くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書6章5節
私(イザヤ)は言った。
「ああ、災いだ。
私は汚れた唇の者
私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。」
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章13節
私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、憐れみを受けました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想わされたこと、それは「神はどうしようもない者をご自分の大切な務めのために召し出された」ということでした。決して優秀だから神はご自分のことを知らせる預言者や宣教者として選び出し、遣わされたわけではなかったのだと。
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書6章は、神によってイザヤが神の言葉の預言者として遣わされるシーンです。イザヤは神殿に神である主ヤハウェと出会ってしまうのです。イザヤにとってそれは恐れ多いことであり、罪ある者が神と相まみえることは死を意味したのでした。ですから、イザヤはとんでもないことになってしまったと思ったことでしょう。
しかし、イザヤの恐れは神への畏怖の念へと変えられていきます。こんな者にも神の言葉を伝えるという務めが与えられることに応じました。私がここにおります。私を遣わしてくださいというイザヤの神に対する告白は、イザヤ自身の能力ゆえではなく、神の助けがあってこそのイザヤと神の信頼関係によるものに他なりませんでした。
そのことは宣教者パウロにも言えたことでした。今日の新約聖書の言葉は、歳若い同労者であるテモテに対して、パウロが自分は何者かということについて語り伝えている手紙の一文です。パウロは自分自身が高い能力を持ち備えている存在であることを自認していました。その能力をもってそれが熱心さとなり、当初はクリスチャンを迫害するということに勢力を注いでいた人物、それがパウロでした。
しかし、そんなパウロに神の憐れみが働きました。同じ能力でも「用い方」を変えて、神のまなざしがパウロに向けられていく。この神の視線によってパウロは自分がいかに高慢であったかを思い知らされます。そして以後、キリストの宣教者としてその人生を歩むのでした。神の選びというものがいかにダイナミックであるかを思い知らされます。
私たちもまた立派だから神に選ばれ、救いの道が与えられたわけではなく、ただ神の憐れみによって、キリストのからだの一部とされたのです。その意識というものを自分自身のありようを見つめながら感謝できるような一日でありたい。私はそのように今日の聖書の言葉を受け止めました。
皆さんの新しい一日に、そのような神が親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。
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