くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編59編17節
朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわが砦。
苦難の日の逃げ場になってくださいました。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録26章22節
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節3回目の日曜日を迎えました。今日、世界中で行われる主の日の礼拝や集会のすべてに、神の守りと祝福が豊かにありますように。それらの集まりを通して、すべての方々が神とともにある幸いを味わうことができますように。救い主イエスが十字架につけられたことの意味が、私の命にかかわっていることを喜びのうちに味わうことができますように。祈りつつ一日を過ごしてまいりたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の助け」についてです。今日の詩編のことばを歌った歌い手はイスラエル王ダビデでした。詩編59編の表題には、自分が先の王サウルから命を狙われていたときに、神に助けを求める歌として歌われたものであることが分かります。自分自身が危機のときに、いかに神である主ヤハウェの存在が自分自身の守りとなったかについて、彼は自分の気持ちをストレートに詩に込めたのでした。
そのストレートな思いは、のちに宣教者であったパウロにもしっかりと継承されています。今日の新約聖書の言葉は、パウロが数多くの迫害や困難を経て、いよいよローマ王アグリッパの前で、自らの証しをもって福音を伝えることになった、その弁明の一節です。いろんなことがあったけれど、どんなときにも神は私の守りとなり、幾多の困難を助けてくださったからこそ、今の自分があるのだとパウロはそれを「良いたより」としてアグリッパ王に伝えたのでした。
困難のなかにも、いや、困難のなかにあるからこそ喜びがあるのだ。なぜならば主がともにいてくださるから。果たして、私はそんな境地にとどまり続けることができるだろうかと考えるのです。つらい時はつらいことにとどまり続けて、負のらせん階段に自分自身を巻き込んでいないだろうかと。こうして「不幸のヒーロー」を自分自身でつくりあげて、神の助けというものをおのずから排除してしまってはいないだろうか。そんなことを思わせられるのです。
なぜイエスは十字架のうえで苦しみながら死なれたのか。そこには復活という希望が待ち受けていたから。苦しみが苦しみのままで終わることを、神はお望みなはずがないのです。どんなときにも私の、私たちの助けとなってくださる神が、今日も私たちとともにいてくださいます。だから、苦しみの先にある希望を、私たちは決して忘れず今日という一日を生きてまいりたいと願います。神の守りと祝福をお祈りします。
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