03/01/2025

2025.1.3(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
民数記23章19節
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言ったことを、行わないことがあろうか。
告げたことを、成し遂げないことがあろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章24節
私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書の言葉である民数記23章の一節に眼がとまりました。「神は人の子ではないから悔いることはない?」と思ったのです。神だって悔やむことはあるだろうと思い浮かんだのが、創世記6章6節の言葉でした。
 
創世記6章6節
(神は)地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
 
これは、ノアの洪水のきっかけとなった神の思いについて記された箇所なのですが、そう思った理由は前の5節に記されています。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て」地上に人を造ったことを悔やんだということなのです。
 
ここで悔やむと日本語に訳されているもともとの言葉は「ナーカン(נָחַם)」というヘブライ語が用いられています。この言葉には悲しみや苦しみの際に起きる慈悲や慰めという思いが含まれたうえでの「悔やみ」という意味もあるのだそうです。
 
しかし、今日の民数記の言葉には「神は人の子ではないので悔やむことがない」と書かれているではありませんか。創世記6章と同じくナーカンというヘブライ語が用いられています。神は悔やむのか悔やまないのか。このことをもう少し突き詰めてみたいと思います。
 
今日の聖句である民数記では「人の子ではないから」と記されています。ここで言う人の子とは私たち人間のことを指しますが、そのことを踏まえて私は今日の旧約聖書の言葉をこのように解してみました。つまり、神は人間が悔やむような仕方で悔やむことはないのだ、という風にです。
 
これは私だけかもしれませんが、後悔する(悔やむ)というのは「後悔後に立たず」とあるように、取り返しのつかない修復不可能のような感情を呼び起こす時に使われることがしばしばあると思うのです。別な言い方をすれば、後悔した時に慰めや慈悲の感情など起きるのだろうか。もしあるとすれば「あの時にこうしてあげればよかった」と相手に申し訳なく思うときだろうと私は思ったのです(実際にナーカンという言葉には「申し訳なく思う」という意味も含まれているのだそうです)。
 
つまり慈悲や慰めをともなった悔やみであるかどうかということを考えたときに、神は人間が経験するような後悔をしない方である。必ずや人間に対する慰めをともないながら、ご自分が抱かれた当初の目的を明らかにする方なのだと思えば、今日の民数記の言葉と創世記の言葉は決して矛盾しないのではないかと思ったのです。
 
そのような神の思いを私たちがいかに受け取ることができるかということに、大きなカギがあると私はあらためて気づかされました。今日の新約聖書の言葉はイエスによる「山上の説教」の一節です。神の言葉を聞いて行う者は岩の上に建てた家に似ているというあのたとえの言葉です。岩の上に建てた家はどんな困難にも耐え抜いたが、砂地の上に建てた家は簡単に吹き飛ばされ流されて壊れてしまったというのです。
 
どうして困難に耐えることができたのか。それは神の慰めに満ちた悔やみの上に私たちが立たされているからだと私は思います。神の後悔は投げ捨てる方に向かわず、再生と希望の道へと私たちを進ませるための後悔だからであって、神はご自分の言葉と行いによって救い主であるイエスを私たちに与えてくださいました。そのことを胸にして生きるならば、私たちもまた後悔が後悔で終わるようなことがないのだと思いたいのです。
 
どうか今日の一日もまた、そのような神のもとに立たされていることが希望の源となりますように。平安を心からお祈りします。

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