くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書2章11節
人間の高ぶる目は低くされ
人の高慢は卑しめられる。
その日には、主のみが高くされる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙1章27~29節
神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けすることができませんでした。無事に帰国することができました。無病息災で8日間の研修旅行のときを過ごすことができたのは、本当にありがたい限りでした。安全をお祈りくださったみなさんには、心から感謝申し上げます。生徒たちからは、文集にするための感想文が寄せられていて、ひとつひとつ読ませてもらうなかで、この研修旅行で確かに良いものを得てくれたことを実感しました。年若い人たちが良いものをたくさん吸収しながら歩んでくれることは、本当に頼もしくまた応援したいとあらためて願わされた次第です。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「高ぶる」という言葉であったと私は受け止めました。私たちの態度というものがどのようなものなのかを確かめるときに、それは神の御前に立つということを大前提にすることの大切さというものを、今日の聖句は教えているのだと思わされます。
これは私自身のことですが、自分の思い描いていることがその通りに実現すると、それは誰のおかげでそうなったのかということをあらためて考えさせられます。それは自分自身の能力ゆえなのか、それともまわりの環境に恵まれていたからなのか、もちろんそういうこともあるかもしれませんが、それは「神のプロデュース」によるものであるという自覚というものを常に大切にしたいと、今日の聖書の言葉から実感させられます。神がご自分の知恵と力というものを私たちに与え、助けてくださるからこそ、私たちは神の価値観によって動くことが可能とさせられるのだということなのです。
その時に、神の助けというものをそっちのけにしてしまうならば、自分自身を過信してしまうあまり、高ぶりの心が芽生えていくのだというのです。今日の新約聖書の言葉である第一コリント書の1章では、神が選ばれたのはそのような過信に満ちた人物ではなく、世のなかでは見向きもしないような人々が神の助けによって生きることができるように選んだと使徒パウロは記しました。そして、ご自分の言葉と聖霊様の助けによって養い続けることにこそ、神を信じる大きな意味というものがあるのだということを伝えたかったのです。折しもパウロが話題にしているのは「自分が一番正しい」ということを言い争いの種にしているコリント教会の現状と人々に対してでした。
私は、先の研修旅行を通じて、すべてを安全のうちに導いてくださった神に心からの感謝をささげたいと思わされました。そして、これからも神が私たちの行くべき道というものを指し示してくださる時に、私たちはいかにそれを謙虚な思いをもって受け止めることができるか、今日の聖句が私に教えてくれたのはそんなことであったと黙想させられました。
今日の一日もまた、神の助けが私たちとともに豊かにありますように。お祈りします。
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