21/01/2025

2025.1.21(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編116節
私が生きていけるように
あなたの仰せに従って私を支えてください。
自分の望みについて
私が恥じ入ることがないようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章24節
よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。新しい朝から始まる一日が、皆さんにとって神の守りと平和を感じられる時でありますように。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、私は「神に従うことの幸い」というテーマが与えられていると私は受け止めました。そのことについて黙想したいと思います。
 
神に従うということについて改めて考えてみますと、そもそも神に従うとは一体どういうことなのだろうか?というところまで振り返ることができるわけです。普段従うという言葉を聞けば、誰かの言うことを聞いてその通りにすることを意味しますから、神の言われること、命じられたことの通りに生きることが「神に従う」ことなのだろうというのは、誰でも理解できるのではないかと思います。
 
しかし、では神の言われることや命じられたこととは一体何なのか。聖書の言葉を通してそれを受け取る私たちの受け取り方で、実に多様な受け止め方があるということに気づかされます。ある人にとっては他の人の受け取り方が生ぬるいと感じたり、逆にとてつもなく厳しく思えることもあるでしょう。
 
昨今のインターネットの普及によって、私たちは実に様々な人による聖書の解釈や理解というものに触れることができます。かく言う私も日々の聖書黙想をインターネットに載せて皆さんに読んでいただいているわけですが、これも多様な受け止め方のひとつであると私は思うわけです。
 
ですので、私が聖書の言葉を黙想するなかで導き出された内容が、様々な意見や賛否があるのはある意味、当然のこととも言えるでしょう。しかし、そのような多種多様な意見があるなかで、本当に大切にされなければいけないのは、その最終目標が「神に従う生活」にあるということなのだと。ここを逃すわけにはいかないのです。
 
私たちは神が私たち一人ひとりに対して、ご自分の言葉と聖霊の助けによって働きかけてくださる誠実さをいただいています。ですから、私たちも神に従うことにおいて、神の先行的な真心に対して、誠実さをもって応えていくことが、やはり大切なのだと思うのです。
 
その結果、見た目には様々な違いが生じるでしょうし、受け止め方の違いというものが批判の材料になることもあるでしょう。しかし、忘れていけないのは、最終的な評価は私たちがするのではないということです。私たちの神が私たち一人ひとりの姿というものを、その心底までご覧になられたうえで判断されるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節には、このように書かれていることにとても興味深さを覚えました。

自分の望みについて
私が恥じ入ることがないようにしてください。

結局のところ、神に従っていることが最終的に喜びに導かれるのか、それとも恥を被ることになるのかは、いかに私たちが神に養われているかというところにすべてがかかっているような気がしてなりません。だからこそ、神の御言葉に聴き祈るという、一見すると地味ですぐに飽きてしまうようなことであっても、そこには神の存在が私たちとともおられるということへの幸いを味わうための、道路標識のような存在となっていくのだと私は受け止めたいのです。
 
今日も神様の言葉が与えられました。この言葉を握り締めて、神に従う幸いを味わうことができますように。皆さんのために、また私自身のためにお祈りします。

 

 

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