04/03/2025

2025.3.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章14節
娘シオンよ、喜び歌え
今、私は来て
あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章10節
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「救い主が私たちのただ中におられる喜び」というものです。そのことについて書きつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、いよいよイエスが弟子たちとともにエルサレムの都に入城したときの様子を描いたものです。群衆にとってイエスの存在は「世直し大明神」と言ったところでしょうか。自分たちを平和へと導く王が来られるという大きな期待とともに、イエスの入城を迎えました。「ホサナ」と叫ぶ群衆たちがそこにありました。ホサナとは「救ってください」という意味の言葉です。まさに自分たちを救ってくださいという言葉がイエスに向けられたのです。
 
それに対するエルサレム市民の反応というものが、今日の新約聖書の言葉です。一体これはどういう人だという驚きの声が、都中の人たちの反応でした。ということは、イエスをホサナと叫び迎えた群衆とは、エルサレム市民ではなかったのかもしれません。この市民の驚きに対して、群衆が「預言者イエスである」と答えているわけですから。
 
のちにイエスを十字架につけろと騒ぎ立てたのは、おそらくその時に驚いたエルサレム市民のほうだったのでしょう。自分たち市民ではなく、ガリラヤのナザレという田舎からやって来た、どこぞの馬の骨とも知らない奴がメシア(王であり救い主)を名乗るということは、批判の的にする格好の対象だったのではないかと私は思うのです。しかし、逆を言えば、エルサレム市民を騒がせるほど、イエスの登場はインパクトの強いものであったし、それを心から喜ぶ大勢の群衆がいたことも確かです。確かに、救い主イエスが人々のただ中にいることが、大きな喜びへとつながっていったのだと思うのです。
 
この喜びこそ、今日の旧約聖書であるゼカリヤ書で語られた、神である主の仰せだったのです。私はあなた方のただ中にいる。それゆえに、私の喜びによって大いに喜びなさいと、神はご自分の民たちに呼びかけておられるのです。
 
このことから、その喜びというものを、私たちはホサナと叫んだ群衆のように喜ぶことができるのか、それともいぶかしながら驚き続けたエルサレム市民のようになるのかということは、私たちの受け止め方次第なのではないだろうかと思わされます。つまり、私たちがいかに神の喜びというものを、自分自身の心に染ませることができるのだろうかということが、今日のふたつの聖句を通して伝えているメッセージなのだろうと、私は受け止めたいと思ったのです。
 
明日は灰の水曜日です。ここから4月19日までの期間、私たちは四旬節(レント)の期節を迎えます。イエスが私たちの喜びのために、自ら十字架の道へと進み、そして私たちの救い主となられたことの意味を今一度噛みしめつつ、その備えの一日となりますようにと祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、主の携えてくださる喜びがともにありますように。お祈りします。

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