24/01/2025

2025.1.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨナ書2章9節
空しい偶像に頼る者たちは
慈しみの心を捨てている。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章3節
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して「偶像」とは何かについて、あらためて黙想したいと思いました。
 
空しい偶像とは、今日の旧約聖書であるヨナ書2章にある言葉です。私たちはどうしても偶像と言えば、神や仏などの像ばかりをとらえてしまうかもしれませんが、私は何も目に見えるものばかりが偶像なのではなく、むしろ「目に見えない偶像」のほうがこの世の中には多く存在しているのではないかと思わされます。
 
そして、それを偶像ととらえるかどうかは、私たちの心がどこにあるのかということと多分に関係しているのだと思います。つまり、私たちの心の置場が神との信頼関係のもとになければ、どんなものでも「偶像」になるということを私たちは意識する必要があるのだと思います。人に対しても、ものに対しても、そして自分自身に対しても、偶像の根となるものはいくらでも存在するのでしょう。その根拠がイエス・キリストに無い限りです。
 
だからこそ、ヨナ書で書かれている「空しい偶像に頼る者は慈しみの心を捨てている」という言葉の「慈しみの心」とは、まさに神が私たちに向けておられる慈愛の心に他ならないのであって、私たちを信頼して慈しんでくださる神の心を、私たちは無意識のうちに捨ててしまうことだってあるのだということを、私たちは自らの心に問いながら神の心に聴く思いというものを大切にしたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉に出てくる「利己心」「虚栄心」という言葉に注目したいと思いました。自分を良く見せるために見栄を張り、自分だけが良いものを得ようとする態度こそ、自分自身を偶像化していることなのだと私は受け止めました。私たちの言動の根拠というものについて、使徒パウロがフィリピにあるクリスチャンたちに宛てた手紙のなかに綴られた言葉です、私たちは自分自身を良く見せようと努力するのではなく、あえて努力という言葉を使うならば、神の慈しみによって生きることに思いを注ぐならば、神が私たちの姿というものを良いものとしてくださるというところに、心を寄せて今日も生きていきたいと思わされました。
 
どうか今日の一日も、神の慈しみに生きる幸いを味わう者となることができますように。お祈りします。

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