くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編108編2節
神よ、私の心は確かです。
私は歌い、ほめたたえよう。
私の栄光よ
目覚めよ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録3章8節
脚の不自由な男は躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今朝は台北市内のホテルで朝を迎えています。日本より1時間遅れているのと、随分西側になりますのでまだ空は真っ暗です(今日本時間の7時です)。今のところ生徒たちに何の問題もなく研修のときをもっています。本当に感謝です。今日もすてきな一日となりますようにと祈りました。
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、神の慈愛にふれた人の態度について記されたものです。今日の詩編の言葉はとても興味深いものがあります。「私の心は確かです」という言葉は、気が確かであるとかという意味というよりは、神によって守られて、整えられている状態のことを指しています。神のいつくしみに触れるときに、私たちの心もやわらいで神の価値観に生きることに喜びを抱くことができるというのです。そのときにはじめて、神への賛美が賛美として美しいハーモニーを醸し出すのだというのが、詩編の歌い手にこめられた思いなのです。
神の愛が注がれたときに、私は自分自身で「栄光」をつくり出さなくても良いのです。神の栄光の反射板として生きることができるからです。それは、私たちの素性そのもののことを言っているのではありません。素性がたとえ見劣りするようなことがあったとしても、神の栄光が輝く時に、それは私自身の栄光として光り輝くのです。ですから、神のそのような栄光によって私が目覚め、私自身もまた神によって与えられた栄光によって、快活に生きることができるというのが、今日の詩編の言葉から受け止めたメッセージでした。
生まれつき足の不自由な男が神殿にある「美しの門」の前で座っていたとき、使徒であるペトロとヨハネが救い主イエスのお名前によって癒しを与えられました。見た目には物乞いをしているわけですから決して立派というふうには見えないでしょう。しかし、明らかにこの男性は神の栄光をいただいて、脚が癒されただけではなく躍り、賛美をして、神殿に入って神を礼拝したのでした。このような男の姿こそ、神の慈愛によって整えられた姿であると言って良いのだと私は思うのです。
今日も私たち一人ひとりが神の価値観によって整えられて、いつくしみを存分にいただきつつ生きることができますように。お祈りします。
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