05/03/2025

2025.3.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書59章2節
あなたがたの罪が神の御顔を隠し
聞こえないようにしている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節第1日目の朝を迎えました。
今日から4月19日までの期間、救い主イエスが十字架の犠牲への道を歩まれたことを記憶にとどめる四旬節(レント)の時をもちます。教会がカレンダーのなかで、自らのうちにある罪(神に背を向けて歩む人間の姿)を想い起こしながら、その日々を過ごしてまいります。神の価値観と私自身の価値観にあるズレというものに気付くことができますようにと祈りつつ、今日の御言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに「罪」とは何かについて明確に指し示しているものと私は受け止めました。罪とは何か悪いことをするといったことに思いが集中しがちですが、それは罪の結果外に表れることなのであって、その根本にあるものとはいったい何なのか、今日の旧約聖書であるイザヤ書の一節で語られているのは、神の御顔が隠れてしまうほどに、私たちの視線と神の視線が合っていない状態のことを指します。これを新約聖書で使用されるギリシア語では「ハマルティア(的外れ)」という言葉が用いられているのは、実に秀逸なのだと私は思うのです。
 
いのちの与え主である神と視線が合っていないわけですから、そこにはいのちが宿っていない。それは単に心臓が動くか動かないかということではなく、神が与えられたいのちが欠けている状態であるというのです。これを今日の新約聖書では「罪の報酬は死である」という表現をもって、罪の結果というものを明らかにしています。
 
そんな私たちに神が賜物として与えられたのが、イエス・キリストによる「いのち」でした。私たちのためにそのいのちを犠牲としてくださったイエスが、私たちひとりひとりに賜物、つまり「ギフト」として与えられたことの意味というものを、この四旬節の期間中に、いつもよりも意識しつつ、その幸いというものを味わっていきたいと願わされます。
 
どうか、このレントの期節が、そのような神のなされる良いことに感謝できる日々でありますようにと心から祈りつつ、その初日であるスタートも祝されますように。皆さんの一日が主にあって豊かなものでありますように。心よりお祈りします。

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