くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記6章8節
ノアは主の目に適う者であった。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章9節
あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節8日目を迎えました。レントも5分の1が過ぎようとしています、救い主イエスの十字架を想うこの期節に、私たちは何を想うことができるのだろうか。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して受け止めたいのは「神の目に適う」ということについてだと私は思いました。
そもそも私たちは、神の目に適うような存在ではないのだと私は思っています。ただ、そのような思いが私のなかにあるのは、あくまで「一般的」な価値基準に照らし合わせた場合にそう思うのです。神に適格者と思われるためには、あれあれこういうことをしなければならないと、その目標点に到達すべく成績を積み重ねるように、自己努力していくという価値観です。その価値観に基づけば、到底私自身は適格者とみなされるような存在ではない、と思うのです。
そう考えると、ノアがそうであったように、神の目に適う者とされるというのは、何か目に見えてそうであるという結果論より、もっと別なところで神の目に適うという大切な要素があるのではないかと思わされるのです。では、それはいったい何か。それは過程論であり、神とともに歩むというプロセスにおいて、神が私たちを慈しみ、その深い愛をもって私たちを取り扱ってくださるということを、いかに私たちが受容し、そのことを生きる慰めや励ましにしながら日々を営みたいかという私たちの気持ちを、神はご自分の眼に適う者として拾い上げてくださるのではないかと、私は信じたいと思ったのです。
ノアもその生涯のなかで、まったく失敗をしなかったわけではありませんでした。そういう意味で言えば、やはり私たちと同じ、いわゆる罪を抱えた一人なのです。しかし、そういうノアを神はご自分の眼に適う者としてともに歩んでくださった。それはやはり、ノアの側に神とともに歩みたいという切なる気持ちがあったからだと私は思いますし、そのためにはどうしたら良いだろうかということを考えたうえで、神の言葉を忠実に自分の生き方としていったのだと思うのです。
このような気持ちを、神にどうしても背を向けてしまうような私たちの現実のなかにあっても、神の向けてくださるまなざしというものを大切にしながら、与えられた一日を歩むものでありたいと願わされた次第です。このことが、レントの日々を生きる私たちの慰めとなることを願いつつです。今日も主にあって、素敵な一日となりますように。お祈りします。
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