25/01/2025

2025.1.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記30章9節
主はあなたの先祖たちを喜びとされたように、あなたに良いものを与えて再びあなたを喜びとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68~69節
「イスラエルの神である主は
 ほめたたえられますように。
 主はその民を訪れて、これを贖い
 我らのために救いの角を
 僕ダビデの家に起こされた。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も今日で最終日となりました。今週の日々を振り返りながら、明日への備えをすることに喜べる、そんな一日でありたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「喜び」という言葉について考えたいと思いました。特に神と私とのあいだにある喜びについてです。
 
私たちは「神を喜ばせる」という言葉を、日々の信仰生活や祈りの言葉などで表現することがあります。もちろん、私たちが神を喜ばせるべく日々の生活を整えることそのものに、何も悪いことではなく、むしろ素敵なことであると私は思います。ただ、私たちが神を喜ばせるという言葉に「落とし穴」というものがあるのではないかとも私は思うのです。
 
つまり、神を喜ばせるという私たちの「意識や行為」は、ともすると「自己努力」というものに注力してしまい、そのことに重きをおいてしまうことするあると私は考えています。私たちはその「前提」にあるものに心を寄せ、そのことを自分自身の土台と出来ればよいのではないかと思うのです。
 
では、その前提とは何か。それは「神が私たちに喜びを与えてくださる」ということです。神は徹底的に、ご自分が愛情をこめてつくられ、ご自分の言葉と行いをもって私たちを養ってくださるときに、そこには「神の喜び」があるということです。私たちはその喜びに生かされているという前提があってこそ、その喜びに対して喜びをもって応えることがはじめて可能とさせられるのではないかと思うのです。
 
私たちは神を喜ばせるということを口にしながら、神が与えてくださる喜びに無頓着なばかり、目の前にある様々な出来事に不平不満をもらして、不快な姿というものをさらけ出していないだろうかと考えることがあります。もちろん、不平や不満が自分自身を顧みる良いきっかけになれば、不平や不満というものが絶対的に悪であるとは限らないと思います。しかし、そのときに私たちは神が与えてくださる喜びというものについて、じっくりと考えることができているだろうか。今日の聖書の言葉は、そんなことを振り返させられるものとして私の心に響いたのです。
 
主はあなたの先祖たちを喜びとされたように、あなたに良いものを与えて再びあなたを喜びとされる。エジプトから脱出してイスラエルの民とともに歩んだ指導者モーセは、40年にわたる長旅を終えるにあたって、その間にあったさまざまな不平不満を想い起こしながらも、ここまでこれたのは神の喜びがあったからこそだと、自分自身を振り返ることができたのでしょう。神が良いものを与えることで喜びを私たちに示された。この言葉こそ、私たちにとって必要な言葉なのだと受け止めました。
 
私たちはこの一週間を振り返ることができるでしょう。必ずしも順風満帆な七日間だったとは限らないでしょう。いやなこともあったかもしれません。しかし、そんな私たちとともに神の喜びがあったのだと思えるような黙想というものを、今日の一日の歩みのなかで感じ取ることができれば、どれだけ明日からの新しい一週間の日々を歩むことができるかということを、希望と喜びをもって迎えたいと思ったのです。
 
どうか皆さんにとっての今日の一日が、そのような神の喜びに包まれますように。その結果、神の喜びに喜びをもって応答とすることが出来ますように。お祈りします。

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