31/01/2025

2025.1.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編51編17節
わが主よ、私の唇を開いてください。
この口はあなたの誉れを告げ知らせます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録4章20節
私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は私が勤務している「東北教区センター・エマオ」の出張講座で早朝から福島県いわき市へ出かけておりましたので、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。車で約2時間半の移動で、久しぶりに長旅をした感じがしました。講座もとても充実したひと時を参加者の皆さんと過ごすことが出来て感謝でした。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け取ったのは「神から受け取った良いものをどのように他者に受け渡すことができるか」というものでした。今日はそのことを黙想したいと思います。
 
今日の聖句は、神からいただいたものを「告げ知らせるべきあなたの誉れ」であるとか、「見たり聞いたりした良いしらせ」と表現しています。そしてそのことを自分に与えられた口を通してひとりでも多くの人たちに伝えたいという思いを、詩人も使徒たちも抱いていることが分かります。そのうえで、神にそのような語る心を与えてもらえるように願い、そのような心をいただいた人たちが大胆に神について伝えていたことがわかります。
 
しかし、一方でこのようにも考えます。口というものは災いのもとでもあるということをです。どんなに熱心に神のことを伝えようとしても、それが結果的に良いしらせどころか、相手を貶めたり、自分自身の正義だけを振りかざすだけになってしまったりと、結果として悪影響を及ぼしてしまうこともあるのです。熱心であればあるほど周りが見えなくなる。本当に相手に語る言葉が、神の願っておられるそれに沿ったものなのだろうかと自戒を込めながらあらためて思わされるのです。
 
だからこそ、神の思いや願いを「人々にとって良いたより」として伝えることのできる心というものを神が私自身に与えてくださるようにと、神に祈りつつ与えられた言葉というものを発することが必要なのではないかと思うのです。神によって整えられた心は、必ずや良いものをもって他者に表現することができると信じたいのです。神がそうしてくださるのですから。
 
神が私に与えた心をもって、与えらえた舌を用いる幸いというものを、今日も大切にしていきたい。そのように思わされました。どうか皆さんの一日にも、神が良い心をお与えくださいますように。お祈りします。
 
※祈りのリクエストをさせてください。
昨晩、教会にホームレスの方がやって来られて、食べるものがないので、少しでもいいから恵んで欲しいとのことでしたので、昨日の出張講座で調理したスープと冷蔵庫にあった食べ物やお菓子、カイロなどを袋に詰めて差し上げました。近くの大きな公園にいるとのことでしたので、今朝がたその公園に行きましたが、その方はすでにいらっしゃいませんでした。この仕事をしていると、そのような方にしばしば会うことがありますが、昨晩訪れた方はとても誠実であるとお見受けしました。何とか生活をつなぐことができますように、もし願わくばその人の必要に応えることができるべく、再度会うことが出来ますように。そんなことを祈りの片隅に加えてくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いします。

29/01/2025

2025.1.29(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上26章24節
主も私の命を重んじ、あらゆる苦難から私を救ってくださいますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二8章9節
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、伯父が病院からホスピスへ無事に移ることができました。施設のスタッフの方々もとても親切に接してくださり、伯父もとてもホッとした様子でした。皆さんのお祈りに心から感謝します。今日の午前中はさまざまな行政手続きを、午後は私自身の病院での検査と治療が待っています。ひとつひとつのことがスムースに進みますように、祈りつつ歩んでゆきたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、旧約聖書はサムエル記上26章の聖句でした。この箇所は、イスラエルの王サウルが後の王ダビデの命を狙っていたときに、ダビデは絶妙のタイミングでサウルを殺すことができたものの、それをしませんでした。神である主が油を注がれたサウルを殺すことは、神の御心に反することであるとダビデは理解していたからです。
 
こうしてサウルは自分の命を、命狙おうとしていたダビデによって拾うことができました。サウルはダビデに礼を言いますが、ダビデの反応は常に神を向いたものでした。サウルに命乞いをするわけではなく、あくまで神が私の命を守り、あらゆる苦難から救ってくださいますようにと願います。人に向くのではなくあくまで神に自分自身の視線を注ごうとするダビデの思いというものに、私自身あらためて感じさせられるものがありました。
 
私たちの命を守るために働かれる神が、ご自分の者として私たちを見なしてくださるということが、私たち自身にとってどのような思いを与え、そしてどのような方向を見つめながら歩むことが出来るのかということを、私自身大切にしたいと願わされます。今日の新約聖書の言葉は、私たちのために救い主イエスご自身が貧しくなられたということがつづられています。十字架という貧しさの極みに立たれたのは私たちが豊かになるためでしたと、使徒パウロは私たちに伝えようとしています。
 
たとえ自分の命が危ぶまれても、神が与えた命を尊ぶその姿勢というものに、私自身心を寄せながら、今日一日の営みというものを大切にしたいと思い、今日の御言葉を受け止めてまいりたいと思います。どうぞ皆さんの一日にも、命を尊ばれる神の守りと祝福がともにありますように。お祈りします。

28/01/2025

2025.1.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編17編8節
主よ、瞳のように私を守り
あなたの翼の陰に隠してください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章3節
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたうの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちを徹底的に守ってくださる方である」ということです。そのあたりについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節において、詩人は私たちを「瞳」になぞらえて、神が私たちを瞳のように守ってくださるということを信じてこの詩をうたいました。瞳とは眼全体を指すことばでもありますが、具体的には瞳孔のことを言い、眼のなかに入る光を調節するという大きな役割を果たすものです。
 
私事ですが、2か月前に眼底出血を起こした際に左眼がまったく見えなくなってしまうということがありました。眼が見えないということがこんなに不安にさせるものだったのだということを実感したのです。幸いなことに治療の甲斐があって以前にかなり近いかたちで視力は回復しましたし、今再発を防ぐための治療を継続的におこなっていますが、あらためて今日の聖書の言葉で言う瞳の大切さというものを知らされたのです。
 
つまり、そのくらい私たちの生活に大切な瞳のように、神は私たち一人ひとりを守ってくださるというのです。そしてもうひとつ、私たちを守ってくださる神は、その翼で私たちを覆い隠してくださるというのです。「みつばさの陰に」という言葉が神の姿を象徴する言葉として私たちのあいだに受け継がれていることを、私たちは知っています。
 
つばさをひろげて親鳥がひなを守るように、神も私たちの危機をそのつばさで守ってくださる。これは、今日の新約聖書の言葉にも相通じていくわけです。ただ、私はこう思いました。どんなに神が私たちを守られるとしても、私たち自身も神から守られていることへの認識がなければ、そして与えられた命の尊さをもって自分自身もまたその命を尊び、大切に守り続けることをなくして、どうして神から守られているということを自覚できるだろうか、そんなことを思ったのでした。
 
自暴自棄になるのではなく、自己に過信するのでもなく、私たちは神から大切にされているということをじっくりと考えつつ、今日の一日を歩んで行きたいと思いました。ちなみに、大切という言葉は神の愛を示す言葉として、福音が日本に伝来された安土桃山時代に用いられていたものです。神の愛を「御親様の御大切」と表現したのです。親鳥がひなを大切に守るように、神が私たちを瞳のように大切に守ってくださるように、ご自身の愛で私たちを守ってくださるというのです。
 
今日の一日もまた、主にあって守られていることの幸いを味わうときでありますように。お祈りします。

27/01/2025

2025.1.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編65編6節
我らの救いの神よ
あなたは義によって
恐るべき業によって答えます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章14節
何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたこと、それは「神はご自分の正義によって私たちに応えてくださる方である」といおうことでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
私たちが神とともに歩むときに、私たちは神から何を受け取ろうとしているのかということを考えさせられます。神の言葉である聖書に聴き、聖霊の助けをいただきながら、私たちはそれを「神の御心」として受け取るわけですが、私たちは神の御心というものを100%理解できているかどうか、それはとても怪しいものがあると私は思うのです。受け取っているつもりでいても、自分のなかにある「バイアス」というものが、それをゆがませてしまうからです。どうしても自分の指向というものが働いてしまうのです。
 
ですから、私たちはそのバイアスによって「自分自身の正しさ」に無意識のうちに神の正しさとすり替えてしまうことがありますし、それは人間ならば誰でも起こることなのだと私は思っています。それでは、私たちは神の正しさをいうものを受け取ることが出来ないのかといえば決してそんなことはなく、100%とは言えずとも、80%、90%と近づくことは可能なのだと思うのです。そのために私たちに求められているものは何なのかということを私は受け止めたいのです。
 
それは神の御前に謙虚であること、常に自分自身の立ち位置やあり方というものを神と向き合いながら自分自身を見つめ続けること、こういう営みを通して自分を神との関係のなかで整い続けること、そのことを養うために御言葉に聴き祈ること、聖霊の導きを感じ取りながら共同体のなかで互いに築き合うことなどなど、そんなことを思わされたのでした。
 
私たちの願いというものは「神の御心にかなうならば」聞かれると、今日の新約聖書の言葉は私たちに伝えています。神の御心とはなんなのか、そのことを丹念に探ることに私は神の正しさによって誠実であり続けたい。今日そんなことを黙想させられました。今日の一日が、そのような神の正しさが私たちの一切に光輝くようなときでありますように。お祈りします。

26/01/2025

2025.1.26(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章3節
傷ついた葦を折らず
くすぶる灯心の火を消さず
忠実に公正をもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書18章10節
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間の始まりを迎えました。この新しい七日間の旅路に、私たちはどのようなドラマが待ち受けているのでしょうか。私にとっては、大切ないくつかのドラマを迎える予定です。明日はかつて洗礼を授けた方の葬儀で東京へ、明後日は伯父の施設への転居の立ち合い、水曜日は私自身の病院での検査と治療、木曜日はエマオの出張講座でいわきへ、金曜日は伯父のことでのもろもろの手続き、そのあいだに締め切りの原稿を数本をしあげることになっています。その慌ただしさのなかで何を心がけて日々を過ごすのかということについて、今日のローズンゲンに与えられた御言葉は私に大切なことを教えてくれていると感じました。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して語られるテーマは「弱く、小さなところにこそ視線を向け続けられる神」であると私は受け止めました。折れた葦、くすぶる灯心、そして小さくされたひとり。これらの言葉に示されている弱く、小さくされたところに眼をとめ、関心を寄せ続け、寄り添ってくださる神の真実というものが、いかに私自身を生かしてくださるか、私だけではなく、この世界に生きるすべての人々に神の視線が向けられていることをイメージしながら、与えられた日々を生きていくことができるのだと思ったのです。
 
一見強大で、弱さなど見い出せないような存在であったとしても、そこには間違いなく弱さというものがあるのだと思うのです。それをうまく隠しているか、知らず知らずのうちに見た目の強さでコーティングしているだけなのかもしれません。いずれにせよ、自分自身のうちにある「弱さ」こそ、神が私のために働いてくださっている紛れもない根拠なのだと。そのために救い主イエスが私たちのもとに「弱さ」をともなって来られたという事実を、私たちはイエスの生きざまからじっくりと受け取っていきたいのです。
 
今日から始まる一週間が、世界中で行われる主の日の祝祭が、神の豊かなまなざしのもとで守られ続けていきますように。そして、その神の姿が自分自身の生き方というものに良い形であらわれますように。一週間の平安を心から祈ります。

25/01/2025

2025.1.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記30章9節
主はあなたの先祖たちを喜びとされたように、あなたに良いものを与えて再びあなたを喜びとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68~69節
「イスラエルの神である主は
 ほめたたえられますように。
 主はその民を訪れて、これを贖い
 我らのために救いの角を
 僕ダビデの家に起こされた。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も今日で最終日となりました。今週の日々を振り返りながら、明日への備えをすることに喜べる、そんな一日でありたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「喜び」という言葉について考えたいと思いました。特に神と私とのあいだにある喜びについてです。
 
私たちは「神を喜ばせる」という言葉を、日々の信仰生活や祈りの言葉などで表現することがあります。もちろん、私たちが神を喜ばせるべく日々の生活を整えることそのものに、何も悪いことではなく、むしろ素敵なことであると私は思います。ただ、私たちが神を喜ばせるという言葉に「落とし穴」というものがあるのではないかとも私は思うのです。
 
つまり、神を喜ばせるという私たちの「意識や行為」は、ともすると「自己努力」というものに注力してしまい、そのことに重きをおいてしまうことするあると私は考えています。私たちはその「前提」にあるものに心を寄せ、そのことを自分自身の土台と出来ればよいのではないかと思うのです。
 
では、その前提とは何か。それは「神が私たちに喜びを与えてくださる」ということです。神は徹底的に、ご自分が愛情をこめてつくられ、ご自分の言葉と行いをもって私たちを養ってくださるときに、そこには「神の喜び」があるということです。私たちはその喜びに生かされているという前提があってこそ、その喜びに対して喜びをもって応えることがはじめて可能とさせられるのではないかと思うのです。
 
私たちは神を喜ばせるということを口にしながら、神が与えてくださる喜びに無頓着なばかり、目の前にある様々な出来事に不平不満をもらして、不快な姿というものをさらけ出していないだろうかと考えることがあります。もちろん、不平や不満が自分自身を顧みる良いきっかけになれば、不平や不満というものが絶対的に悪であるとは限らないと思います。しかし、そのときに私たちは神が与えてくださる喜びというものについて、じっくりと考えることができているだろうか。今日の聖書の言葉は、そんなことを振り返させられるものとして私の心に響いたのです。
 
主はあなたの先祖たちを喜びとされたように、あなたに良いものを与えて再びあなたを喜びとされる。エジプトから脱出してイスラエルの民とともに歩んだ指導者モーセは、40年にわたる長旅を終えるにあたって、その間にあったさまざまな不平不満を想い起こしながらも、ここまでこれたのは神の喜びがあったからこそだと、自分自身を振り返ることができたのでしょう。神が良いものを与えることで喜びを私たちに示された。この言葉こそ、私たちにとって必要な言葉なのだと受け止めました。
 
私たちはこの一週間を振り返ることができるでしょう。必ずしも順風満帆な七日間だったとは限らないでしょう。いやなこともあったかもしれません。しかし、そんな私たちとともに神の喜びがあったのだと思えるような黙想というものを、今日の一日の歩みのなかで感じ取ることができれば、どれだけ明日からの新しい一週間の日々を歩むことができるかということを、希望と喜びをもって迎えたいと思ったのです。
 
どうか皆さんにとっての今日の一日が、そのような神の喜びに包まれますように。その結果、神の喜びに喜びをもって応答とすることが出来ますように。お祈りします。

24/01/2025

2025.1.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨナ書2章9節
空しい偶像に頼る者たちは
慈しみの心を捨てている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章3節
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して「偶像」とは何かについて、あらためて黙想したいと思いました。
 
空しい偶像とは、今日の旧約聖書であるヨナ書2章にある言葉です。私たちはどうしても偶像と言えば、神や仏などの像ばかりをとらえてしまうかもしれませんが、私は何も目に見えるものばかりが偶像なのではなく、むしろ「目に見えない偶像」のほうがこの世の中には多く存在しているのではないかと思わされます。
 
そして、それを偶像ととらえるかどうかは、私たちの心がどこにあるのかということと多分に関係しているのだと思います。つまり、私たちの心の置場が神との信頼関係のもとになければ、どんなものでも「偶像」になるということを私たちは意識する必要があるのだと思います。人に対しても、ものに対しても、そして自分自身に対しても、偶像の根となるものはいくらでも存在するのでしょう。その根拠がイエス・キリストに無い限りです。
 
だからこそ、ヨナ書で書かれている「空しい偶像に頼る者は慈しみの心を捨てている」という言葉の「慈しみの心」とは、まさに神が私たちに向けておられる慈愛の心に他ならないのであって、私たちを信頼して慈しんでくださる神の心を、私たちは無意識のうちに捨ててしまうことだってあるのだということを、私たちは自らの心に問いながら神の心に聴く思いというものを大切にしたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉に出てくる「利己心」「虚栄心」という言葉に注目したいと思いました。自分を良く見せるために見栄を張り、自分だけが良いものを得ようとする態度こそ、自分自身を偶像化していることなのだと私は受け止めました。私たちの言動の根拠というものについて、使徒パウロがフィリピにあるクリスチャンたちに宛てた手紙のなかに綴られた言葉です、私たちは自分自身を良く見せようと努力するのではなく、あえて努力という言葉を使うならば、神の慈しみによって生きることに思いを注ぐならば、神が私たちの姿というものを良いものとしてくださるというところに、心を寄せて今日も生きていきたいと思わされました。
 
どうか今日の一日も、神の慈しみに生きる幸いを味わう者となることができますように。お祈りします。

23/01/2025

2025.1.23(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記13章9節
あなたがたは人を欺くように、神をも欺くのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書16章15節
イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け取ったのは「神は私たちの動機をご覧になられる方である」ということでした。そのあたりのことを書きつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉はヨブ記からの一節でした。ヨブ記は長編の物語ですが、神に対する反抗者である悪魔サタンの挑戦がヨブの身に及んだ時に、彼は不条理な災いを自分の身に負うことになったことをめぐって、神とヨブ、またヨブの周辺に起きたことが縷々書き連ねられています。
 
今日のシーンは、ヨブのことを案じた三人の友人が不幸のどん底に落ちたヨブに対して、さまざまな助言をしたり、友人同士でヨブについてあれこれ議論をし続けます。もちろん友人はヨブのことを心配したからこそそのようなことをしたのでしょう。しかし、助言や議論をすればするほど、三人の友人の助けは実に無力なものであることが明らかにされます。そのような彼らの助けは、ときにヨブにとっては毒にも薬にもならないように映ったのでした。
 
そんなときに、ヨブによって語られたのが今日の旧約聖書の言葉です。ヨブは人を欺くように神をも欺くのかと友人たちに告げました。つまり、ヨブはこの時点で自分たちはどこに眼を向けるべきなのかを確認するように提示したのです。どんなに災いに遭ったとしても、自分たちが見つめるべきなのは神の御心であると。その神の御心に照らし合わせて自分自身の心を見つめるときにこそ、神はその動機をちゃんとご覧になられているということを言いたかったのではないかと思うのです。
 
私たちの他者に対する助けというものが、本当に神が今与えようとしている助けに沿ったものなのだろうか。そこにこそ私たちは目を留めることが大切なのであって、結果として「余計なお世話」になってしまうとすれば、私たちは今しようとしていることの動機というものが問われていることになるのでしょう。大切なのは私自身の行動ではなく、神がどのように行動を起こされて、私たち一人ひとりを守り祝してくださるのかということへの私たちの深い洞察なのでしょう。
 
そのことを踏まえて今日の新約聖書の言葉に聴くならば、外面や人に賞賛されるような行動ばかりをパフォーマンスのように披露していたファリサイ人に対して、イエスが告げた言葉の意味というものがわかるというものです。まさに私たち一人ひとりの言動における動機というものを、神はじっくりとご覧になられているのだということです。ですから、私たちは自分の言葉と行いというものが、つねに神によって問われているということを忘れないようにしたいとあらためて思わされたのです。
 
今日の聖書の言葉は、とても厳しいメッセージであると私は思いました。神によって自分自身が問われているということを恐怖と見るべきなのか、それとも神の御心によって私たちが養われているということに喜びを抱くことができるか。そんなことを黙想させられるのです。今日一日の歩みのなかで、少しでも神の御心とまなざしというものを大切にしつつ、自分の言動というものに丁寧に向き合っていきたいのです。
 
私たちが神の御心に守られながら、自分自身の心を整えることができますように。心からお祈ります。

22/01/2025

2025.1.22(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書6章5節
(イザヤ)は言った。
「ああ、災いだ。
 私は汚れた唇の者
 私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章13節
私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、憐れみを受けました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想わされたこと、それは「神はどうしようもない者をご自分の大切な務めのために召し出された」ということでした。決して優秀だから神はご自分のことを知らせる預言者や宣教者として選び出し、遣わされたわけではなかったのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書6章は、神によってイザヤが神の言葉の預言者として遣わされるシーンです。イザヤは神殿に神である主ヤハウェと出会ってしまうのです。イザヤにとってそれは恐れ多いことであり、罪ある者が神と相まみえることは死を意味したのでした。ですから、イザヤはとんでもないことになってしまったと思ったことでしょう。
 
しかし、イザヤの恐れは神への畏怖の念へと変えられていきます。こんな者にも神の言葉を伝えるという務めが与えられることに応じました。私がここにおります。私を遣わしてくださいというイザヤの神に対する告白は、イザヤ自身の能力ゆえではなく、神の助けがあってこそのイザヤと神の信頼関係によるものに他なりませんでした。
 
そのことは宣教者パウロにも言えたことでした。今日の新約聖書の言葉は、歳若い同労者であるテモテに対して、パウロが自分は何者かということについて語り伝えている手紙の一文です。パウロは自分自身が高い能力を持ち備えている存在であることを自認していました。その能力をもってそれが熱心さとなり、当初はクリスチャンを迫害するということに勢力を注いでいた人物、それがパウロでした。
 
しかし、そんなパウロに神の憐れみが働きました。同じ能力でも「用い方」を変えて、神のまなざしがパウロに向けられていく。この神の視線によってパウロは自分がいかに高慢であったかを思い知らされます。そして以後、キリストの宣教者としてその人生を歩むのでした。神の選びというものがいかにダイナミックであるかを思い知らされます。
 
私たちもまた立派だから神に選ばれ、救いの道が与えられたわけではなく、ただ神の憐れみによって、キリストのからだの一部とされたのです。その意識というものを自分自身のありようを見つめながら感謝できるような一日でありたい。私はそのように今日の聖書の言葉を受け止めました。
 
皆さんの新しい一日に、そのような神が親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。

21/01/2025

2025.1.21(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編116節
私が生きていけるように
あなたの仰せに従って私を支えてください。
自分の望みについて
私が恥じ入ることがないようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章24節
よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。新しい朝から始まる一日が、皆さんにとって神の守りと平和を感じられる時でありますように。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、私は「神に従うことの幸い」というテーマが与えられていると私は受け止めました。そのことについて黙想したいと思います。
 
神に従うということについて改めて考えてみますと、そもそも神に従うとは一体どういうことなのだろうか?というところまで振り返ることができるわけです。普段従うという言葉を聞けば、誰かの言うことを聞いてその通りにすることを意味しますから、神の言われること、命じられたことの通りに生きることが「神に従う」ことなのだろうというのは、誰でも理解できるのではないかと思います。
 
しかし、では神の言われることや命じられたこととは一体何なのか。聖書の言葉を通してそれを受け取る私たちの受け取り方で、実に多様な受け止め方があるということに気づかされます。ある人にとっては他の人の受け取り方が生ぬるいと感じたり、逆にとてつもなく厳しく思えることもあるでしょう。
 
昨今のインターネットの普及によって、私たちは実に様々な人による聖書の解釈や理解というものに触れることができます。かく言う私も日々の聖書黙想をインターネットに載せて皆さんに読んでいただいているわけですが、これも多様な受け止め方のひとつであると私は思うわけです。
 
ですので、私が聖書の言葉を黙想するなかで導き出された内容が、様々な意見や賛否があるのはある意味、当然のこととも言えるでしょう。しかし、そのような多種多様な意見があるなかで、本当に大切にされなければいけないのは、その最終目標が「神に従う生活」にあるということなのだと。ここを逃すわけにはいかないのです。
 
私たちは神が私たち一人ひとりに対して、ご自分の言葉と聖霊の助けによって働きかけてくださる誠実さをいただいています。ですから、私たちも神に従うことにおいて、神の先行的な真心に対して、誠実さをもって応えていくことが、やはり大切なのだと思うのです。
 
その結果、見た目には様々な違いが生じるでしょうし、受け止め方の違いというものが批判の材料になることもあるでしょう。しかし、忘れていけないのは、最終的な評価は私たちがするのではないということです。私たちの神が私たち一人ひとりの姿というものを、その心底までご覧になられたうえで判断されるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節には、このように書かれていることにとても興味深さを覚えました。

自分の望みについて
私が恥じ入ることがないようにしてください。

結局のところ、神に従っていることが最終的に喜びに導かれるのか、それとも恥を被ることになるのかは、いかに私たちが神に養われているかというところにすべてがかかっているような気がしてなりません。だからこそ、神の御言葉に聴き祈るという、一見すると地味ですぐに飽きてしまうようなことであっても、そこには神の存在が私たちとともおられるということへの幸いを味わうための、道路標識のような存在となっていくのだと私は受け止めたいのです。
 
今日も神様の言葉が与えられました。この言葉を握り締めて、神に従う幸いを味わうことができますように。皆さんのために、また私自身のためにお祈りします。

 

 

20/01/2025

2025.1.20(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章19節
あなたにとって、主がとこしえの光となり
あなたの神があなたの誉れとなる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章45~46節
私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今朝は粗大ごみの収集を予約していましたので、家具を2階の牧師館から外に出す作業を行っていました。先週の寒さとは打って変わって、比較的気持ちの良い朝を迎えました。捨てる家具のなかには、新婚当初から使用していたローテーブルがあったりもして、愛着を感じていたものだけに最後まで捨てるのをためらっていましたが、そんな思いを振り切って処分することにしました。捨てるという作業が過去への未練にとどまることなく、未来への新しい一歩と考えれば心の整理もつくというものです。その作業が終わって、今日の聖句を黙想しました。 
 
今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句に共通する言葉は「光」です。いみじくも昨日のローズンゲンはイザヤ書60章の冒頭部分でした。「起きよ、光を放て」という呼びかけからはじまるイザヤ書60章も、神御自身が私たちの行くべき道を照らすべく光となってくださるということが、今日の聖句にもしっかりと記されていることを思います。
 
そして、今やその「光」は、イエス・キリストによって明らかにされました。イエス・キリストという「まことの人」が、私たちと同じかたちをとって、具体的に「まことの神」の姿を現わし、ご自身の言葉と行いによってそれを私たちに見せてくださったのです。その記録を、私たちは今聖書の言葉を通して、また聖霊の助けによってそれを「見る」ことができるのです。私たちがそれを見ることの幸いというものを、今日もじっくりと味わいつつ過ごしてまいりたいと思います。
 
今日の一日にも、私たちの生活に光を射しこんでくださる神の守りと平安をお祈りします。

19/01/2025

2025.1.19(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章1節
起きよ、光を放て。
あなたの光が来て
主の栄光があなたの上に昇ったのだから。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章78~79節
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって
高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
我らの足を平和の道に導く。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。ついこの前正月を迎えたかと思ったら、もう下旬を迎えようとしています。またたく間に過ぎ行く日々のなかにあっても、こうして主の日を迎えられることに感謝しつつ、世界中で行われる礼拝・集会に神様の祝福が豊かにありますよう、お祈りします。
 
さて、朝日とともに週のはじまりがやって来たように、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉もまた、暗闇に光が投じられることで私たちが目覚めを経験して、神によって備えられた一日の歩みを営むことができるのだ。そんなメッセージを私たちに投じておられることを思いました。
 
ただ、あけぼのの光とともに訪れるこの一日が、どんなに神が私たちを祝し、ご自分の道へと導かれようとしても、その一日をどのように用いるかは私たち一人ひとりの判断と決断にかかっています。神が与えられる平和のために用いるのか、それとも神の御心というものをそっちのけにして自分の願望通りに歩むのか、それは私たちの任意であることを私たちはよく知っています。
 
どのような一日を過ごすとしても、大切なのは私たちの神が神とされるような思いを、私たち一人ひとりが抱いているかということです。けっして独り善がりなものではなく、神の御心に示された価値観というものがあふれるような一日であるならば、そこには平和が必ず訪れるということを、私たちは心から自分自身のものとしていきたい。そのように思わされるのです。
 
そのような思いを込めて、今日行われる礼拝に心を注ぎたい。神が招いてくださる礼拝に心を寄せつつ、一週間の新しい第一歩を踏みたいと思わされた次第です。どうか、私たちの歩みを導かれる神の栄光が、私たち一人ひとりとともにありますように。お祈りします。

18/01/2025

2025.1.18(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記4章39節
そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章5,7節
あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は午前中にしなければならないことがありましたので、この時間(午後3時)に黙想する時間をとりました。配信が遅くなり、申し訳ありませんでした。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が思ったのは私たちの神である主ヤハウェこそ私たちの命を守られる方であり、私たちの人生の道筋を平和のうちに導かれる御方であるということへの「認識と自覚」であると受け止めました。
 
今日の旧約聖書の言葉は申命記によるものでした。申命記は、神がご自分の民であるイスラエル人をエジプトにおける奴隷状態から救い出して、ご自分が約束された地へと導かれたその最後の場面で、指導者モーセによって語られた言わば「遺言」のようなメッセージ集として知られています。その旅路はとても長いものでした。40年間という道筋のなかでイスラエルの民は幾たびも神の導きに不信感を抱き、その通りに歩むことを拒もうとしました。まさに自業自得と言えるような彼らの行動ゆえに旅が長くなってしまったのです。
 
しかし、40年という苦難の日々があったにもかかわらず、神はその旅を見捨てられることは決してなさいませんでした。今、ゴールを目前にして指導者が民に語れることと言えば、私たちの道を守られた神こそ「私たちとともにおられる」方であり、この方以外に神などありえないのだという確信に満ちあふれたメッセージそのものだったのです。
 
その神を「知る」こと、つまり心から認識し自覚するところに、約束の地に導かれた後もまた、神とともに歩むということがどれだけ祝福に満ちあふれたことなのかを、民たちに知らせたかったのです。このモーセによるメッセージを民たちが聴いたときに、民たちもまた自分たちは神から守られた者であるという認識と自覚こそ、自分たちに求められていることだったのです。
 
私たちは自分の「心」を守るのです。しかし、何のために、どのような心を守るのかということについてはまさに千差万別と言えるでしょう。そこで神が私たちの心をかたちづくられる方であるということを、私たちは真剣に受け止めていきたいのです。そのために神の言葉が、そして聖霊様の助けが与えられていることを胸にして、主の日への備えを過ごしてまいりたいと思います。皆さんの今日の残りの時にも、平和へと導く神の姿が皆さんの心とともにありますように。お祈りします。

17/01/2025

2025.1.17(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言5章21節
人の道は主の目の正面にある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一4章5節
ですから、主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今朝は特別な朝を迎えました。阪神・淡路大震災から今日で30年。5時46分に合わせて黙祷のときをささげました。あのとき、私は高校卒業を間近に控えていました。当時福島に住んでいた私にとって、このニュースは朝の報道で知ることとなります。地震の様子が次々と映し出されるなかで、何もできない自分自身というものを18歳ながら痛感したことを思い出しました。今そのことを思うと、これからも日本で起こり得る震災を通して、どのようなことを私たちの神は示し、教えようとしているのだろうか。そんなことをも思わされます。
 
私は、人々の信心が受け継いでいるように、そのような自然災害やそれがきっかけで引き起こされるいわゆる人災というものが、神の断罪の結果であるというアプローチをどうしても受け入れることができません。もちろん、聖書にはそのようにも解釈できる箇所はいくらでも見い出すことはできるでしょう。しかし、それでも私たちは神の怒りの結果として、そのような災害を引き合いに出す前に、私たちがそのような非日常な出来事が自分自身を襲ったときに、どのような態度をもって生きることができるのだろうかということにぜひとも心を寄せたいし、そのような自分の姿というものを確認していきたいと思うのです。
 
そういう意味では、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちの人生の道程を開き、導いてくださる神が、何を私たちに示そうとされておられるのかについて、深い黙想を得ることのできる言葉であると私は受け止めました。私たちの正面に神が人生を提示してくださるというのが、今日の旧約聖書・箴言に示された言葉です。歩む道さえ阻まれたと感じる時にこそ、神が私たちの見えない将来にわたって歩むべき道を示してくださるのだというのです。断罪によって何かが絶たれたともし感じるのであれば、そういう時こそ私たちの神は私たちの人生のために働いてくださるのではないか。そう思えてならないのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちが早計に「裁いてはならない」という言葉が示されています。ここで言う裁くとは、断罪するという意味というよりも、物事を判断するという意味として私は受け止めました。つまり、目の前のできごとで一喜一憂して結論を急ぐあまり早合点するのではなく、目の前に神がおられるゆえにじっくりと構えることのできる態度というものを神に養っていただきたい。だからこそ、今日も聖書の言葉に聴いてそれを確認することができた朝に、心から感謝するばかりでした。
 
今日の一日もまた、阪神・淡路大震災のできごとを通して想いを深めることのできるときでありますように。平安を心からお祈りします。

16/01/2025

2025.1.16(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書2章11節
人間の高ぶる目は低くされ
人の高慢は卑しめられる。
その日には、主のみが高くされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙1章27~29節
神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けすることができませんでした。無事に帰国することができました。無病息災で8日間の研修旅行のときを過ごすことができたのは、本当にありがたい限りでした。安全をお祈りくださったみなさんには、心から感謝申し上げます。生徒たちからは、文集にするための感想文が寄せられていて、ひとつひとつ読ませてもらうなかで、この研修旅行で確かに良いものを得てくれたことを実感しました。年若い人たちが良いものをたくさん吸収しながら歩んでくれることは、本当に頼もしくまた応援したいとあらためて願わされた次第です。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「高ぶる」という言葉であったと私は受け止めました。私たちの態度というものがどのようなものなのかを確かめるときに、それは神の御前に立つということを大前提にすることの大切さというものを、今日の聖句は教えているのだと思わされます。
 
これは私自身のことですが、自分の思い描いていることがその通りに実現すると、それは誰のおかげでそうなったのかということをあらためて考えさせられます。それは自分自身の能力ゆえなのか、それともまわりの環境に恵まれていたからなのか、もちろんそういうこともあるかもしれませんが、それは「神のプロデュース」によるものであるという自覚というものを常に大切にしたいと、今日の聖書の言葉から実感させられます。神がご自分の知恵と力というものを私たちに与え、助けてくださるからこそ、私たちは神の価値観によって動くことが可能とさせられるのだということなのです。
 
その時に、神の助けというものをそっちのけにしてしまうならば、自分自身を過信してしまうあまり、高ぶりの心が芽生えていくのだというのです。今日の新約聖書の言葉である第一コリント書の1章では、神が選ばれたのはそのような過信に満ちた人物ではなく、世のなかでは見向きもしないような人々が神の助けによって生きることができるように選んだと使徒パウロは記しました。そして、ご自分の言葉と聖霊様の助けによって養い続けることにこそ、神を信じる大きな意味というものがあるのだということを伝えたかったのです。折しもパウロが話題にしているのは「自分が一番正しい」ということを言い争いの種にしているコリント教会の現状と人々に対してでした。
 
私は、先の研修旅行を通じて、すべてを安全のうちに導いてくださった神に心からの感謝をささげたいと思わされました。そして、これからも神が私たちの行くべき道というものを指し示してくださる時に、私たちはいかにそれを謙虚な思いをもって受け止めることができるか、今日の聖句が私に教えてくれたのはそんなことであったと黙想させられました。
 
今日の一日もまた、神の助けが私たちとともに豊かにありますように。お祈りします。

14/01/2025

2025.1.14(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言14章31節
造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書19章21節
イエスは若者に言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は少し早めにローズンゲン黙想をお届けしようと思います。というのも、台北の空港に向かうために朝の5時前にはホテルを出発しなければならないからです。先週の火曜日から始まった高校生の研修旅行も無事に最終日を迎えました。お昼過ぎには福島空港に到着して仙台の自宅へ戻る予定です。この一週間、参加した高校生たちのピュアな感覚に触れて、私も今から30年以上前に初めての海外研修の日々を過ごした時のことを思い出しました。あの時の経験が今の私自身を形成する多くの部分を占めていることにあらためて気づかされました。未来ある若者たちのためにこれからも祈り続けたい。そのように思えてなりません。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「貧しい人」というものでした。ここで言う貧しい人とはどのような状況のことを指すのでしょうか。分かりやすいところで言えば、経済的な貧しさのことを指す言葉として私たちは想像できるかもしれません。実際に、今日の新約聖書が指し示しているのは、金持ちの青年に対してイエスが示した行動は、自分の持ち物を貧しい人のために施すというものでした。具体的に自分自身を投げうってでも相手のために尽くす心を持つことをイエスは青年に語られました。
 
この言葉をもう少し深めてみるならば、貧しい人たちに施すにあたって必要なのは「自分自身の執着を投げ捨てる」ということであると私は受け止めました。終着しているものとは何だろうかと考えるのです。そう考えれば、何も経済的なものだけとは限らないでしょう。さまざまなプライドや自分自身をつかんで離さないものならば何でもそうであると言えるでしょう。つまり私たちの側に問われていることとは、自分自身に対する執着を見つめたときに、それが神との関係のなかでどのように捉えることができるのだろうかということへの深い熟考なのだと私は感じました。
 
貧しいという言葉には謙遜という意味も含まれているのだというのは、今日の旧約聖書にしても新約聖書にしても、原語が示す意味なのだそうです。つまり、自分自身の執着は神との深い交わりによって気づかされ、神との関係性のなかでその執着に対する健全な見方が養われていくのでしょう。だからこそ、貧しさというものを通して謙遜とは何かを学ぶことができるのだと、私は今日の聖句を通してそのように受け止めたいと思ったのです。
 
造り主を尊び、救い主イエスの足跡に従うためにも、貧しさということを通して謙遜のもたらす幸いというものを、神の助けによって得てまいりたいと心から願います。皆さんの一日にも、そのような神が私たちのために働いてくださることを喜びつつ、その時を過ごすことができますように。お祈りします。

13/01/2025

2025.1.13(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編37節
空しいものを見ないよう、私の目をそらせてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章34節
目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、体も暗い。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は仙台で行われる礼拝のために準備しなければならないことを台湾から行っていましたので、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。申し訳ありません。高校生の台湾研修旅行も、4つの交流事業のすべてを終えることができました。ここまで神が安全を与え、すべてを祝福してくださったことを感謝するばかりです。今日は最終日ですので観光を楽しみます。明日早朝に空港へ行き、帰路につきます。最後まで祈りつつその時を過ごしたいと思います。皆さんのお祈りに心から感謝申し上げます。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句をつなげるキーワードは「目」であると私は受け止めました。私にとって今日の聖句は、11月に左眼が出血した身ですので、とても切実なものを感じさせられる聖句でした。目が見えるというのがいかにありがたいことであるかを実感させられる機会となりました。治療の甲斐があって左眼は前の状態に完全に戻るわけではありませんが、生活に支障のないところまで視力が戻るようになりました。今週からレーザー治療が約2か月にわたって行われますが、この治療を大切にしたいと思わされている次第です。
 
今日の旧約聖書が示している嘆願の言葉は、空しいものを見ないようにするために、神が私の視線をそこからそらせてくださいというものです。この言葉をどのように理解すれば良いのでしょうか。自分自身を空しくさせてしまうようなことは、生きていればいくらでもあることを私たちはよく知っていると思います。ですから、そういうものから目をそらして生きるというのは、とても難しいことなのかもしれません。
 
しかし、そういう環境にあったとしても、私たちは「どこを」見据えて与えられる人生の日々を歩むことができるのだろうかということは、やはり大切なのだと私は思います。今日のローズンゲンには記されていませんが、今日のローズンゲンである詩編119編37節の続く後半部分には「あなたの道で私を生かしてください」とあります。つまり、私たちが見据えることができるのは、神が舗装してくださる道であるというのです。そこに何のてらいもなく歩むことが許されているというのは、実はすごいことなのだとあらためて感じさせられるのです。
 
昨日の礼拝は、台北市内にある台湾基督長老教会の「国際日語教会」へ高校生たちと行きました。かつて「日本人」として生きたことのあった台湾人の方々が、日本に対する深い愛情ゆえに、彼らの手によって建てた教会です。以後数十年にわたって日本語による宣教活動がおこなわれています。そのなかで、うすきみどり牧師によって取り次がれた礼拝メッセージの聖書箇所は、コヘレトの言葉3章の「すべてが空しい」という箇所だったのです。
 
メッセージのなかで、空しいからこそ神が見えるという内容のお話を高校生に向けてわかりやすく話してくださっていました。今回研修旅行に参加した高校生のほとんどは、生まれて初めて教会での礼拝参加でした。最初、慣れない状況のなかで飽きないだろうかと思っていたのは杞憂であったことに気付かされます。彼らは賛美の歌い、祈りの最後にはアーメンとはっきりとした声で応答し、メッセージ中もとてもニコニコしていたというのはうすき牧師の弁でした(私は高校生の後ろに座っていたので、前の状況はわからなかったのです)。
 
まさに、空しいなかにあっても神を見る眼は澄んでいたことを思わせるひと時であったと私は感じました。私の杞憂を大いに超えて働く神の御業というものを実感することがあらためてできたことに、心から感謝するばかりでした。目が澄んでいれば心は明るい。イエスの言葉が今日の新約聖書の言葉でした。まさに、神が私たちの眼力を澄ませてくださる。そんなことを心の希望にして、新しい一日を歩むことができますように。心からお祈りします。

11/01/2025

2025.1.11(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書37章26節
私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章4~5節
今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
私は台湾滞在5日目を迎えました。昨日は今回の研修旅行のメインとなった、台南市にある「長栄高級中学(高校)」への訪問と交流会を無事に終えることができました。現地の協力者なしにはとても実現することができなかった今回の事業でしたが、もっとその背後には、未来を担う若者たちの命を尊び、祝福する方がおられることを想わずにはいられません。参加者全員が安全に守られて最終日まで過ごすことができますようにと祈ります。今日は台南から高雄に移動して、午後から夜にかけて観光と若者との交流会が予定されています。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句をつなぐ言葉は「平和」でした。そして、その平和とはなにかということを今日の聖書の言葉を踏まえて考えたときに、今日の新約聖書にある「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」の存在こそが、私たちに安心と平和を与える土台になるということなのだと私は受け止めました。そして救い主イエスが、そしてイエスを私たちのために与えられた神のご存在というものこそが、今日の旧約聖書の言葉にも示されている契約に相通じるのだと私は思うのです。
 
現在も過去も未来も、私たちの状況はどんなに変われども神がおられるという事実は変わることがないのだと。私たちはそこに神の「不変性」というものを求めるかもしれません。そういう意味で言えば、神はご自分の考えやなされることの細部に至るまで何も変わらないのかと問えば、そういうことは決してないと私は思います。むしろ、神ほど融通の利かれる御方はいないのではないかと思うのです。私たちを根本的に闇から救い出すために自分の息子まで差し出してしまうほどフレキシブルな御方なのですから。
 
ですから、神の不変とは何から何まで変わらないということではなく、本質だけは変わることのない不変、それ以外はその時の状況に応じてストライクゾーンを広く構えてそれを受け止めることのできるという意味での「神の不変」なのだと私は思うのです。そしてそのような神の不変は、誰もが結ばれているという意味での契約が普遍的なものとして、現在もそしてこれから将来にわたっても世界的に広がりゆくものであることを受け入れて生きる者でありたいと願わずにはいられません。
 
神がイエス・キリストを通して与えてくださる平和とは、このようにして私たちの心に受け止められ、私たちが神の平和の器とされるときに、私たちの与えられた命の日々をもって、神の大きな助けによって今日という一日をも生きることができるのだと、今日のみことばを通して想わされました。
 
あっという間に一週間の最終日を迎えました。どうかこの備えの一日もまた祝福された時でありますように。皆さんの主にある平和は心よりお祈りします。

10/01/2025

2025.1.10(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記5章29
彼らが私を畏れ、私のすべての戒めを守る心をいつも自分の中に持ち続け、彼らもその子孫も、いつまでも幸せであるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書13章34~35
あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
私は台湾滞在4日目の朝を迎えました。無事に台北から台南へ移動し、いよいよ今日は現地高校生との交流会が予定されています。この交流会を準備してくださった現地高校とコーディネイトしてくださった先生方には感謝するばかりです。どうぞ日本の高校生たちにとって良き思い出となりますようにと祈りつつ過ごしていきたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された旧約・新約聖書の言葉を通して私に与えられたテーマは「幸せになるための戒め」というものでした。神が私たちに対して願っておられるのは、私たちが幸せになることです。彼らも彼らの子孫もと、今日の旧約聖書の言葉である申命記の一節には記されています。私だけではない、今だけではない。私もあなたも彼らも、昔も今もこれからもです。まさに未来を担う若者たちと過ごしていて、この方々のために今私ができることとは何かということを考えさせられる思いです。
 
そのために、神は私たちに「戒め(ご命令)」をお与えになりました。その戒めを与えられた私たちは、それを心のなかで温め続けるというのです。そのことが具体的に示されているのが、救い主イエスによって弟子たちすべてに与えられた戒めでした。「新しい戒め」と名付けられたそのご命令とは、神がイエス・キリストを通して与えられた愛(アガペー)をもって互いに愛し合うことです。それは決して自分の利益だけを考える愛ではありません。そうではなく、相手の幸福を心から願うがために示される神の愛なのです。神が、イエスが私たちを愛されたように、私たちも救い主イエスの助けによって互いに愛し合う心を温め続けたいのです。
 
イエスの弟子、つまりクリスチャンとして生きるとはそういうことなのでしょう。神が私たちの幸福を願っておられるがために与えられる戒めというものを、私たちがいかに大切にすることができるだろうか。そんなことを胸にしつつ今日の一日を歩むことができますように。特に雪害に苦しみを憶えているすべての方々に、特に能登半島でそのために痛みを感じておられるすべての方々に、神の愛をもって祈り、支えることができますように。心から祈ります。」

09/01/2025

2025.1.9(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記8章2節
あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章12~13節
それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
私は台湾滞在3日目の朝を迎えました。今日から台北から台南へ移動します。今回のメインとなる現地高校生や教会の若い人たちとの交流の機会を持ちます。ひとつひとつのできごとが高校生にとっての良い思い出になりますようにと祈るばかりです。私はいたって元気に過ごしています。ご心配くださっている方々へは感謝申し上げます。
 
さて、今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「40」という数字です。旧約聖書ではエジプトから脱出してから約束の地にたどり着くまでの40年、新約聖書では荒野でイエスが悪魔の誘惑を受けながら断食をおこなった40日のできごとついて触れられています。つまり、荒野における40年の日々と荒野における40日の日々に共通する話題は「苦難」というひと言で表現できると思うのです。
 
そのことを踏まえて考えた時に、ではそのような苦しみや痛みのなかにある人間は何を見つめ、何を大切にして歩もうとしているのかということを考えるのはとても重要なことであると思うのです。今日の聖書の言葉にはこうあります。
 
あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた(旧約)
天使たちがイエスに仕えていた(新約)
 
つまり、どんな苦しみのなかにあったとしても、それを経験して誰からも見捨てられているような感覚に陥っているとしても、神である主ヤハウェが私たちの行くべき道を指し示してくださり、その道程のなかで天使たちがイエスに仕え守られたように、私たちのことを守ってくださるというのです。
 
私たちの人生の道程は、必ずしも順風満帆とはいきません。むしろ困難な道を歩むことのほうが多いのではないかと思うくらいです。しかし、そのような困難のなかで私たちは何を見い出し、見つけ、それによって慰め励まされながら未来志向で歩ませてもらえるだろうかというところにこそ、宝のような価値があるのではないだろうかとあらためて思わされたのです。今未来に向かって歩んでいる高校生たちとともに過ごしていますから、なおのことそのように思わされているのかもしれません。
 
どうぞ皆さんにとっての今日の一日に、神が私たちの心と思い、そして言動のひとつひとつに、御言葉と聖霊様の助けによってなされる未来志向が十分に与えられますように。お祈りします。

08/01/2025

2025.1.8(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編108編2節
神よ、私の心は確かです。
私は歌い、ほめたたえよう。
私の栄光よ
目覚めよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録3章8節
脚の不自由な男は躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今朝は台北市内のホテルで朝を迎えています。日本より1時間遅れているのと、随分西側になりますのでまだ空は真っ暗です(今日本時間の7時です)。今のところ生徒たちに何の問題もなく研修のときをもっています。本当に感謝です。今日もすてきな一日となりますようにと祈りました。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、神の慈愛にふれた人の態度について記されたものです。今日の詩編の言葉はとても興味深いものがあります。「私の心は確かです」という言葉は、気が確かであるとかという意味というよりは、神によって守られて、整えられている状態のことを指しています。神のいつくしみに触れるときに、私たちの心もやわらいで神の価値観に生きることに喜びを抱くことができるというのです。そのときにはじめて、神への賛美が賛美として美しいハーモニーを醸し出すのだというのが、詩編の歌い手にこめられた思いなのです。
 
神の愛が注がれたときに、私は自分自身で「栄光」をつくり出さなくても良いのです。神の栄光の反射板として生きることができるからです。それは、私たちの素性そのもののことを言っているのではありません。素性がたとえ見劣りするようなことがあったとしても、神の栄光が輝く時に、それは私自身の栄光として光り輝くのです。ですから、神のそのような栄光によって私が目覚め、私自身もまた神によって与えられた栄光によって、快活に生きることができるというのが、今日の詩編の言葉から受け止めたメッセージでした。
 
生まれつき足の不自由な男が神殿にある「美しの門」の前で座っていたとき、使徒であるペトロとヨハネが救い主イエスのお名前によって癒しを与えられました。見た目には物乞いをしているわけですから決して立派というふうには見えないでしょう。しかし、明らかにこの男性は神の栄光をいただいて、脚が癒されただけではなく躍り、賛美をして、神殿に入って神を礼拝したのでした。このような男の姿こそ、神の慈愛によって整えられた姿であると言って良いのだと私は思うのです。
 
今日も私たち一人ひとりが神の価値観によって整えられて、いつくしみを存分にいただきつつ生きることができますように。お祈りします。

07/01/2025

2025.1.7(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章11節
主の諭しを拒むな。主の懲らしめをいとうな。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章22節
イエスは権威ある者のようにお教えになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい昨日と、ローズンゲン黙想をお届けすることができず申し訳ありませんでした。しばらく仙台を留守にしますので、そのための準備に朝から動いておりました。今日から1週間、福島県の高校生と一緒に台湾へ研修旅行へ出かけます。私は引率者のひとりとして参加しますが、未来ある高校生に少しでも良いものを得てもらいたいとの思いで参加したいと思います。教会やキリスト教主義学校などを訪問する予定です。旅行中の無事を祈りつつ。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を通して、私自身がこれら生徒たちとともに過ごすなかで自分自身の指針となる聖書の言葉が与えられたような気がいたしました。主の諭しを拒むな。主の諭しとは何でしょうか。それは神の愛に生きるということであると私は受け止めました。つまり、神が私のことを大切に扱ってくださっている。神に愛され守られた者であるという自覚は、おのずと他者に同じベクトルをもって向くものだということをあらためて感じたのです。主の懲らしめというものは、いわゆる暴力的にかつ傷跡を残すようなものとは違うと私は考えています。あくまで慈愛の念をもって、しかし拒んだり嫌がる気持ちを与えるのではなく、じっくりと忍耐をもって接していくことの大切さというものを、今日の旧約聖書である箴言の言葉は私に与えているのだと思います。
 
その模範となられたのが救い主イエスでした。イエスはもちろん神の子ですから、神と違った考え方を人々には示しませんでした。あくまで「神の権威」によって教えたと今日の新約聖書の言葉にあります。神の権威を傘にして好き勝手なことを話したのではありません。あくまで神が私たちに願っておられることをありのままに語られたのでした。その根本となるのが私たちへの愛をともなった諭しであり、私たちを決して無用に傷つけない懲らしめなのだと。そのような神によって生かされている私たちが、どのようにそのことを隣人に対して示していくかということを考えるときに、まさに襟の正される思いにあふれたのです。
 
今日も一日、神様が私たちをご自分の愛のうちに導いてくださいますように。皆さんの主にある平安と祝福を心からお祈りします。

04/01/2025

2025.1.4(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編31編6節
主よ、まことの神よ
私の霊を御手に委ねます。
あなたは私を贖われた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章16節
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「神が私たちに近づいてくださるからこそ、私たちは神に近づくことができるのだ」だと私は受け止めました。そのことについて考えてみたいと思います。
 
私たちは「信仰」というと、私たちが神に近づこうと頑張るからこそ、神が振り向いてくれるものだと思ってはいないでしょうか。世の中一般で言われている信仰とは、神仏に対する熱心な姿勢こそ立派な姿なのだと思われている節があるように私は思います。もちろん熱心な姿勢そのものが悪いわけではありませんが、大切なのは「どちらが先にありきか」ということなのだとあらためて思わされます。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節は、神が私たちを贖われた、つまり私たちの資質を問わずして私たちを買い取ってくださったとあります。私たちは良質だから買い取られたのでしょうか。むしろ逆で、私たちは売り物にならないほどに欠陥だらけの存在なのを神が買い取ってくださったのだと。そして私たちの欠けた部分をご自分の知恵と力をもって修復してくださるというのです。神は、私たちの欠陥を抱えつつもそのままにほったらかし状態で良いなどとは全然思っていないのです。ご自分の霊によって生きることを心から願われているために、あえて欠陥品の私たちを買い取ってくださったのです。
 
ですから、この詩編を歌った人物は「私の霊をあなたに委ねます」と告白することができました。私はこういうイメージをもちました。私のボロボロになった霊も身体も神が修復してくださるからこそ、安心してお委ねすることができるのだと。あなたの霊で私を全人的に活かしてくださいという切なる願いが聞こえてきそうな歌であると。
 
この精神が、今日の新約聖書の言葉にも十分に反映しています。神の憐れみと恵み、つまり慈愛と良いものを神が私たちに与えてくださるからこそ、それを十分に私たちの心と思い、そして身体が良いもので満たされるために、神のみもとに近づくことができるのだと。神の御前に出るということが、神が私たちに対する深い愛情と聖霊による生きる活力というものを与えてくださることに心から信頼の思いを抱くことが源になっているということなのです。
 
私たちは自分自身のうちに働く神の助けというものを本当に必要としているでしょうか。私にとって本当はそれが無くては生きていけないくらいに必要なはずなのです。しかし、私たちはどうしても外見や体裁というものを気にしてしまう。そこを繕いさえすれば熱心なように見えて、そこに自分のエネルギーを集中させてしまうのです。そして、そのエネルギー源が「自分自身」にあることに無意識に頼ってしまうのです。
 
神の御前に出るひと時。明日世界中で行われる礼拝や集会のすべてが、そのような機会となりますようにと心から願いつつ、備えをしたいと心から思わされました。2025年最初の主日が、そのような神の私たちに対するいつくしみがあふれますように。そのことを祈りつつ、新しい一日を過ごしてまいりたいと思います。

03/01/2025

2025.1.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
民数記23章19節
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言ったことを、行わないことがあろうか。
告げたことを、成し遂げないことがあろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章24節
私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書の言葉である民数記23章の一節に眼がとまりました。「神は人の子ではないから悔いることはない?」と思ったのです。神だって悔やむことはあるだろうと思い浮かんだのが、創世記6章6節の言葉でした。
 
創世記6章6節
(神は)地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
 
これは、ノアの洪水のきっかけとなった神の思いについて記された箇所なのですが、そう思った理由は前の5節に記されています。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て」地上に人を造ったことを悔やんだということなのです。
 
ここで悔やむと日本語に訳されているもともとの言葉は「ナーカン(נָחַם)」というヘブライ語が用いられています。この言葉には悲しみや苦しみの際に起きる慈悲や慰めという思いが含まれたうえでの「悔やみ」という意味もあるのだそうです。
 
しかし、今日の民数記の言葉には「神は人の子ではないので悔やむことがない」と書かれているではありませんか。創世記6章と同じくナーカンというヘブライ語が用いられています。神は悔やむのか悔やまないのか。このことをもう少し突き詰めてみたいと思います。
 
今日の聖句である民数記では「人の子ではないから」と記されています。ここで言う人の子とは私たち人間のことを指しますが、そのことを踏まえて私は今日の旧約聖書の言葉をこのように解してみました。つまり、神は人間が悔やむような仕方で悔やむことはないのだ、という風にです。
 
これは私だけかもしれませんが、後悔する(悔やむ)というのは「後悔後に立たず」とあるように、取り返しのつかない修復不可能のような感情を呼び起こす時に使われることがしばしばあると思うのです。別な言い方をすれば、後悔した時に慰めや慈悲の感情など起きるのだろうか。もしあるとすれば「あの時にこうしてあげればよかった」と相手に申し訳なく思うときだろうと私は思ったのです(実際にナーカンという言葉には「申し訳なく思う」という意味も含まれているのだそうです)。
 
つまり慈悲や慰めをともなった悔やみであるかどうかということを考えたときに、神は人間が経験するような後悔をしない方である。必ずや人間に対する慰めをともないながら、ご自分が抱かれた当初の目的を明らかにする方なのだと思えば、今日の民数記の言葉と創世記の言葉は決して矛盾しないのではないかと思ったのです。
 
そのような神の思いを私たちがいかに受け取ることができるかということに、大きなカギがあると私はあらためて気づかされました。今日の新約聖書の言葉はイエスによる「山上の説教」の一節です。神の言葉を聞いて行う者は岩の上に建てた家に似ているというあのたとえの言葉です。岩の上に建てた家はどんな困難にも耐え抜いたが、砂地の上に建てた家は簡単に吹き飛ばされ流されて壊れてしまったというのです。
 
どうして困難に耐えることができたのか。それは神の慰めに満ちた悔やみの上に私たちが立たされているからだと私は思います。神の後悔は投げ捨てる方に向かわず、再生と希望の道へと私たちを進ませるための後悔だからであって、神はご自分の言葉と行いによって救い主であるイエスを私たちに与えてくださいました。そのことを胸にして生きるならば、私たちもまた後悔が後悔で終わるようなことがないのだと思いたいのです。
 
どうか今日の一日もまた、そのような神のもとに立たされていることが希望の源となりますように。平安を心からお祈りします。

02/01/2025

2025.1.2(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言29章25節
人間を恐れると、それは罠となる。
主を信頼する人は高い所で安らかである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章32節
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい年の2日目を迎えました。それぞれの元日をいかがお過ごしでしたでしょうか。私は午前中に病院を退院して、午後はゆっくりと過ごすことができました。絶対に安静というわけではありませんので、いつものウォーキングを無理しないで楽しんだりしました。そして、昨日は少し早めに床に就きました。しっかりと眠りましたので、今朝はとても爽快です。皆さんのお祈りに心から感謝します。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「恐れ」でした。恐れてはいけないという勧めが、今日の旧約聖書にも新約聖書にも記されています。では、その恐れとはなんなのでしょうか。そのあたりをあらためて考えたいと思いました。
 
今日の聖句に登場する恐れは、非日常のことが起きるときに抱く感情的なパニックという意味の言葉が用いられています。そしてその恐れは、ときに神に向くこともあれば人に向くこともあるのであって、とても広範囲に用いることのできる言葉であるのだそうです。
 
イエスの御降誕のときに、羊飼いたちの感じた恐れとは、最初はまばゆい光が突如として自分たちの眼前に広がったことへのパニックであったかもしれません。いったい何が起きたのだろうかという恐怖です。しかし、その恐怖はしだいに神への畏敬の念へと変えられていきます。神を目の前にしてまことに恐れ多いことだと、その恐れは神をたたえる原動力にもなったのです。
 
しかし、本来私たちが感じる恐れというのは、なかなか羊飼いのような感情の変移が起きないものなのかもしれません。日々の人間関係において、私たちは簡単に周囲の行動や反応、感情に恐れを抱いて振り回されます。その人に嫌なことをされたくない、嫌われたくないという一心で、人間を恐れて生きなければならない現実があるのです。ですから、恐怖にかられ、そのパニックの状態からなかなか抜け出せないならば、それはとても不幸なことであると私自身のことを考えてもそう思わされるのです。
 
だからこそ、私たちは「恐れるべき相手は誰なのか」ということに、自分自身の心を寄せていきたい。そのように思わされました。そういう意味では、今日の旧約聖書である箴言29章の言葉は本当にその通りであると納得させられます。人間への恐れゆえにパニックになり、抜け出せないことこそ「罠」となるのだと。そして、パニックという罠から私たちを解放させることができるのは神のほかにはおられないのだと。この神がおられることへの信頼は、私たちが人間関係のなかで日々感じる恐れに対する冷静な対処というものに向き合う力があるのだと、私はそのように感じたのでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られたものです。日々の生活に苦しみ悩む民たちに対して、イエスはその苦痛のなかでも恐れるべき相手は誰なのかを明確にしています。人間や社会のしがらみに恐れるあなたがたには、神の国、つまり神の価値観というものがもうすでに与えられているのだと。この価値観に生きることこそ、健全な恐れというものを神に向けることができるのだと。神の断罪を恐れるのではなく、神の愛に畏敬の念を抱くことこそ、あなたがたの幸いへの道なのだと。そんなイエスの声が聞こえてくるようです。
 
いろいろな不安があると思います。心を狭め、ストレスを感じるような要素がいくらでもあります。しかし、だからこそそのような環境のなかできらりと光るものを大切にしていきたい。今日の聖句からそんなことを考えました。どうぞ今日の一日に、神の守りと平安が皆さんとともにありますように。お祈りします。
 

01/01/2025

2025.1.1(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書1章7節
「まだ若い」と言ってはならない。
 むしろ、私があなたを遣わす相手が誰であろうと
 赴いて、命じることをすべて語れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙1章16節
私は福音を恥としません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、新しい2025年が明けました!この一年が、皆さんにとって、神様の祝福を存分に味わえるような日々となりますように。心からお祈りします。どうぞ本年も、ローズンゲン黙想を通し、神の言葉をともにいただくことができれば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
 
さて、昨日は私の心臓のことで大変ご心配をおかけしました。心房細動のため入院して投薬を行った結果、夜には心房細動の症状が落ち着きました。不整脈もなくなり、明日、無事に退院できることとなりました。2024年の最後に、来年に向かって神様が素敵なアドバイスをしてくださったのだと受け止めました。自分自身をもっと労りなさいよと。そんなことに感謝しつつ、新しい2025年を過ごしていきたいと思います。
 
そんななかで与えられたローズンゲンに収められた今日のみことばは、自分自身を労りつつも私の一年間の歩みを励ましてくれる、そんなものであると受け止めることができました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神が年若いエレミヤに対してご自分の言葉を人々に伝える務めを与えられた場面の一節です。エレミヤは自分は若いからとそれを固辞しますが、神は若いなどと言ってはいけないのだと、エレミヤの思いをよそに預言者としての務めを与えました。
 
若さ。私はこの世界ではまだまだ「若手」かもしれません。私の働く教会では牧師信徒含めて23名のうち、3番目に若いのが私です。とはいえ、もう来年には50歳。数え年で言ったら今日をもって50歳となりました。決して若くなんかないのです。
 
ですから、この歳になると徐々に責任というものを担うことも多くなってきたわけですが、その責任というものを担うためには、神がこの務めを与えているのだという強い意識と、自分自身が無理してでも担わなければいけないのではなく、神が指し示されるものに心から従おうとする思いを温め続けることが大切なのだと思わされます。
 
務めを断る理由などいくらでもあるのだと思います。しかし、その理由が神をそっち向けにして自分自身のことだけを考えてそうするのであれば、そこには何の意味もないと思うのです。断りにしても受けるにしてもです。すぐに言い訳をして、本当に大切なものまで見失ってしまうことのないように、神が与えられた大切なものを大切にしていきたいのです。
 
実際エレミヤは逡巡しながら、自分に与えられた勤めを問い続けました。最初から100%の確信を持って受け入れたわけではありませんでした。しかし、最終的には神の命令を全て受け入れました。それが本当に大切なものだと思ったから。人々が罵詈雑言を彼にぶつけようとも、彼は神が与えられた大切なものを大切にし続けたのでした。
 
パウロは、私は福音を恥としないと手紙に書き綴りました。イエス・キリストが私たちの救い主であることを告げるのは、当時はまだまだ簡単なことではなく、パウロは幾度となく命すら危ぶまれるような場面に遭遇しています。それでも、パウロは本当に大切なものを大切に守り続けたのでした。決して誰かに強要されることなく、自分自身の価値観をただイエスの価値観に合わせながら生きていったのでした。
 
それが、イエス・キリストを恥としない生き方なのでしょう。この1年間、私はそんな生き方に少しでも自分自身の心を寄せていきたいと思わされた次第です。もちろん、神が助けてくださるからこそです。
 
どうぞ素敵な元日をお過ごしください。重ねて、主にあって本年もよろしくお願いします。