04/01/2025

2025.1.4(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編31編6節
主よ、まことの神よ
私の霊を御手に委ねます。
あなたは私を贖われた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章16節
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマ、それは「神が私たちに近づいてくださるからこそ、私たちは神に近づくことができるのだ」だと私は受け止めました。そのことについて考えてみたいと思います。
 
私たちは「信仰」というと、私たちが神に近づこうと頑張るからこそ、神が振り向いてくれるものだと思ってはいないでしょうか。世の中一般で言われている信仰とは、神仏に対する熱心な姿勢こそ立派な姿なのだと思われている節があるように私は思います。もちろん熱心な姿勢そのものが悪いわけではありませんが、大切なのは「どちらが先にありきか」ということなのだとあらためて思わされます。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節は、神が私たちを贖われた、つまり私たちの資質を問わずして私たちを買い取ってくださったとあります。私たちは良質だから買い取られたのでしょうか。むしろ逆で、私たちは売り物にならないほどに欠陥だらけの存在なのを神が買い取ってくださったのだと。そして私たちの欠けた部分をご自分の知恵と力をもって修復してくださるというのです。神は、私たちの欠陥を抱えつつもそのままにほったらかし状態で良いなどとは全然思っていないのです。ご自分の霊によって生きることを心から願われているために、あえて欠陥品の私たちを買い取ってくださったのです。
 
ですから、この詩編を歌った人物は「私の霊をあなたに委ねます」と告白することができました。私はこういうイメージをもちました。私のボロボロになった霊も身体も神が修復してくださるからこそ、安心してお委ねすることができるのだと。あなたの霊で私を全人的に活かしてくださいという切なる願いが聞こえてきそうな歌であると。
 
この精神が、今日の新約聖書の言葉にも十分に反映しています。神の憐れみと恵み、つまり慈愛と良いものを神が私たちに与えてくださるからこそ、それを十分に私たちの心と思い、そして身体が良いもので満たされるために、神のみもとに近づくことができるのだと。神の御前に出るということが、神が私たちに対する深い愛情と聖霊による生きる活力というものを与えてくださることに心から信頼の思いを抱くことが源になっているということなのです。
 
私たちは自分自身のうちに働く神の助けというものを本当に必要としているでしょうか。私にとって本当はそれが無くては生きていけないくらいに必要なはずなのです。しかし、私たちはどうしても外見や体裁というものを気にしてしまう。そこを繕いさえすれば熱心なように見えて、そこに自分のエネルギーを集中させてしまうのです。そして、そのエネルギー源が「自分自身」にあることに無意識に頼ってしまうのです。
 
神の御前に出るひと時。明日世界中で行われる礼拝や集会のすべてが、そのような機会となりますようにと心から願いつつ、備えをしたいと心から思わされました。2025年最初の主日が、そのような神の私たちに対するいつくしみがあふれますように。そのことを祈りつつ、新しい一日を過ごしてまいりたいと思います。

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