くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書14章9節
主はすべての地の王となられる。
その日には、主はただひとり
その名もただ一つとなる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節9日目を迎えました。今日もレントの期節のなかで与えられた御言葉を黙想したいと思います。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「すべての民の神である『主』」であると私は受け止めました。
イスラエルという限定された民族的宗教であったものが、イエス・キリストを境目に世界的宗教へと広がったのがキリスト教であったわけですが、それはキリストによるオリジナルなのかと言えば決してそういうことではないと私は思います。イエスは本来神が意図されたことを明確に理解した結果として、すべての民に救いを与えたのでした。
神の本来の目的とは、ご自分が手ずから造られた人間に管理を委ねられた「楽園」にすべてが込められています。この楽園で人間が増えていき、数々の被造物とともに、ひとひととともに、そして神とともに生きる幸いというものを味わう。これこそ神の意図の中心にあるものであったはずなのです。
しかし、そうはなりませんでした。私たちは自分たちの身に降りかかった混乱の結果、自分たちだけでひとつになろうとする目論見が外れました。バベルの塔の出来事によって言語がばらばらとなり、民族という概念ができ、それが際立つことによって神の本来の意図というものから、人間世界がどんどん乖離していったのではないかと考えるのです。今、民族間・国家間で起きている様々な差し障りなどは、まさにその実例と言えるでしょう。
しかし、イエスがご自分の十字架上で果たされた清算は、姿かたちは異なった民族であったとしても、それぞれの心において救い主イエスによってひとつとされることの可能性を確実なものとしてくださいました。私たちはどれだけ、その信仰の実体となられたイエス・キリストによってひとつとされているだろうか。さまざまな価値観が跋扈する世の中だからこそ、こういうことをじっくりと考えていきたいと思ったのでした。
キリストにあってひとつであるということが、陳腐な差別意識や下手な優劣意識を産むことが決してありませんように。今日一日の主にある平安と祝福を心からお祈りします。
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