12/03/2025

2025.3.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書50章20節
その日、その時には、イスラエルの過ちを探しても、もうない――主の仰せ。ユダの罪も見いだされない。 私が生き残らせた人々を赦すからである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章24節
この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節7日目、そして第2週めを迎えました。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「赦されることとは癒されること」というものです。つまり、私たちが神と向き合えないがゆえに私たちが負うこととなった「罪」という病理によって、私たちもまた傷つき、この傷を痛ませながら日々を歩むものとさせられている、ということです。そして、傷には傷をもって私たちを癒そうとされる神がおられるということです。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちが負った傷は、イエスが負った打ち傷によって癒されたのだと記されています。傷が癒されるということは、傷口を守り続けることによって本来回復へと向かうというのが一般的に思われていることです。余談ですが、私は正月にすりむき傷を得ました。その時に特殊な絆創膏を貼りました。傷口から出る体液が傷を保護することによって、治りを早くするという効果を期待した絆創膏です。乾燥させてかさぶたを造るよりも生理的に良いのだそうです。実際に、私の傷もそれによってきれいに治りました。
 
同様に、私たちの負った罪という傷も、イエスが十字架で流された血液によって洗い清められて、罪という傷口が癒されることによって罪赦される、つまり神との関係が回復して神と向き合うことのできる関係性が回復したということなのでしょう。傷ゆえにあふれでる体液をもって傷を癒す。そこに究極の体液であるイエスの血液が用いられたということになります。
 
とは言っても、私たちのうちに傷が完全になくなるわけではありません。傷跡はシンボルのように残ることがありますし、またあらたな傷が実際にできることもあるでしょう。しかし、神との関係性が保たれていくならば、そのたびごとに癒される経験というものも、私たちは実感することができるのだと、私は今日の聖句から思わされた次第です。
 
自らの傷をながめながら、見つめつつ、それを癒してくださる方の助けが、今日一日も豊かにありますように。皆さんの主にある守りと祝福によって得られる平安がともにありますように。心からお祈りします。

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