くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編138編3節
私が呼び求めた日に答えてくださった。
あなたは私の魂を力づけてくださる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章10節
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
四旬節14日目を迎えました。今日は一日の休日を楽しまれる方も多いかと思います。今日のすべての予定に、神である主が豊かにともなってくださいますようにと祈ります。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちの求めに応えてくださる」というものでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
私が今日あらためて確かめたいと思ったのは、私たちが神に向ける「求め」とは一体なんだろうかということです。結論から言えば、私たちのいかなる求めにも神は応えられますが、自分の要求をそのまま、神がその通りに応えてくださるわけではない、ということです。もしそうだったら、この世の中はとんでもないことになるでしょう。
そうではなく、私たちの求めが何に基づいたものなのかということを、私たちは神に求めつつもじっくりと熟慮する必要があるのでしょう。つまり、神が応じてくださる私たちの求めは、あくまで神の御心に基づいたものであることを、私たちは十分に認識する必要があります。そのためにも、私たちは神の御心というものを聖書の言葉から丹念に聴き取っていくことが必要なのだと私は感じます。
神は私たちの求めに応えてくれないと不平をこぼしたりすることがあるかもしれません。効き目のない神様であると結論付けてしまうこともあるかもしれません。本当は神がご自分の御心であると示してくださっているにもかかわらず、これは御心ではないと自分のより好みを神のせいにしてしまうこともあるでしょう。しかし、それは本当にふさわしいことなのかと、つねに自分自身のあり方を見つめつつ、御言葉と祈りをもって神と対話していく必要があるのです。
聖霊は私たちの生き方を導かれます。しかし、自分の感性や願望を「聖霊の導き」としてしまってはいないでしょうか。ときに聖霊は、私たちのそのような固定観念を変革する力をお持ちですし、慰めや励ましを与えながら、自分自身があらゆる束縛から解放されるためにご自分の御心を示してくださるのです。私たちに求められるのは、神とともに歩みたいという切なる願いから来る、謙虚な思いと自己変革に他なりません。
今は四旬節のなかを歩んでいます。自らのうちにある意識的無意識的にかかわらず、神と同調できない心や思いそのものが「罪」の根源であることを理解するこの期節にこそ、私たちの求めに神が応えてくださるという神の約束に、私たちの心を整えたいとあらためて感じさせられました。そのようなところには、神は必ずご自分の答えというものを祝福をもって与えてくださいます。そのような祝福が、今日の営みすべてに働くことを祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。
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