くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言29章25節
人間を恐れると、それは罠となる。
主を信頼する人は高い所で安らかである。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書12章32節
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい年の2日目を迎えました。それぞれの元日をいかがお過ごしでしたでしょうか。私は午前中に病院を退院して、午後はゆっくりと過ごすことができました。絶対に安静というわけではありませんので、いつものウォーキングを無理しないで楽しんだりしました。そして、昨日は少し早めに床に就きました。しっかりと眠りましたので、今朝はとても爽快です。皆さんのお祈りに心から感謝します。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「恐れ」でした。恐れてはいけないという勧めが、今日の旧約聖書にも新約聖書にも記されています。では、その恐れとはなんなのでしょうか。そのあたりをあらためて考えたいと思いました。
今日の聖句に登場する恐れは、非日常のことが起きるときに抱く感情的なパニックという意味の言葉が用いられています。そしてその恐れは、ときに神に向くこともあれば人に向くこともあるのであって、とても広範囲に用いることのできる言葉であるのだそうです。
イエスの御降誕のときに、羊飼いたちの感じた恐れとは、最初はまばゆい光が突如として自分たちの眼前に広がったことへのパニックであったかもしれません。いったい何が起きたのだろうかという恐怖です。しかし、その恐怖はしだいに神への畏敬の念へと変えられていきます。神を目の前にしてまことに恐れ多いことだと、その恐れは神をたたえる原動力にもなったのです。
しかし、本来私たちが感じる恐れというのは、なかなか羊飼いのような感情の変移が起きないものなのかもしれません。日々の人間関係において、私たちは簡単に周囲の行動や反応、感情に恐れを抱いて振り回されます。その人に嫌なことをされたくない、嫌われたくないという一心で、人間を恐れて生きなければならない現実があるのです。ですから、恐怖にかられ、そのパニックの状態からなかなか抜け出せないならば、それはとても不幸なことであると私自身のことを考えてもそう思わされるのです。
だからこそ、私たちは「恐れるべき相手は誰なのか」ということに、自分自身の心を寄せていきたい。そのように思わされました。そういう意味では、今日の旧約聖書である箴言29章の言葉は本当にその通りであると納得させられます。人間への恐れゆえにパニックになり、抜け出せないことこそ「罠」となるのだと。そして、パニックという罠から私たちを解放させることができるのは神のほかにはおられないのだと。この神がおられることへの信頼は、私たちが人間関係のなかで日々感じる恐れに対する冷静な対処というものに向き合う力があるのだと、私はそのように感じたのでした。
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られたものです。日々の生活に苦しみ悩む民たちに対して、イエスはその苦痛のなかでも恐れるべき相手は誰なのかを明確にしています。人間や社会のしがらみに恐れるあなたがたには、神の国、つまり神の価値観というものがもうすでに与えられているのだと。この価値観に生きることこそ、健全な恐れというものを神に向けることができるのだと。神の断罪を恐れるのではなく、神の愛に畏敬の念を抱くことこそ、あなたがたの幸いへの道なのだと。そんなイエスの声が聞こえてくるようです。
いろいろな不安があると思います。心を狭め、ストレスを感じるような要素がいくらでもあります。しかし、だからこそそのような環境のなかできらりと光るものを大切にしていきたい。今日の聖句からそんなことを考えました。どうぞ今日の一日に、神の守りと平安が皆さんとともにありますように。お祈りします。
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