くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編68編27節
集会の中で神をたたえよ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章46~47節
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節20日目を迎えました。日曜日を除く40日間の四旬節も、折り返し地点を迎えました。今朝起きて私が一番に感じたことは、自分自身がキリストによって練られた人格を望んでいるだろうか、ということでした。自分自身の努力だけでは絶対に果たすことができないことです。だからこそ、イエスが十字架上で苦しまれたその想いを大切に聴き取りたいと思ったのです。自分自身が決して思い上がることのないように、さも自分自身の努力ですべてを勝ち取ったかのような傲慢な思いから離れたいと、祈りつつつくづく感じさせられました。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「集うことの尊さ」というものでした。5年前のパンデミック以降、私たちは集うということについて、いろいろと考えさせられる機会が与えられているように思います。これまで当たり前のように受け止め、こだわっていた「対面」という概念が変化したように思います。オンラインという方法で顔を見合わせ、会話をすることができるようになった。対面でなくてもその必要を果たしているようにも見えるのです。
最近ではオンラインに特化した教会も誕生していますし、対面とオンラインをうまく組み合わせた教会のあり方というものを積極的に捉えようともしていることは、皆さんもご存知の通りだと思います。私はこの傾向は決して悪いものではないと思う一人なのですが、ただ、対面にしてもオンラインにしても、そもそも「集まる」とはどういうことなのかということを、私たちはじっくり考える必要があるのだと思うのです。その本質を考えること無しに、形式ばかりに目が行ってしまうことにこそ、私は危惧を感じたりするのです。
集まることの本質は、神を賛美することにある。
このひと言に尽きるのでしょう。教会という言葉の原語であるギリシア語エクレーシアは「集会」という言葉で訳したほうが、より本来の言葉の意味を反映していると言われています。神によって集められた人たち、それがエクレーシアの意味なのです。神がいらっしゃいと私たちを手招きしてくださっている。神がごちそうを準備して待っていてくださる。そして、集められた人たちがその準備された良いものを存分にいただいて喜べる。神様ありがとうと私たちが応答できる。これこそ「賛美」であり、集うことの幸いそのものなのだと。
今日の新約聖書の言葉である使徒言行録の一節は、聖霊の喜びをいただいた最初期のクリスチャンが、集うことによって得られた喜びについて語られています。この喜びが人々に良い感化を与えて、エクレーシアが成長したという話です。この喜びがオンラインであっても対面であっても、キリストによってつくられようとしていることを、私たちはどれだけ自分たちの喜びとして受け止め、受け入れて自分のものとすることができるか。そのことに思いを寄せつつ、集うことの幸いというものを今日も味わっていきたいと思わされたのです。
皆さんの一日にも、キリストを真ん中にした喜びがあふれますように。心からお祈りします。
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