くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章11節
主の諭しを拒むな。主の懲らしめをいとうな。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章22節
イエスは権威ある者のようにお教えになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
おととい昨日と、ローズンゲン黙想をお届けすることができず申し訳ありませんでした。しばらく仙台を留守にしますので、そのための準備に朝から動いておりました。今日から1週間、福島県の高校生と一緒に台湾へ研修旅行へ出かけます。私は引率者のひとりとして参加しますが、未来ある高校生に少しでも良いものを得てもらいたいとの思いで参加したいと思います。教会やキリスト教主義学校などを訪問する予定です。旅行中の無事を祈りつつ。
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を通して、私自身がこれら生徒たちとともに過ごすなかで自分自身の指針となる聖書の言葉が与えられたような気がいたしました。主の諭しを拒むな。主の諭しとは何でしょうか。それは神の愛に生きるということであると私は受け止めました。つまり、神が私のことを大切に扱ってくださっている。神に愛され守られた者であるという自覚は、おのずと他者に同じベクトルをもって向くものだということをあらためて感じたのです。主の懲らしめというものは、いわゆる暴力的にかつ傷跡を残すようなものとは違うと私は考えています。あくまで慈愛の念をもって、しかし拒んだり嫌がる気持ちを与えるのではなく、じっくりと忍耐をもって接していくことの大切さというものを、今日の旧約聖書である箴言の言葉は私に与えているのだと思います。
その模範となられたのが救い主イエスでした。イエスはもちろん神の子ですから、神と違った考え方を人々には示しませんでした。あくまで「神の権威」によって教えたと今日の新約聖書の言葉にあります。神の権威を傘にして好き勝手なことを話したのではありません。あくまで神が私たちに願っておられることをありのままに語られたのでした。その根本となるのが私たちへの愛をともなった諭しであり、私たちを決して無用に傷つけない懲らしめなのだと。そのような神によって生かされている私たちが、どのようにそのことを隣人に対して示していくかということを考えるときに、まさに襟の正される思いにあふれたのです。
今日も一日、神様が私たちをご自分の愛のうちに導いてくださいますように。皆さんの主にある平安と祝福を心からお祈りします。
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