くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編105編7節
主こそ我らの神
その裁きは全地に及ぶ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章10節
義のために迫害された人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節4回目の日曜日を迎えました。今日は私の働く仙台宮城野教会は創立5周年の記念礼拝のときをもちました。救世軍仙台小隊から始まり、日本基督教団の教会を経て2020年に、新しい教会として仙台宮城野教会が誕生しました。礼拝のあとは墓前礼拝を執り行い、先月召された伯父の納骨をおこないました。教会に戻り、ひと息ついてローズンゲンの黙想に取り掛かっています。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「正義」であると私は受け止めました。そのなかで、イエスによって語られたいわゆる「山上の説教」と呼ばれる部分の一節が、今日の新約聖書の言葉なのですが、あらためて気づか有れたことをつづりたいと思います。
義のために迫害された人々は、幸いである
と、イエスは民たちに語られました。すでに神から幸福を受けている人たちとは一体誰なのかというテーマのもとで、「義のために迫害された人々」とイエスは告げておられるわけですが、では、いったいその「義」とは何なのか。これは神そのものであると私は受け止めました。つまり、聖書で語られている義とは、私たちのうちから自家生産される正義のことではありません。神そのものと言い換えても間違いないものなのです。
つまり、イエスが言われたこの言葉は「神のために迫害された人々は、すでに神によって祝福されているのだ」と、言い換えて聴くことのできる聖句なのだと、私はあらためて気づかされたのです。自分のためにではありません。神が神とされるために私たちが生きていくなかで、その差し障りがこの世の中でたとえあったとしても、神はあなたを必ず祝福するというのです。
義のためにという言葉を私たちがどのようにとらえるかで、この言葉の意味合いは随分異なってくるのです。私たちの間で起きる争いの100%は、正義と正義の衝突であることを私たちは忘れてはならないのだと思います。しかもそのような正義とは大概、神の正しさをそっちのけにした、自分自身の正しさであることが実はほとんどなのだということに、私自身本当に気づかされているのだろうかと思ってしまうのです。
そうではないのです。神の正しさがこの世界に公平さをもって臨まれるのです。これが今日の旧約聖書でも語られている「裁き」に他なりません。裁きとは何も悪を断罪するだけのものではありません。神の正しさがこの世の中に判断と決断を加えるのです。神の正しさが全世界に及ぶときに、私たち人間の姿も神の正しさによって整えられていく。そのような自分自身にさせてもらえることを望みたい。そのように受け止めました。
今週も年度末年度初めの忙しい一週間を過ごされる方が多くおられると思います。一切に神の与えられる平和が豊かに臨みますように。心からお祈りします。
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