17/03/2025

2025.3.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書7章18節
あなたのような神がいるだろうか。
ご自分の民である残りの者のために過ちを赦し
その背きの罪も見過ごされる方。
いつまでも怒りを持ち続けず
むしろ慈しみを望まれる方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章54節
主は慈しみを忘れず
その僕イスラエルを助けてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節11日目を迎えました。今日も救い主イエスが負われた十字架の意味深さを噛みしめつつ、新しく与えられた一日を過ごすことが出来ますようにと願いつつ、ローズンゲンに示された聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「神の慈しみ」であると私は受け止めました。逆らっても、裏切っても、なおも神は私たち一人ひとりにご自分の慈しみを示されたことを心から思うときに、私たちはこの慈しみによって支えられていることを想わされるのです。
 
昨日の仙台宮城野教会の礼拝で御言葉の取り次ぎをしてくださった朗子牧師が「聖霊に対する冒瀆」とはいったい何かについて、分かりやすく解説してくださいました。聖霊とは親心であるということを前にも触れましたが、聖霊には神の私たちに対する深い慈しみが十分に込められているゆえに、それは親心なのだというのです。その親が私たちに慈しみを示されるときに、それを具体的に私たちに見せてくださったのが救い主イエスでした。
 
イエスによって病が癒された出来事に対して、それを親心による慈しみであることを受け入れることができずに、単にイエスに対する嫌悪感から来る感情が、ファリサイ派に「悪霊の頭ベルゼブルの仕業」と言わせたのです。私たちは人間の外面的な姿ばかりを見て、その奥底にある神の慈しみを見ようとしないということが、往々にしてあるのではないだろうか。いや、確かにあるのです。私たちが神の真実に目を向けることなく、悪魔の思うつぼに自分のうちにある感情を荒立て、思いと行いを行使してしまう。ここにこそいわゆる「罪」の本質があるような気がしてならないのです。
 
私たちは自分自身の言動を紡ごうとする際に、そこに神の慈しみがどのように働いているのだろうかということをじっくりと考えるのは本当に必要なのだと、自戒を込めながら思わされたのです。神はそのようにして、どの時代にもある意味どうしようもない私たちを、ご自分の慈しみをもって、聖霊の助けをともないながら、私たちに慈しみを示し続けてくださったのです。
 
私は、この慈しみに生き、応答する者でありたい。今日を生きる柱としてこの言葉を受け止めてまいりたいと思います。皆さんの一日が、主の慈しみによって健やかなものでありますように。お祈りします。

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