くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編139編23~24節
神よ、私を調べ、私の心を知ってください。
私を試し、悩みを知ってください。
御覧ください
私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。
とこしえの道に私を導いてください。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章14節
命に通じる門は狭く、その道も細い。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「道」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想したいと思います。
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって人々に語られた珠玉の言葉集、つまり「山上の説教」と呼ばれるものの一節です。イエスは民たちに対して、「命の道」と「滅びの道」というふたつの道があることを話されます。そして、今日の聖句にもあるように、命へと至る道は狭く、しかし滅びへと至る道は広いことが語られます。
この二者択一的なイエスのアプローチを、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。私はかつて、神によって救いの道を得るものは実に少数であり、大多数は滅びの道を歩むものだ。だから、大多数のキリスト教会に身を置くのではなく、神が唯一選ばれた私たちの団体で信仰生活を送るならば、命の道に至ることができると教えられたことがありました。キリスト教会は神の道からそれて歩んでいるので、やがて滅びの道を歩むのだというアプローチです。
そのような私の自分史を経たからなのでしょう。そのようなアプローチで私たちの心をひこうとするアプローチが、どうも信用ならぬところがあるのです。もちろん、私も含めて既存のキリスト教会が100%正しいなどとはつゆだに思っておりません。判断の誤りや間違いを私たちは繰り返します。だから、狭い道を歩もうと誠実さをもって神に向き合う態度は本当に大切なのですが、自説を展開するときに、キリスト教会の姿を揶揄するようなやり方というものを、私はどうしても同意することができません。実際に、そのような自説を展開する傾向や風潮というものを、最近しばしば目にすることがあります。SNSの登場により、そのような自説の伝播力というものがとても強いように感じることもあるのです。
私は結局のところ、イエスが言われたような狭い道や広い道を歩むというのは、誰かに言われたからそうするといった種類のものではないのだと思っています。あくまで、今日の旧約聖書の言葉のなかで、歌い手が神に向き合って、自分自身の姿をチェックし続ける営みこそが、狭い道を歩んでいるかどうかということの判断になるのではないかと思わずにはいられないのです。
神に調べてもらうのです。自分自身のうちに偶像礼拝、つまり神以外の価値観で自分自身を満たしていないかどうかを、御言葉に聴き祈るという営みの循環を通して、神と深い交流をしようと願うときにこそ、神は私たちをとこしえの道、つまりイエスが言われた救いの道へと導かれるための助けというものを差し出してくださるのだということを、是非受け止めつつ今日の一歩を歩んでいきたいのです。もちろん、そういった過程のなかで失敗すること、思い違いをすることも多々あるでしょう。だからこそ、神に自分自身の姿というものを点検していただくことを大切にしたいと思わされます。
そういった営みは、決して華々しく目立つものではありません。見つけられないくらい狭い道なのでしょう。しかし、神はかならずその細道を見つけ、歩むことができるように助けてくださる。そんなことを希望にして、今日の一日を歩むことができますように。心からお祈りします。
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