08/03/2025

2025.3.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
アモス書5章4節
主はこう言われる。
私を求めよ、そして生きよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68節
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節第4日目の朝を迎えました。
昨日は眼の調子が良くありませんでしたので、黙想をお休みしましたが、昨晩ゆっくり休んだおかげで、今朝は眼の調子がかなり戻ってきました。少し遅めに起きて、今日一日明日のための備えをしたいと思います。その備えをするうえで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想したいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「いのちの源である神」ということでした。私たちのいのちは誰のものか?もちろん、私たちは自分自身に与えられたいのちは自分のものであるであるわけですが、しかし、そのいのちをどのように用いるかという自由意志が与えられているなかで、やはり源というものを考えることは大切だと思うのです。
 
親から頂いたいのちを粗末にするなということを、幼い頃よく言われていたことを思い出します。両親のいのちを受け継いだ以上、生きていることに感謝の気持ちを忘れてはいけないということを表す言葉として、このような言葉が当たり前のように受け入れられてきたのだと思います。この言葉自体、決して間違っていることではありません。
 
しかし、この「親」について考えるときに、聖書が伝えようとしているメッセージは、その親とは誰のことを指すのか、という問いについて深く考えさせられるものであると私は思います。肉親もさることながら究極的に私たちの親とは、今日の聖句にも指し示されているように神に他ならないと私はあらためて思わされるのです。
 
聖霊とは親心という言葉を聞いたことがあります。私たちを守るために生きて働き、独り子のいのちまでも惜しみなく差し出してしまうような親心をともなって、私たちひとりひとりに大切なことを教え、そして授けてくださる神が、今日の聖句でも「私を求めよ、そして生きよ」と、与えたいのちをもって、その源である神とともに生きる幸いというものを提示してくださるのです。
 
私たちは、いのちが自分自身のものであるという意識はときに、自分自身のいのちをどのように用いようが、それは私に与えられた「権利」であると主張することもあるかもしれません。できるだけ人の干渉を受けずに自由を謳歌し、自分のものであるいのちを想い存分に用いたいという考えが心の片隅にあるものです。そして時にその思いが心のなかを占拠してしまうこともあるでしょう。
 
しかし、そういうときにこそ、私たちのいのちを与え主のことを心にとどめたいのです。決して自暴自棄になることなく、権利と自由の誤用をすることもなく、生きよと私たちに告げておられる神が、今日も私たちとともにおられることを心に刻みたいのです。それが一時的な喜びのためではなく、今日の聖句にもあるように、永遠へとつづくいのちをもって、救い主となられたイエスとの揺るぎないつながりを大切にしたいのです。
 
そのようなイエスとつながれたいのちにこそ、一日を充実して生きる重要な鍵があるのだと私は受け止めたいと思いました。このような一日を経て、明日の主の日を迎えることができますようにと祈りつつ、生きよと叫ばれた神とともに命を用いたいのです。
 
皆さんの一日にも、神がともにいてくださることの充実感を味わうことができますように。お祈りします。

06/03/2025

2025.3.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書1章11節
日の出る所から日の沈む所まで、諸国民の間でわが名は大いなるものとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章11節
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節第2日目の朝を迎えました。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「日のいずるところから沈むところまで、つまり東から西まで、神の世界がすべてにおよんでいる」というテーマであると私は受け止めました。このことについて、黙想したいと思います。
 
昨日のニュースで、アメリカ合衆国のトランプ大統領が施政方針演説をしたことが報道されました。約100分にわたる、史上最長の米国大統領の施政方針演説だったとのこと。アメリカ政治にそんなに詳しいわけではありませんが、つい先日のゼレンスキー・ウクライナ大統領との舌戦の直後だけに、トランプ大統領がどのような演説をするのかは少なからず興味がありました。
 
あれが政治的演説と呼ばれるものなのかもしれませんが、かなりストレートなモノの言いであり、前の民主党政権をけちょんけちょんにこき下ろすあたりは、私としては「もう少し紳士的な言い方はできないのだろうか」とちょっと思ってしまったくらいです。しかし、そのことよりも思ったのは、アメリカは世界の上に立つ中心国であるという自負がやはりあるのだなということでした。まさに、東から西までアメリカの手中にあるかのような意識がどこかにあるのではないだろうかと思ったのは私だけでしょうか。
 
アメリカ合衆国は、神の信託によって建てられた国であるという自負ゆえのことなのか、しばしば「神の国アメリカ」と呼ばれるのも、このような姿勢や態度から理解できるような気がします。しかし、私はアメリカ国民ではありませんし、ひとつの国家だけが神の国を構成するという考え方は、アメリカからすれば外国人である私からすれば、やはり違和感を思わずにはいられないというのも、正直な意見です。
 
今回、アメリカがロシアとウクライナの和平の使者として名乗りを上げているのも、第二次世界大戦後の日本に対して、アメリカが多分に関わり続けているのも、神の国の代弁者としての純粋な意識ゆえのことなのか、それとももっと俗っぽい国益重視ゆえのことなのかは分かりませんが、私としては、東から西にいたるまで神の世界があるとは、私にとって何を意味するのかということを、既存の国家の枠を超えて考えるべきなのだろうと、やはり思わされるのです。
 
国家の枠を超えて神の世界がここにあるということを、国家というかたちの問題ではなく、心の問題として私はとらえたいのです。どんな者をも愛しいつくしまれる神が、そのことをなかなか理解できない人間のために、平和の使者であるキリスト・イエスを与えてくださったという事実を、今の世界情勢を眺めつつ、自分自身に突きつけられた課題としてどのように受容できるのか。四旬節の期節だからこそ、こういうことに思いを寄せる一日でありたいと心から思わされた次第です。
 
今日も救い主イエスにあって、平和を望む一日でありますように。世界の平和を心から願いつつ、祈りを合わせたいと思います。

05/03/2025

2025.3.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書59章2節
あなたがたの罪が神の御顔を隠し
聞こえないようにしている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節第1日目の朝を迎えました。
今日から4月19日までの期間、救い主イエスが十字架の犠牲への道を歩まれたことを記憶にとどめる四旬節(レント)の時をもちます。教会がカレンダーのなかで、自らのうちにある罪(神に背を向けて歩む人間の姿)を想い起こしながら、その日々を過ごしてまいります。神の価値観と私自身の価値観にあるズレというものに気付くことができますようにと祈りつつ、今日の御言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに「罪」とは何かについて明確に指し示しているものと私は受け止めました。罪とは何か悪いことをするといったことに思いが集中しがちですが、それは罪の結果外に表れることなのであって、その根本にあるものとはいったい何なのか、今日の旧約聖書であるイザヤ書の一節で語られているのは、神の御顔が隠れてしまうほどに、私たちの視線と神の視線が合っていない状態のことを指します。これを新約聖書で使用されるギリシア語では「ハマルティア(的外れ)」という言葉が用いられているのは、実に秀逸なのだと私は思うのです。
 
いのちの与え主である神と視線が合っていないわけですから、そこにはいのちが宿っていない。それは単に心臓が動くか動かないかということではなく、神が与えられたいのちが欠けている状態であるというのです。これを今日の新約聖書では「罪の報酬は死である」という表現をもって、罪の結果というものを明らかにしています。
 
そんな私たちに神が賜物として与えられたのが、イエス・キリストによる「いのち」でした。私たちのためにそのいのちを犠牲としてくださったイエスが、私たちひとりひとりに賜物、つまり「ギフト」として与えられたことの意味というものを、この四旬節の期間中に、いつもよりも意識しつつ、その幸いというものを味わっていきたいと願わされます。
 
どうか、このレントの期節が、そのような神のなされる良いことに感謝できる日々でありますようにと心から祈りつつ、その初日であるスタートも祝されますように。皆さんの一日が主にあって豊かなものでありますように。心よりお祈りします。

04/03/2025

2025.3.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章14節
娘シオンよ、喜び歌え
今、私は来て
あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章10節
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「救い主が私たちのただ中におられる喜び」というものです。そのことについて書きつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、いよいよイエスが弟子たちとともにエルサレムの都に入城したときの様子を描いたものです。群衆にとってイエスの存在は「世直し大明神」と言ったところでしょうか。自分たちを平和へと導く王が来られるという大きな期待とともに、イエスの入城を迎えました。「ホサナ」と叫ぶ群衆たちがそこにありました。ホサナとは「救ってください」という意味の言葉です。まさに自分たちを救ってくださいという言葉がイエスに向けられたのです。
 
それに対するエルサレム市民の反応というものが、今日の新約聖書の言葉です。一体これはどういう人だという驚きの声が、都中の人たちの反応でした。ということは、イエスをホサナと叫び迎えた群衆とは、エルサレム市民ではなかったのかもしれません。この市民の驚きに対して、群衆が「預言者イエスである」と答えているわけですから。
 
のちにイエスを十字架につけろと騒ぎ立てたのは、おそらくその時に驚いたエルサレム市民のほうだったのでしょう。自分たち市民ではなく、ガリラヤのナザレという田舎からやって来た、どこぞの馬の骨とも知らない奴がメシア(王であり救い主)を名乗るということは、批判の的にする格好の対象だったのではないかと私は思うのです。しかし、逆を言えば、エルサレム市民を騒がせるほど、イエスの登場はインパクトの強いものであったし、それを心から喜ぶ大勢の群衆がいたことも確かです。確かに、救い主イエスが人々のただ中にいることが、大きな喜びへとつながっていったのだと思うのです。
 
この喜びこそ、今日の旧約聖書であるゼカリヤ書で語られた、神である主の仰せだったのです。私はあなた方のただ中にいる。それゆえに、私の喜びによって大いに喜びなさいと、神はご自分の民たちに呼びかけておられるのです。
 
このことから、その喜びというものを、私たちはホサナと叫んだ群衆のように喜ぶことができるのか、それともいぶかしながら驚き続けたエルサレム市民のようになるのかということは、私たちの受け止め方次第なのではないだろうかと思わされます。つまり、私たちがいかに神の喜びというものを、自分自身の心に染ませることができるのだろうかということが、今日のふたつの聖句を通して伝えているメッセージなのだろうと、私は受け止めたいと思ったのです。
 
明日は灰の水曜日です。ここから4月19日までの期間、私たちは四旬節(レント)の期節を迎えます。イエスが私たちの喜びのために、自ら十字架の道へと進み、そして私たちの救い主となられたことの意味を今一度噛みしめつつ、その備えの一日となりますようにと祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、主の携えてくださる喜びがともにありますように。お祈りします。

03/03/2025

2025.3.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編139編23~24節
神よ、私を調べ、私の心を知ってください。
私を試し、悩みを知ってください。
御覧ください
私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。
とこしえの道に私を導いてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章14節
命に通じる門は狭く、その道も細い。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「道」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって人々に語られた珠玉の言葉集、つまり「山上の説教」と呼ばれるものの一節です。イエスは民たちに対して、「命の道」と「滅びの道」というふたつの道があることを話されます。そして、今日の聖句にもあるように、命へと至る道は狭く、しかし滅びへと至る道は広いことが語られます。
 
この二者択一的なイエスのアプローチを、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。私はかつて、神によって救いの道を得るものは実に少数であり、大多数は滅びの道を歩むものだ。だから、大多数のキリスト教会に身を置くのではなく、神が唯一選ばれた私たちの団体で信仰生活を送るならば、命の道に至ることができると教えられたことがありました。キリスト教会は神の道からそれて歩んでいるので、やがて滅びの道を歩むのだというアプローチです。
 
そのような私の自分史を経たからなのでしょう。そのようなアプローチで私たちの心をひこうとするアプローチが、どうも信用ならぬところがあるのです。もちろん、私も含めて既存のキリスト教会が100%正しいなどとはつゆだに思っておりません。判断の誤りや間違いを私たちは繰り返します。だから、狭い道を歩もうと誠実さをもって神に向き合う態度は本当に大切なのですが、自説を展開するときに、キリスト教会の姿を揶揄するようなやり方というものを、私はどうしても同意することができません。実際に、そのような自説を展開する傾向や風潮というものを、最近しばしば目にすることがあります。SNSの登場により、そのような自説の伝播力というものがとても強いように感じることもあるのです。
 
私は結局のところ、イエスが言われたような狭い道や広い道を歩むというのは、誰かに言われたからそうするといった種類のものではないのだと思っています。あくまで、今日の旧約聖書の言葉のなかで、歌い手が神に向き合って、自分自身の姿をチェックし続ける営みこそが、狭い道を歩んでいるかどうかということの判断になるのではないかと思わずにはいられないのです。
 
神に調べてもらうのです。自分自身のうちに偶像礼拝、つまり神以外の価値観で自分自身を満たしていないかどうかを、御言葉に聴き祈るという営みの循環を通して、神と深い交流をしようと願うときにこそ、神は私たちをとこしえの道、つまりイエスが言われた救いの道へと導かれるための助けというものを差し出してくださるのだということを、是非受け止めつつ今日の一歩を歩んでいきたいのです。もちろん、そういった過程のなかで失敗すること、思い違いをすることも多々あるでしょう。だからこそ、神に自分自身の姿というものを点検していただくことを大切にしたいと思わされます。
 
そういった営みは、決して華々しく目立つものではありません。見つけられないくらい狭い道なのでしょう。しかし、神はかならずその細道を見つけ、歩むことができるように助けてくださる。そんなことを希望にして、今日の一日を歩むことができますように。心からお祈りします。

02/03/2025

2025.3.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章9節
主はその愛と憐れみによって彼らを贖い
昔からずっと彼らを負い、担ってくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書20章30節
すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これからやって来る七日間の旅路がどのような日々になるのか、心弾ませながら出会うひとつひとつの出来事に向き合うことができますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンに示された御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「憐れみ」です。聖書にはよく登場する言葉であり、神の抱かれる属性のひとつであると言われています。「主を、憐れみを」という意味のラテン語は「キリエ・エレイソン」であり、まさにこのエレイソンの原語となったのが、今日のマタイによる福音書20章30節で用いられているわけです。
 
憐れみは「慈悲」という言葉でも表現することができます。痛みを少しでも共感し、共有したいという思いから生じるのが慈悲であり、神は私たちひとりひとりに慈悲の思いで接してくださっていることが、聖書のあらゆる部分から知ることができます。新約聖書の時代、強さや大きさというものが誇示されたギリシア・ローマ文化のなかで、あえて弱いものに目を留め、それを大切にされるというユダヤ教的価値観というものは、なかなか受け入れられなかったのかもしれません。それでも、そのことをイエスは神の御心を100%身に負う者として、今日の聖書箇所に登場する二人の盲人の訴えに対して、その憐れみの心を示されました。
 
この慈悲の心は、神に慈愛を込めて私たちを創造された神の親心から来るものです。親が子を慈しむように、私たちを大切に守ろうとする神の思いがあふれるときに、慈悲というものが現実化されるのでしょう。私たちひとりひとりが神の慈悲によって生かされているならば、私たちもまた神から与えられ、満たされた慈悲の心によって生きる者とさせられるのです。特に、隣人とともに生きるときに、この慈悲の心は私たちのあいだに神の平和が宿るために欠かせないものとなるのでしょう。
 
そんな思いを胸にして、新しい一週間を歩む者でありたいと心から願いつつ、その先駆けとなる今日の礼拝の一切に、また安息日の一日に、神の憐れみがあふれますように。心からお祈りします。

01/03/2025

2025.3.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書46章9節
いにしえから続くこれまでのことを思い起こせ。
私は神、ほかにはいない。
私のような神はいない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章8節
今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
3月に入りました。この前新年を迎えたらと思ったのに、あっという間に2か月が過ぎてしまいました。こうして春が近づいていくのを少しずつ経験するひと月になれば良いなと心から願います。特に雪害で大変な地域が、少しでもその不便さから解放されますようにと祈るはかりです。あと、これは私事ですが、今日は私たち夫婦の結婚記念日です。丸22年を迎えました。結婚式当日も土曜日でした。灰の水曜日直前の土曜日でしたので、今年と同じ暦周りだったのだなと振り返ることができました。土砂降りの寒い一日でしたが、大勢の方々に参列してもらったことを思い出しました。あの頃の初心に忘れずに、23年目の歩みを大切にしたいと思いました。
 
さて、そんな思いとともに、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想わされたのは、「私たちは変わっても、神が私たちとともにおられるということは、昔も今も、そしてこれからも変わることはないのだ」ということです。過去と現在、そして未来へとつながる神が、どの時代においてもご自分の民を支え、助け、ともに歩んでくださる。この事実にあらためて不思議な感覚を抱かされます。
 
私たちは「今、ここにあるもの」を大切にします。しかし、それは過去からの継承のうえに立ち、私たちもまた少しずつ蓄積されたところに立たされているし、その蓄積されたものは未来志向への第一歩としての「今」があることを大切にしたいのです。それらの断片的なひとつひとつをつなぎ合わせるのが、普遍的な私たちの神であり、救い主イエス・キリストなのだと。そのことを聖霊が私たちに気付きと認識を与えるときに、神とともにいるという私たちのイメージがより確かなものとなっていくのだと、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めることができました。
 
決して過去を過剰に美化することがあってはならないし、極端な懐古主義は未来志向への芽というものを摘み取ってしまいます。だからといって、過去を全否定することも私たちは決してできないこともまた事実です。そこには神の関与が必ずあるからです。過去に目を閉ざすことは結果として神のまなざしをも無視することになるのでしょう。そして過去と現在に対する健全な視点があるからこそ、未来をどのように神とともに生きるのか。そもそも神が私たちのどのような未来であることを望まれているのか。このイメージが神によって与えられるのだと私は思います。
 
ですから、いにしえから現在、そしてこれからも変わらずに私たちに与えられ続けている神の御言葉である聖書そのものは変わることは無かったとしても、聖書に対する私たちの視点は、過去・現在・未来へのバランスの取れた視点とともに、時流に生きる新しい言葉としてこれからも与えられ続けていくことを、是非大切にしたいのです。
 
どうか今日の一日もまた、神の守りと祝福に支えられながら、明日への備えの時となりますように。心からお祈りします。