くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書62章2節
あなたは、主の口が定める新しい名で呼ばれる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章17節
だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節10日目を迎えました。そして、明日は四旬節2回目の日曜日を私たちは迎えます。四旬節の最初の「旬(10日間)」が過ぎようとしています。あっという間に過ぎ去っていく日々のなかにあって、今日の一日が救い主イエスの十字架による命の尊さを、心から噛みしめる一日となりますように。そして、明日への良き備えの時となりますようにと祈ります。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神によって新しい者とされる」ということでした。そのことについて黙想したいと思います。今日の旧約聖書・イザヤ書の終わりにある一節には、神による再生と回復によって、そここに生きる者は「新しい名で呼ばれる」ことが記されていますし、今日の新約聖書の言葉である第二コリント書の一節には、古いものが過ぎ去り新しいものが生じる出来事が、救い主イエスによって私たちのうちに生じることが記されています。
余談ですが、月刊誌『本のひろば』(キリスト教文書センター)の最新号に、私が担当した書評が掲載されました。18世紀のドイツの神学者であるシュペーナーによる『新しい人間』という著作の書評です。ドイツ敬虔主義の父と言われているシュペーナーが指し示そうとした新しい人間とは何を指しているのだろうか。この著作を通して改めて知らされたのは、神は私たちを再生へと常に向かわせてくださる方であるということでした。
私たちは常に古くされていく自分自身と否が応でも向き合わなければならないことがあります。老いや古ぼけた自分自身と直面しながら、過去の新鮮さや新しさというものを振り返っては「あの頃はよかった」とつぶやいてしまう自分自身があるのかもしれません。固定観念やバイアスからなかなか解放されない自分自身があります。意味のない固守というものにしがみ付くこともあるでしょう。どうしても未来志向になかなか自分自身を進めることはできないのです。
そのようななかで、今日の聖句にもとづいて考えるならば、私たちのなかなか進まない足どりを整えて、神がその新しさをもって私たちをしなやかなものとしてくださる。そして、神が備えられた道というものを踏みしめて歩むことができるように、私たちに新鮮さを与えてくださるというのです。自力ではどうしようもないことを、神は私たちを慰め励ましながら、未知の世界、しかし神によって明確に約束された道の先というものに私たちの視線を向けさせてくださるのです。大切なのは、私たちが神がなさることにどれだけ信頼の思いをもって歩むことができるかに尽きるのだと思うのです。
四旬節が進み行くなかで、主の日が与えられていく備えを大切にしたいというのは、まさに苦しみを苦しみで終わらせず、復活へと向かう主イエスが私たちの同伴者となってくださるということそのものなのです。このイエスを救い主としていただいたことに心から感謝できるような一日でありますように。心からお祈りします。
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