くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハバクク書2章20節
主はその聖なる神殿におられる。
全地よ、主の前に沈黙せよ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章17節
イエスは
人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
『私の家は、すべての民の
祈りの家と呼ばれる。』」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節22日目を迎えました。そして一週間も最終日となりました。そして3月も残すところあとわずかとなりました。日本では年度末のこの時に何かとあわただしくあるなかにあって、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちにそのような忙しさにあっても大切にしたいことが記されていたと私は受け止めました。そのことについて綴ってみたいと思います。
今日の聖句に共通するテーマは「神殿」です。旧訳聖書の時代やイエスの時代に神殿と呼ばれるものは確かに存在していました。エルサレムにある神殿です。ここで礼拝が執り行われ、動物の犠牲がささげられて祈りの言葉が常に神に向けられていた、そのような場こそ神殿だったのです。極めて神聖な場所であったことがわかります。
つまり、神殿に象徴されることは何かと言えば、神の前に自らの心と思いを鎮めて、ただ神の声に耳を傾けるために静まること、つまり「沈黙」にあると私は思っています。世の中の雑踏にまみれて生きている私たちですから、静まるという機会を確保するのは簡単なようで難しいことなのかもしれません。物理的に静寂なところであっても、私たちは心騒ぐこともあるのです。日々の悩みが私たちの身や心をそのことで満たしてしまうならば、鎮静することが難しくなってしまうのです。
神の前に鎮まるということは、私たち自身の努力では成し得ないことなのでしょう。今日の旧約聖書の言葉には、預言者の呼びかけによって神である主ヤハウェの御前に沈黙せよと勧められています。神の助けをただただ求めながら、ささやかれる神の御声にそば耳を立てて聴こうとするならば、神は必ずご自分の思いというものを私たちの心に届けてくださることを期待しながら、私たちは神の御前に黙することができるのでしょう。
イエスの時代、神殿では犠牲としてささげるための小動物が売られていました。礼拝のために必要な供えでした。しかし、イエスが指摘されたのは、祈りという本質よりも、動物が売り買いされることのほうが大切であるかのようにイエスの目には映ったのでしょう。だから、イエスはそのことを厳しくとがめました。神殿は「祈りの家」でなければならない、と。
私たちにとって神殿はどこにあるのでしょうか。それは私たち一人ひとりの「心」にあります。建物としての神殿ではありません。どんなに立派な教会堂があったとしても、そこに心がともなっていなければ、ただ沈黙して神の声を聴くこともできないでしょう。大切なのは私たちの内に神殿はあるのだろうかということへの問いにただ真摯に向き合うことです。今日の聖句を通して、神が私たちの心に建ててくださる神殿を地大切にしたいという思いが与えられ、そのことを心から受け入れたいと思ったのです。
明日は主の日の礼拝が、世界中の教会や集会でおこなわれます。そのための大切な準備の一日が、神の祝福のうちに過ごすことができますようにと祈ります。皆さんにとっても良い備えのひとときでありますように。心から神に祈り、皆さんの平安のためにお祈りします。
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