14/01/2025

2025.1.14(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言14章31節
造り主を尊ぶ人は貧しい人を憐れむ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書19章21節
イエスは若者に言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は少し早めにローズンゲン黙想をお届けしようと思います。というのも、台北の空港に向かうために朝の5時前にはホテルを出発しなければならないからです。先週の火曜日から始まった高校生の研修旅行も無事に最終日を迎えました。お昼過ぎには福島空港に到着して仙台の自宅へ戻る予定です。この一週間、参加した高校生たちのピュアな感覚に触れて、私も今から30年以上前に初めての海外研修の日々を過ごした時のことを思い出しました。あの時の経験が今の私自身を形成する多くの部分を占めていることにあらためて気づかされました。未来ある若者たちのためにこれからも祈り続けたい。そのように思えてなりません。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「貧しい人」というものでした。ここで言う貧しい人とはどのような状況のことを指すのでしょうか。分かりやすいところで言えば、経済的な貧しさのことを指す言葉として私たちは想像できるかもしれません。実際に、今日の新約聖書が指し示しているのは、金持ちの青年に対してイエスが示した行動は、自分の持ち物を貧しい人のために施すというものでした。具体的に自分自身を投げうってでも相手のために尽くす心を持つことをイエスは青年に語られました。
 
この言葉をもう少し深めてみるならば、貧しい人たちに施すにあたって必要なのは「自分自身の執着を投げ捨てる」ということであると私は受け止めました。終着しているものとは何だろうかと考えるのです。そう考えれば、何も経済的なものだけとは限らないでしょう。さまざまなプライドや自分自身をつかんで離さないものならば何でもそうであると言えるでしょう。つまり私たちの側に問われていることとは、自分自身に対する執着を見つめたときに、それが神との関係のなかでどのように捉えることができるのだろうかということへの深い熟考なのだと私は感じました。
 
貧しいという言葉には謙遜という意味も含まれているのだというのは、今日の旧約聖書にしても新約聖書にしても、原語が示す意味なのだそうです。つまり、自分自身の執着は神との深い交わりによって気づかされ、神との関係性のなかでその執着に対する健全な見方が養われていくのでしょう。だからこそ、貧しさというものを通して謙遜とは何かを学ぶことができるのだと、私は今日の聖句を通してそのように受け止めたいと思ったのです。
 
造り主を尊び、救い主イエスの足跡に従うためにも、貧しさということを通して謙遜のもたらす幸いというものを、神の助けによって得てまいりたいと心から願います。皆さんの一日にも、そのような神が私たちのために働いてくださることを喜びつつ、その時を過ごすことができますように。お祈りします。

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