くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編37節
空しいものを見ないよう、私の目をそらせてください。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章34節
目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、体も暗い。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は仙台で行われる礼拝のために準備しなければならないことを台湾から行っていましたので、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。申し訳ありません。高校生の台湾研修旅行も、4つの交流事業のすべてを終えることができました。ここまで神が安全を与え、すべてを祝福してくださったことを感謝するばかりです。今日は最終日ですので観光を楽しみます。明日早朝に空港へ行き、帰路につきます。最後まで祈りつつその時を過ごしたいと思います。皆さんのお祈りに心から感謝申し上げます。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句をつなげるキーワードは「目」であると私は受け止めました。私にとって今日の聖句は、11月に左眼が出血した身ですので、とても切実なものを感じさせられる聖句でした。目が見えるというのがいかにありがたいことであるかを実感させられる機会となりました。治療の甲斐があって左眼は前の状態に完全に戻るわけではありませんが、生活に支障のないところまで視力が戻るようになりました。今週からレーザー治療が約2か月にわたって行われますが、この治療を大切にしたいと思わされている次第です。
今日の旧約聖書が示している嘆願の言葉は、空しいものを見ないようにするために、神が私の視線をそこからそらせてくださいというものです。この言葉をどのように理解すれば良いのでしょうか。自分自身を空しくさせてしまうようなことは、生きていればいくらでもあることを私たちはよく知っていると思います。ですから、そういうものから目をそらして生きるというのは、とても難しいことなのかもしれません。
しかし、そういう環境にあったとしても、私たちは「どこを」見据えて与えられる人生の日々を歩むことができるのだろうかということは、やはり大切なのだと私は思います。今日のローズンゲンには記されていませんが、今日のローズンゲンである詩編119編37節の続く後半部分には「あなたの道で私を生かしてください」とあります。つまり、私たちが見据えることができるのは、神が舗装してくださる道であるというのです。そこに何のてらいもなく歩むことが許されているというのは、実はすごいことなのだとあらためて感じさせられるのです。
昨日の礼拝は、台北市内にある台湾基督長老教会の「国際日語教会」へ高校生たちと行きました。かつて「日本人」として生きたことのあった台湾人の方々が、日本に対する深い愛情ゆえに、彼らの手によって建てた教会です。以後数十年にわたって日本語による宣教活動がおこなわれています。そのなかで、うすきみどり牧師によって取り次がれた礼拝メッセージの聖書箇所は、コヘレトの言葉3章の「すべてが空しい」という箇所だったのです。
メッセージのなかで、空しいからこそ神が見えるという内容のお話を高校生に向けてわかりやすく話してくださっていました。今回研修旅行に参加した高校生のほとんどは、生まれて初めて教会での礼拝参加でした。最初、慣れない状況のなかで飽きないだろうかと思っていたのは杞憂であったことに気付かされます。彼らは賛美の歌い、祈りの最後にはアーメンとはっきりとした声で応答し、メッセージ中もとてもニコニコしていたというのはうすき牧師の弁でした(私は高校生の後ろに座っていたので、前の状況はわからなかったのです)。
まさに、空しいなかにあっても神を見る眼は澄んでいたことを思わせるひと時であったと私は感じました。私の杞憂を大いに超えて働く神の御業というものを実感することがあらためてできたことに、心から感謝するばかりでした。目が澄んでいれば心は明るい。イエスの言葉が今日の新約聖書の言葉でした。まさに、神が私たちの眼力を澄ませてくださる。そんなことを心の希望にして、新しい一日を歩むことができますように。心からお祈りします。
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