を展開するときに、キリスト教会の姿を揶揄するようなやり方というものを、私はどうしても同意することができません。実際に、そのような自説を展開する傾向や風潮というものを、最近しばしば目にすることがあります。SNSの登場により、そのような自説の伝播力というものがとても強いように感じることもあるのです。
 
私は結局のところ、イエスが言われたような狭い道や広い道を歩むというのは、誰かに言われたからそうするといった種類のものではないのだと思っています。あくまで、今日の旧約聖書の言葉のなかで、歌い手が神に向き合って、自分自身の姿をチェックし続ける営みこそが、狭い道を歩んでいるかどうかということの判断になるのではないかと思わずにはいられないのです。
 
神に調べてもらうのです。自分自身のうちに偶像礼拝、つまり神以外の価値観で自分自身を満たしていないかどうかを、御言葉に聴き祈るという営みの循環を通して、神と深い交流をしようと願うときにこそ、神は私たちをとこしえの道、つまりイエスが言われた救いの道へと導かれるための助けというものを差し出してくださるのだということを、是非受け止めつつ今日の一歩を歩んでいきたいのです。もちろん、そういった過程のなかで失敗すること、思い違いをすることも多々あるでしょう。だからこそ、神に自分自身の姿というものを点検していただくことを大切にしたいと思わされます。
 
そういった営みは、決して華々しく目立つものではありません。見つけられないくらい狭い道なのでしょう。しかし、神はかならずその細道を見つけ、歩むことができるように助けてくださる。そんなことを希望にして、今日の一日を歩むことができますように。心からお祈りします。

02/03/2025

2025.3.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章9節
主はその愛と憐れみによって彼らを贖い
昔からずっと彼らを負い、担ってくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書20章30節
すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これからやって来る七日間の旅路がどのような日々になるのか、心弾ませながら出会うひとつひとつの出来事に向き合うことができますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンに示された御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「憐れみ」です。聖書にはよく登場する言葉であり、神の抱かれる属性のひとつであると言われています。「主を、憐れみを」という意味のラテン語は「キリエ・エレイソン」であり、まさにこのエレイソンの原語となったのが、今日のマタイによる福音書20章30節で用いられているわけです。
 
憐れみは「慈悲」という言葉でも表現することができます。痛みを少しでも共感し、共有したいという思いから生じるのが慈悲であり、神は私たちひとりひとりに慈悲の思いで接してくださっていることが、聖書のあらゆる部分から知ることができます。新約聖書の時代、強さや大きさというものが誇示されたギリシア・ローマ文化のなかで、あえて弱いものに目を留め、それを大切にされるというユダヤ教的価値観というものは、なかなか受け入れられなかったのかもしれません。それでも、そのことをイエスは神の御心を100%身に負う者として、今日の聖書箇所に登場する二人の盲人の訴えに対して、その憐れみの心を示されました。
 
この慈悲の心は、神に慈愛を込めて私たちを創造された神の親心から来るものです。親が子を慈しむように、私たちを大切に守ろうとする神の思いがあふれるときに、慈悲というものが現実化されるのでしょう。私たちひとりひとりが神の慈悲によって生かされているならば、私たちもまた神から与えられ、満たされた慈悲の心によって生きる者とさせられるのです。特に、隣人とともに生きるときに、この慈悲の心は私たちのあいだに神の平和が宿るために欠かせないものとなるのでしょう。
 
そんな思いを胸にして、新しい一週間を歩む者でありたいと心から願いつつ、その先駆けとなる今日の礼拝の一切に、また安息日の一日に、神の憐れみがあふれますように。心からお祈りします。

01/03/2025

2025.3.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書46章9節
いにしえから続くこれまでのことを思い起こせ。
私は神、ほかにはいない。
私のような神はいない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章8節
今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
3月に入りました。この前新年を迎えたらと思ったのに、あっという間に2か月が過ぎてしまいました。こうして春が近づいていくのを少しずつ経験するひと月になれば良いなと心から願います。特に雪害で大変な地域が、少しでもその不便さから解放されますようにと祈るはかりです。あと、これは私事ですが、今日は私たち夫婦の結婚記念日です。丸22年を迎えました。結婚式当日も土曜日でした。灰の水曜日直前の土曜日でしたので、今年と同じ暦周りだったのだなと振り返ることができました。土砂降りの寒い一日でしたが、大勢の方々に参列してもらったことを思い出しました。あの頃の初心に忘れずに、23年目の歩みを大切にしたいと思いました。
 
さて、そんな思いとともに、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想わされたのは、「私たちは変わっても、神が私たちとともにおられるということは、昔も今も、そしてこれからも変わることはないのだ」ということです。過去と現在、そして未来へとつながる神が、どの時代においてもご自分の民を支え、助け、ともに歩んでくださる。この事実にあらためて不思議な感覚を抱かされます。
 
私たちは「今、ここにあるもの」を大切にします。しかし、それは過去からの継承のうえに立ち、私たちもまた少しずつ蓄積されたところに立たされているし、その蓄積されたものは未来志向への第一歩としての「今」があることを大切にしたいのです。それらの断片的なひとつひとつをつなぎ合わせるのが、普遍的な私たちの神であり、救い主イエス・キリストなのだと。そのことを聖霊が私たちに気付きと認識を与えるときに、神とともにいるという私たちのイメージがより確かなものとなっていくのだと、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めることができました。
 
決して過去を過剰に美化することがあってはならないし、極端な懐古主義は未来志向への芽というものを摘み取ってしまいます。だからといって、過去を全否定することも私たちは決してできないこともまた事実です。そこには神の関与が必ずあるからです。過去に目を閉ざすことは結果として神のまなざしをも無視することになるのでしょう。そして過去と現在に対する健全な視点があるからこそ、未来をどのように神とともに生きるのか。そもそも神が私たちのどのような未来であることを望まれているのか。このイメージが神によって与えられるのだと私は思います。
 
ですから、いにしえから現在、そしてこれからも変わらずに私たちに与えられ続けている神の御言葉である聖書そのものは変わることは無かったとしても、聖書に対する私たちの視点は、過去・現在・未来へのバランスの取れた視点とともに、時流に生きる新しい言葉としてこれからも与えられ続けていくことを、是非大切にしたいのです。
 
どうか今日の一日もまた、神の守りと祝福に支えられながら、明日への備えの時となりますように。心からお祈りします。