30/11/2024

2024.11.30(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記6章5節
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙13章10節
愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も、そして今月も最終日を迎えました。教会の暦も今年最終日。明日からは主の御降誕を待ち望むアドヴェントがやってきます。そのような一日をどのように過ごすことができるか。今日のローズンゲンに示された聖句は「愛」が共通する言葉でした。あらためてそのことを黙想したいと思います。
 
昨日の黙想でも触れましたが、ある日律法の専門家がイエスに対して、律法のなかで最も重要な戒めは何ですかと尋ねた時、イエスは「神を愛し隣人を愛することである」と返答されました。それだけ愛という言葉が、聖書全体を貫く主要テーマであることが理解できるわけです。神と私たちの関係性、神を介する私たちの関係性のすべてを物語るものであると言っても間違いありません。
 
ただし、それはあくまで「神が私たちに示されている愛」のことを指します。自分の利益を差し置いてでも愛する者のために尽くされる愛のことです。自分自身の欲求を充足させるための愛でなければ、表面的に仲良くしていればそれで済むような愛でもありません。私たちが愛について考える時、また愛し合うということについて考える時、さて、今自分自身が考えている愛とはどのような種類のものなのだろうかということを考え、聖書の言葉に照らし合わせながら問い続けていきたいのです。
 
ですから、今日の聖書の言葉にもあるように、心と魂と力を尽くして私たちの神を愛するというのは、神がご自分の心と魂と力を尽くして私たちにご自分の道を指し示そうといていることへの私たちの応答なわけです。私たちのことを本当に大切に思ってくださる神が、真剣にご自分の言葉を差し出してくださっているのです。その言葉を受け取り、神の愛を理解するところにこそ、はじめて神が愛してくださっている私たちの隣人への接し方というものをも知ることができるのだと私は思うし、心から願いたいのです。
 
今日一日の歩みのなかで、そのような愛のかたちを示してくださる神が、私たちを守り、祝福してくださいますように。心からお祈りします。

29/11/2024

2024.11.29(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編14節
あらゆる富にも増して
あなたの定めの道を喜びとします。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章10~11節
私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神の戒めを喜ぶということ」であると私は受け止めました。そのことについて黙想を深めたいと思います。
 
神が与えられた戒めとはなにか。後に「最も重要な戒めとは何か」と律法学者から尋ねられたときに、イエスは「神を愛し隣人を愛すること」であると返答されました。そしてその愛とは、数ある愛のかたちのなかでも、自分の利益は差し置いても他のために尽くすという意味をもった「アガペー」であることを、イエスは自分自身の全生涯をかけてご自分の言動をもって指し示されました。
 
私たちが神を愛し隣人を愛するというのは、自らがアガペーの実践者であるのもさることながら、アガペーを抱かれて私たちにアガペーを注いでくださったイエスと、その父である神がおられることへの確認と感謝ゆえにできることなのだと私は思うのです。心から神を愛し隣人を愛することを難しくさせる要素はこの世にはごまんとありますし、私たちがその実践者となり得ないことも決して珍しいことではないのです。
 
それでも、私たちには十字架にかかり死なれ、そして復活された救い主イエスが、そのイエスとともに私たちを見守り続けてくださる神がともにおられる。だからこそ、私たちは最も重要な戒めというものを、生きるためになくてはならないものとして喜びの源とすることができるのだと、今日のふたつの聖句から感じとることができました。
 
私は昨晩、ここ1年ほどの間に起きていたことをいろいろと振り返っていました。そのなかには決して順風満帆とは言い難いことも数多くありましたし、それらの状況から逃げてしまいたいと思うことも数々ありました。しかし、それでもイエスがともにいてくださるじゃないか、私のことを大切にしてくださっているということを、聖書の言葉から聖霊様の助けから知らされ気づかされたときに、そこにはえもいわれぬ喜びというものがあふれてくるのです。大変なことがあればあるほど、神が私の前にアガペーをもって現れてくる。だからこそ感謝と喜びをもって今日も歩んで行けたんだと。
 
今日も一日がやってきました。どうか素敵な一日でありますように。皆さんのためにお祈りします。私もこれから左眼の再検査のために病院へ行ってまいります。どんな結果でも神の喜びで喜べる一日になりますことを祈りつつ臨みたいと思います。

28/11/2024

2024.11.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章6節
あなたがたは主の祭司と呼ばれ
私たちの神に仕える僕と言われる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一4章1節
こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘義の管理者と考えるべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は私個人の事情で黙想をお休みしましたが、今朝より再開したいと思います。どうぞよろしくお願いします。最初にお祈りくださっている私の左眼についてですが、日に日に見え方が改善しています。100のうち60くらいまで見えるようになりました。視界はぼんやりとではありますが、左眼が過剰に疲れることがなくなってきました。明日病院で精密検査がふたたび行われて、そこで今後の治療方針が決まってくるかと思います。祈りつつ臨みたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通の葉「仕える」という言葉でした。仕えるとは何か、そんなことを考えたいと思いました。仕えるという言葉には、仕えられる人とその人に仕える人との関係性をその意味として想像することができますが、仕える側の責任は主人を助けるということにあります。
 
では、主人の言うことさえ聞いていればそれで良いのかと言えば決してそういうことではなく、心から仕えるために、なぜ主人はそのような命令や指示を与えているのだろうかということに対する深い理解も求められているのだと私は思うのです。そもそも助けるという言葉には、機械的に物事を行う以上のことが含まれていると私は思うのです。
 
実際に、今日の「仕える」という言葉は「助手となる」という意味も含まれているのはとても興味深いことです。私たちが神の助手となるように仕えているのだろうか、それだけ神の思いや願いというものをどれだけ理解しているだろうか、そんなことをいろいろ問わされるのです。もちろん、完璧に神の助手となることなどできません。しかし、神が私たちを管理者としてくださるという今日の新約聖書の言葉に信頼して、神に助けられながら私たちも神のお働きを支え、助けるということに心を寄せたいと思いたいのです。
 
そのような神との関係性が、今日も私たちの営みを豊かにしてくださいますように。主の守りと祝福を心よりお祈りします。

26/11/2024

2024.11.26(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章15節
イスラエルの神、救い主よ
まことに、あなたはご自分を隠される神。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章8~9節
この恵みは、すべての聖なる者のうちで最も小さな者である私に与えられました。キリストの計り知れない富を異邦人に告げ知らせ、すべてのものを造られた神の内に永遠の昔から隠されていた秘義の計画がどのようなものであるかを、すべての人に明らかにするためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「隠されたもの=秘儀」であると私は受け止めました。そのことについて黙想を深めたいと思います。
 
この秘儀という言葉、新約聖書の原語では「ミュステリオン(μυστήριον)」という単語が用いらています。英語の「ミステリー」の語源となった言葉です。つまり、神のご計画はまさにミステリーであるということを、このミュステリオンという言葉は表していると言えるでしょう。
 
ミステリーとは、不思議な、不可解なという意味があります。人間の知識でははかり知ることのできない物事、それがミステリーと言えるでしょう。そして、この言葉が「神秘」と訳されることもあるように、いわゆる神の領域でなされることをも示していることを考えれば、私たちの限界ある常識の世界ではないところに、私たちの神が存分に働かれるスペースがあるということをも示しているのだと私は思います。
 
神は、ご自分の計画が明らかにされるそのときまで、それを隠しておられる方です。しかし、隠しまくって私たちにまったく知らせる訳でもありません。そのヒントとなる出来事を、神は「黙示」のかたちをもって預言者を通して与え続けて来られました。私たちはそれを「神の言葉」もって知ることが大いに許されているのです。
 
なぜ私たちが神の言葉をいただくことが大切なのかと言えば、神の計画の全容を知らなかったとしても、その周辺にある数々の言葉を通して、おぼろげながらでもそれをイメージすることができるからです。このイメージに欠かせないのは、神の言葉とともに働く聖霊の助けと言えるでしょう。聖霊そのものも具体的に目に見えるわけではありません。しかし、それは事象として私たちに示されるときに、聖霊のもたらす果実として御言葉の隠された意味というものを知ることができるのでしょう。
 
ですから、今日も私の一日に与えられるミステリーのなかで、そこに豊かに働いてくださる神がともにおられることを、御言葉と聖霊の両輪によって知らされて、その両輪をもって歩んで行きたいと願わされました。そのようなところにこそ、私たちに与えられたキリストの富があふれんばかりにありますように。皆さんの一日がそのような時でありますようにお祈りします。

25/11/2024

2024.11.25(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章17節
主があなたを道で導かれたときにあなたが、あなたの神である主を捨てたのでこのことを身に招いたのではないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章13節
きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は昨日のローズンゲンの延長線上に語られているメッセージであると受け止めました。昨日に引き続いて厳しさを感じる神の言葉であると感じたのです。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して与えられたテーマは「自由の用い方」であると私は受け止めました。神が自由を与えてくださる御方であるというのは、天地万物の管理者として神から委ねられたその時から、何も変わることのない神の態度であると私は思っています。つまり「治める者(管理者)」としての務めと責任というものが、自由という言葉と抜き差しならない関係のなかにあることを思わせられるのです。
 
自然界で言うならば、私たちは資源というものを有効に用いることが許されています。だからと言って、私利私欲のためにその資源を乱用して環境を破壊するような方向で進んでいくならば、必ずどこかで災いを被ることになるということを私たちは歴史のなかで、そして今現在経験していることとして実感しているのではないでしょうか。だからこそ、管理する責任というものがつねに問われているのだと私は思います。例を挙げれば、原子力発電というものは安価かつクリーンな電力を供給をする絶好の方法として用いられていますが、一旦事故が起きれば放射能の拡散によって多くに影響が生じることを考えれば、それを利用し、また管理する側の務めと責任というものは、決してないがしろにできないのです。
 
それと同じように、私たちの生き方においても、自由の用い方というものは大いに問われているのだと思います。自由だからと言って、なんでもかんでも自分のしたいようにすれば良いなどということはありません。私の自由を謳歌すればするほど、その自由のもとに犠牲を払わなければならない人がいることだって十分にあるのです。
 
私たちが味わうことのできる自由は、私自身の独占物ではありません。あくまで神が与えてくださった贈り物であることを、私たちはいかに受け入れることができるかということが大切なのだと思います。神が与えてくださったところには、神の思いが十分に詰まっているのです。だからこそ、私たちに自由を贈ってくださった方の思いを尋ね求め、それを理解し、しっかり受け入れ、それを大切に管理・マネジメントしていくことが、私たちに与えられた務めなのでしょう。
 
神を捨てるのも、我が道を闊歩するのも、神が与えた自由のなかで生かされている私たちの判断と決断です。しかし、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、その結果イスラエルの民たちに災いを招いたのは彼らの決断の結果であって、神にその責任を押し付けることはできないのです。だからこそ、神の思いというものを今日も聖書の言葉から、聖霊様の助けをいただきながら、歩んでいきたいと願わされました。自由を心から喜び楽しむためにです。
 
今日も、神様の守りと祝福が、皆さまとともにありますように。お祈りします。

24/11/2024

2024.11.24(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書6章3節
わが民よ
私はあなたに何をしたというのか。
何をもって、あなたを疲れさせたのか。
私に答えよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙2章4節
神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これから訪れる七日間の日々、私たちはどのようにキリストとともに歩むことができるのでしょうか。そんなことを考えるうえで、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉はとても心に響き、また身の引き締まるような思いにさせられました。そのことをつづりたいと思います。
 
自分のことを棚に上げて、神に責任を押し付けようとする人間の態度が、今日の聖書の言葉を通して語られています。私たちの生活がうまくいかないのも、私たちが日々の暮らしのなかで生きづらさを感じるのも、人間関係にほころびが出るのも、人と人とが憎しみあい、刃を向け殺し合うのも、神がおられるのであれば、どうして平和にしてくださないのか。それも全部神のせいだと私たちはつぶやき続ける。このことは、昔も今も変わらない人間の不平の姿なのだと思わされます。
 
しかし、本当に神の責任なのでしょうか。そうではありません。私たちが神を忘れてしまっているからなのです。こんなに信じているのにですか?と問うかもしれません。そうです。神を信じている「ふり」を、私たちはしているだけなのかもしれません。私たち自身が神を信じていると言いながら、その神を利用している自分自身に気付かないのです。だから、うまくいかなれば、私好みにつくりあげた神に不平をぶつけているだけに過ぎないのではないでしょうか。私好みにつくりあげた神、結局は私自身が神となっていることに、私たちは気付けていない。これは善悪と知識の木から実を取って食べた、あのアダムとエバに相通じることなのだと私は思うのです。「神のようになれる」ことを受け入れて、あの木の実を食べたようにです。
 
神のもとに生かされている私たち。今日もその私たちが一つどころに集まって主が準備してくださった礼拝をささげようとしています。しかし、あえて自分に問いかけるとするならば、私たちは自分が出席しようとしている礼拝を「主が準備してくださった、ご自分の御言葉をもって、ご自分の慈しみを示そうとしておられる神に、私たちはどれだけ自分の思いや心を傾けようとしているだろうか」と、私自身問われているのだなとあらためて思わされるのです。教会における人間同士の交わりを思うときに、私たちは相手の顔色ばかりながめてはいないだろうか、もしくは神が慈愛をこめて取り扱ってくださる隣人の大切なものを傍若無人に踏みにじっていはいないだろうか。いずれにせよ、神をないがしろにして振る舞い、そこに亀裂が生じれば、簡単に人のせいにし、ついには「効き目のない神」に不満をぶつけてしまうのではないかと。
 
今日のローズンゲンは、とても厳しい神のメッセージであると私は受け止めました。しかし、その厳しさの背後には、神の慈しみというものがあふれている。この奥底にある慈しみに私たちが気づかされたときに、方向転換(悔い改め)をして、神が与えてくださる新しい思いによって、神とともに生きることが許されるのだと。七日の旅路を再び、主とともに歩むことができるのだと。これぞ幸いなのだと思えてなりませんし、そうでありたいと心から願わされるのです。
 
どうぞ皆さんの新しい一週間も、そのような気づきと幸いにあふれたものとなりますように。心からお祈りします。

23/11/2024

2024.11.23(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記18章10,12節
あなたの中に、占い師、卜占する者、まじない師、呪術師、これらのことを行う者をすべて、主は忌み嫌われる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章34節
正気になって、正しい生活を送りなさい。神について無知な人々がいるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路がどのようなものであったか想い起こしまた振り返りながら、今日のローズンゲンに示された御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書である申命記18章の箇所ですが、いわゆる占いやまじないのたぐいを神である主ヤハウェは忌み嫌われるということが記されています。イスラエルの民に対して、指導者モーセが語った言葉でした。なぜモーセはこのようなことを言われたのでしょうか。
 
占いやまじないには悪霊の力がともなっている。そんなことを耳にすることがあります。そのような魔力というものに自らが引きずられることのないように、占いとかまじないというものを避けなさいということを私たちに伝えているのだろうか。そんなことを考えました。確かにその通りかもしれません。しかし、悪魔の力を恐れてそのようなものを避けるという考え方より、もっとポジティヴなとらえ方はないのだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
つまり究極的に言えば、私たちの旅路をしっかりと支え、守り、導かれる方がおられる以上、私たちが自分たちの将来を占ってもらったり、まじないをしてもらう必要はないのだと思うのです。私たちの旅路に道を示してくださるのが神である主ヤハウェである、ということなのです。悪魔を恐れる以上に、神のなさることに畏敬の思いを抱きつつ、私たちの将来にご自分の言葉と聖霊の力をもって確かに導いてくださる方が、私たちの日々を幸いなものとしてくださるということです。
 
将来に対して占ってもらおうとか、なにかまじないをすることで良いものにしてもらおうというのは、大体は私たちの「不安」がそうさせているのでしょう。そういう不安が、神御自身をぼやけさせ、かすめさせ、見えにくくさせているのかもしれません。あえて悪魔や悪霊という言葉を用いるならば、そういう不安を悪魔は利用して、神から私たちを引き離そうと頑張っているのかもしれません(悪魔サタンという名には「引離す者」という意味があります)。
 
しかし私たちが忘れてはならないのは、悪魔も悪霊もそもそもは神によってつくられた被造物であるということです。それが堕落してしまった結果、悪魔や悪霊となってしまったのです。つまり、悪魔や悪霊というものが、神に勝った存在では決してないということなのです。ですから、私たちは悪魔や悪霊に恐怖を抱き続けたり、いやに強調することによって、かえって神のみ業というものに関心が寄せることが難しくなってしまうのではないか、私はそうも思ったりしています。
 
今日の新約聖書の言葉には「正気になって」と書かれています。神が私たちに今日も歩むための道を与えてくださるということへの意識は、冷静かつ正気な思いで神とともに歩むことへとつながっていくのだろうと思います。そんな思いとともに、一週間の最終日を歩んでまいりたいと思います。どうぞ皆さんの一日にも、神の守りと祝福がともにありますように。お祈りします。

22/11/2024

2024.11.22(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編86編11節
主よ、あなたの道を示してください。
私はあなたのまことの内を歩みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章32節
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「まこと/真実」です。今日は、この言葉について黙想したいと思います。
 
旧約聖書における「まこと」は、原語であるヘブライ語では「エメト(אֱמֶת)」という語が、新約聖書における「真理」は、原語であるギリシア語では「アレテイア(ἀλήθεια)」が用いられています。いずれも同じ意味を示している言葉です。ちなみに、エメトは信頼(信仰の本質)に対する共感を表す言葉として用いられる「アーメン(その通りです!)」と同じ語源を持っているとも言われています。つまり「まこと/真実」という言葉は、神がご自分のすべてをもって、私たちに信仰の本質をもって本物の信頼というものを示している、そのような意味が込められているということが分かります。
 
私たちが人生の道程を歩もうとする時に、それが神とともに歩みたいと心から願うときに、それは私たちが「こういう歩み方をすれば良いだろう」と個人的に編み出して歩むものではなく、あくまで神が私たちに道を示し、一緒に歩むことができるように提案してくださっているということなのです。なぜ、そのような提案を私たちは心から安心して受け入れられるかというと、十二分に神が信頼に足る御方だからです。ちなみに「エメト」という言葉には、安心感という意味も含まれています。まこと/真実という言葉には、私たちが安心して神とともにいることができるという意味も含まれているのです。
 
このことが新約聖書のアレテイアという言葉に継承されているわけですが、では、ここで言う真理とは何を指しているのかと言えば、それは救い主イエスに他なりません。つまり、子なる神であるイエスご自身が、エメトという言葉を忠実にその人生で私たちに示されたことが真理なのであって、神のまことの体現者であったということなのです。この真理であるイエスご自身が私たちに今日歩む道を指し示されることで、私たちは本当の意味で神が与えてくださる自由を喜び、その自由のうちを歩むことができるということなのです。
 
たとえ現実の暮らしのなかで、自由を感じられないということがあったとしても、それでも神の信実が私たちに安心感を与えていくのだと。このことが私たちの今日生きる柱となることができますように、聖霊様の助けをいただきながら歩みたいと心から願わされました。不自由の中だからこそ、神が与える自由に喜びたいのです!今日の一日に、神のまことが与えてくださる自由がともにありますように。お祈りします。

21/11/2024

2024.11.21(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章10節
明かりを持たずに闇を歩くときでも
主の名に信頼し、自分の神を支えとする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章8節
闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝います。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「闇のなかに輝く光はどこにあるのか」というテーマであると私は受け止めました。そのことについて、黙想したいと思います。
 
闇のなかに輝く光というテーマは、聖書全体を代表するテーマであると言っても言い過ぎでないと私は思います。天地創造の時に、神が「光あれ!」という言葉とともに、闇に光を投じられることによって、すべてが開始されました。その時から、神は闇を闇のままにはしておかれない。必ず光を当てさせてくださる御方であることを、私たちは心の希望として神とともに歩む幸いというものが与えられたと言って良いのだと思うからです。
 
今日の旧約聖書の言葉にもあるように、私たちは「主の名」に信頼することで、たとえ闇のなかを歩かなければならなかったとしても、神である主ヤハウェ御自身を光に抱いて歩むことができるのだと、イザヤの預言の言葉は私たちに示しているのです。
 
ここで言う主とは、あるじという意味でとらえるのではなく、あくまで「ヤハウェ(YHWH)」という固有名詞のことを指しているのだということを、私たちはしっかりと心に留めておく必要があるのだと私は強く思います。「私はいる」という意味のお名前なのです。私はあなたがたとともにいる。このことが、闇のなかを歩こうとも恐れることはないのだという、強力な根拠となるのです。
 
信仰の先達たちは「主の名をみだりに用いてはならない」という十戒の言葉を極端に解釈することによって、ヤハウェというお名前自体を用いることを禁じて、代わりに「主(アドナイ)」という言葉に代えたという歴史があります。ですから、ヤハウェという固有のお名前に込められた意味というものを、私たちの目に見えにくくさせてしまったのではないかと思うのです。
 
かつて、文語訳聖書という聖書がありましたが、そこには「ヱホバ」というお名前が記されていました。主と書くよりは固有名詞がそうであるという認識が高まるのだと私は思います(現在では、エホバという発音自体が間違いであるというのが定説となりましたので、使われることがほぼ無くなっています)。
 
しかし、大切なのはその固有名詞にどのような意味があって、それが私たちにどのような影響を及ぼすのかということに対する深い理解です。ただ名前だけを使っていれば良いという話ではありません。そのような動機で名前だけを連呼しているのであれば、それこそ神の名をみだりに用いていることになるのかもしれません。余談ですが、私がかつてエホバの証人だったときに、エホバという神の名前を使い、呼ぶことは常に教えられていたけれど、神の名前の意味について詳しく教えられたり、深く考えるという機会はほぼありませんでした。
 
だからこそ、主の名を信頼するという今日のような御言葉に出会った時に、その意味というものを噛みしめ、深め、それが今の私にどのような幸いや喜びをもたらすのかということを、じっくりと黙想する機会が与えられているのだと思うのです。こういう営みのなかで、必ず神は、闇に光をあててくださるのだと私は受け止めたいと思いました。左眼が見えない今だからこそ、光を射しこんでくださる神がともにおられるということだけで、どれだけ慰めになるかということを、今日も確かめながら歩んでいきたいのです。
 
どうぞ、今日の一日に神である主ヤハウェの光を浴びる幸いに包まれますように。心からお祈りします。

20/11/2024

2024.11.20(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章13節
主は恵みに満ち、憐れみ深く
怒るに遅く、慈しみに富み
災いを下そうとしても、思い直される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書13章8~9節
(ぶどう園の主人に)園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年(いちじくの)実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が感じた第一印象は「神は忍耐強く待っておられる方である」ということでした。何を待っておられるかというと、私たちの「出来の悪さ」に対して、忍耐強く待っておられるということです。
 
今日の新約聖書の言葉であるルカによる福音書13章の言葉は、イエスによって語られたたとえ話です。ここで語られているのは、ぶどう園のなかに植えられたいちじくの木です。どうしてぶどう園にいちじくの木が植えられるのだろうとも思うのですが、そこには大きな意味があるようです。当時、ぶどう園に他の実生の木を植えることは、決してめずらしいことではなかったようです。ただ、いちじくの木は根を広く張ることから、もし実がなることがなければ、切り倒して他の実生の木に植え替えるということがあったようなのです。
 
イエスによって語られたたとえ話は、なかなか実のならないいちじくの木に対して、ぶどう園の管理者が持ち主に対して、いろいろ世話をしてみますので、切り倒すのをもう少し待ってくださいとお願いしているシーンが描かれています。もし、来年実がならなければ、その時は切り倒してくださいと、管理者は主人に願い出たのです。これは何を意味しているのだろうか。絶対に切り倒さないでくださいと管理者が願っているわけでもありません。だめならば切り倒すのはしょうがないことだ。しかし、実がなることを最後まであきらめない管理者の姿が描かれていることも事実です。
 
決してあきらめず、じっくり忍耐しながら、実がなるのを待ち続けるというのは、本当に骨の折れることかもしれません。しかし、私たちの神はそのようにして、私たちの心のうちに実を結ぶことを、じっと待っておられる方なのだと私は受け止めたいと思いました。なによりも、私たちの神はそうやって、ご自分の民と呼んでくださる私たちが神の民としてたとえふさわしい歩みができなかったとしても、何度も何度も失敗を繰り返したとしても、最後の最後まで待っていてくださるのだと。私たちが神の助けによって神とともにある幸いを自分自身の生き方とするまで、待っていてくださるのだと。
 
そういう神が私たちとともにいようとしてくださるゆえに、私たちは神とともに歩むということの幸いを真剣に受け止め、そのために神に変えさせてもらおうという気持ちへと自分自身の思いと心を、神である主ヤハウェに向けることができるのではないかと思うし、そのことを心から願い出たいと私は思うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉である、ヨエル書の一節はまさに、神がいかに忍耐にあふれた方なのだろうということを物語るものとなっています。この神の忍耐強さのおかげで、私たちは今日も神のことを理解するように導かれているのだと。決して自分のダメさ加減に開き直って何も変わらない自分自身を貫き通して悪ぶれるのではなく、神の忍耐が私たちを生かしていることを、聖書の言葉と聖霊様の助けによって確かめながら、今日の一日を歩んでまいりたいと思いました。
 
どうか皆さんの一日も、神とともに歩む幸いをかみしめることのできる時でありますように。心からお祈りいたします。

19/11/2024

2024.11.19(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編124編7節
私たちの魂は小鳥のように救い出された
仕掛けた者らの網から。
網は破れ、私たちは救い出された。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章18節
イエスの話を聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々も癒やされた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、新約聖書・ルカによる福音書の一節で語られているのは、あらゆる病がイエスによって癒されたということです。それは、今日の旧約聖書の言葉である詩編124編7節にもあるように、小鳥が破れた網から解放されたようなものであることを、私たちはイメージすることができるのです。
 
私の左眼が見えなくなってから1週間が経ちました。右眼が見えているから大丈夫!と自分自身に言い聞かせてはいますが、心の奥底には不安のようなものがあったことを否定できないできごとがありました。昨日観た夢がそうでした。友人の運転する車に乗っていたら、高速道路の入り口トンネルのところで、左側から女性の方が飛び出して体当たりをし、そのことでいら立ちを感じた私がいたという夢です。左側というのは、私の左眼のことを指していたのではないか。事故とはトラブルのことで、それにいら立ちを感じている私は不安を表しているのではないか。そのように感じたのでした。
 
そのようなことがあったわけですが、今時点での私の状況を申しますと、病院から処方された止血剤の効果なのかは分かりませんが、左眼が1週間前よりは少しずつ改善しているような感覚があります。1週間前の状況がゼロで、それ以前が100だとすると、20くらいまで回復しているような気がしています。まだまだぼんやりではありますが、少しずつ見え始めています。実はそのことに大きな喜びを実感しているところです。見えないものが少しずつではありますが見えるようになる嬉しさ。これはまさに、今日のローズンゲンに示された聖句への深い実感に相通ずるのだなと思わされました。
 
伯父のことについても申し上げます。昨夕、伯父から電話がかかってきて、主治医の先生から正式に入院が長期になることを告げられたということでした。しかし、驚いたのは伯父のひと言でした。「家にあるものを少しずつ処分してほしい。まだまだ使えるものは、誰かにあげてほしい」というものでした。伯父は、これから待ち受けている放射線治療を積極的に受けようとする気持ちを持ちつつも、自分自身のなかでもう自宅には戻れないということへの、潔い覚悟のようなものを感じているのだなと私は思ったのです。この伯父がキリストの愛に支えられながら、人生の日々を過ごして欲しいということを、ますます思わされた一瞬でした。
 
私のことにしても、伯父のことにしても、実に多くの方々が祈ってくださっている。そのことにあらためて感謝申し上げます。別な仕方ではありますが、実際に病がたちどころに癒されたというわけでもありませんが、しかし、祈りに支えられてある種の解放感を味わっていることは紛れもない事実です。こうして、聖書のことばと祈りを通して、聖霊様が豊かに働いていることこそ、私の今日生きる根拠となっていることに感謝しつつ、一日を過ごしたいと願わされました。どうぞ、皆さんの一日にも、神様が祝福をもって臨んでくださいますように。心からお祈りいたします。

18/11/2024

2024.11.18(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編9編3節
いと高き方、あなたを喜び、祝い
その名をほめ歌おう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章4節
主にあっていつも喜びなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日は、それぞれの場で主の日を過ごされたことと思います。私が働く仙台宮城野教会でも、朝夕の礼拝を来会者のかたがたとともに持つことができました。いつものメンバーで固定している私たちの教会ですが、私が着任してから少しでも教会の存在を知っていただきたいと願いつつ、教会の皆さんとおこなってきたことが、少しずつ実を結び始めているような気がしています。というのも、近所にお住まいの方が私たちの教会を見つけてくださって、礼拝に出席してくださることが以前よりも少しずつ増えてきつつあります。そのことが素直に喜べる。ここにこそ神が喜びを私たちに与えてくださるからだと私は思うのです。昨日も、そのことを心から感じることのできた一日でした。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「喜び」です。私たちはよく「主を喜ばせることができますように」という言葉を祈りに含めたり、信仰の言葉として用いたりすることがあります。この言葉自体、私は悪いものではないとは思うのですが、そもそも論で考えるならば、私たちは自分の言動や態度で神を喜ばそうという考えは、誤解を恐れず申し上げれば、結構危うい言葉なのではないかとも思ったりしているわけです。
 
どういうことでしょうか。私が言いたいのは、私たちが神を喜ばせようとする前に、すでに神は私たちの存在そのものを、喜びをもって造られ、命の息吹を与え、私たちが生きることですでに喜んでおられるという前提があるということだと、私は思っているのです。この喜びが私たちに十分に向けられているからこそ、私たちは神の喜びを受け取ることができるし、神の喜びを用いて生きることができるのだというのです。
 
ですから、神を喜ばせるということは、私たちが神のご機嫌を取るようなかたちで用いられることでは決してなく、神と私たちとの深い関係性のなかで、神が与えてくださる喜びをキャッチボールするような感覚で神と交わるときに、はじめて「神を喜ばせる」という言葉が成立するのではないかなと思うのです。そういう意味で言えば、私は神を喜ばせるというよりは「神の喜びに、喜びで応答する」という言い方のほうが良いのではないかとも思ったりしています。
 
私たちは人間と人間とのあいだに、喜びを見い出せない場合もあります。今日の新約聖書の言葉である、フィリピの信徒への手紙4章の冒頭には、教会を支えたふたりの女性のあいだに起きた不和について、パウロは手紙で言及しています。どちらとも教会で熱心に神を喜ばせようと懸命に働いていたことでしょう。しかし、決定的にこのふたりに足りなかったのは、神が与える喜びでした。この喜びをまんなかにすれば、喜びに応答すれば、彼女たちはふたたび主のからだである教会において、大いに喜べるに違いないのです。
 
こういう感覚というものを大切にしたいと願わされた、今日の聖書の言葉が与えられたことに喜び、また感謝したいと思いました。神が喜ばれるからこそ喜べる。このことを胸にして今日の一日を歩むことができますように。お祈りします。

17/11/2024

2024.11.17(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書29章11節
あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている――主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章21節
被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
新しい一週間の始まりを迎えました。この七日間の旅路がどのような日々となるのか、その歩みを導いてくださる神に期待しつつ、今日も御言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、エレミヤ書29章の言葉です。エレミヤ書と言えば、神の民にとっては実に苦しみを味わわなければならない時代の代名詞のようなイメージがあるかもしれません。神に背を向けて独立独歩の道を闊歩していた民に対して、預言者として立てられたエレミヤによる神の言葉はあまりにも厳しく、民たちにとっては決して耳聞こえの良いものではありませんでした。
 
そのようななかで、神の言葉が語られ、その真意というものが明らかにされていくことを、私たちは今日の御言葉から知ることが出来るのだと思います。神である主ヤハウェがご自分の民に対して立てられた計画は、決して災いをもたらすためではないのだ。そうではなくて、「将来と希望を与える平和の計画」なのだと、はっきりと断言されます。
 
たとえ見た目には、現状では悲惨と思えるようなことがあっても、そこには必ず私たちに平和をもたらす将来が必ず神によって与えられる。だからこそ、希望をもって主とともにこれからの旅路を歩んで行こうではないか。独立独歩の道をたどることで主から遠く離れるのでなく、あくまで神とともに歩むことによる幸いを味わって行こうではないか。そんな神の私たちに対する切なる願いというものを、私たちはこの言葉から知ることができるのだと私は思いますし、信じて歩みたいと思うのです。
 
主とともに歩むことは決して束縛などではなく、むしろ解放と自由をもたらすものである。のちに使徒パウロは、このことをローマにあるクリスチャンに対して手紙にしたため、そして送りました。私たちには希望がある。夢があるのだ。なぜならば、私たちを罪の奴隷からご自分のいのちをもって解放してくださった救い主イエスがおられるのだから。そんな思いを帯にしめて、新しい日々を歩んでまいりたいと心から願います。
 
どうぞ、世界中の教会・集会における主の日の祝祭が豊かにされますように。そして、皆さんの一日に、神が平和を与えてくださいますように。お祈りいたします。

16/11/2024

2024.11.16(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書33章9節
私が(エルサレムに対して)行うあらゆる恵みの業について(彼らが)聞くとき、この都は地上のすべての国民にとって喜ばしい名声、賛美、誉れとなる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章9節
群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に
 祝福があるように。
 いと高き所にホサナ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今朝はゆっくりと夜休むことができ、いつもよりもかなり遅めに起きました(9時!)。左眼が見えない分、右眼をいつもの2倍使っているのでしょう。思っている以上に休むことを必要としているのかもしれません。そういう意味では、今朝はゆっくりすることができて、本当に良かったと思っています。その分、ローズンゲン黙想をお届けするのが遅くなってしまいましたが、御言葉に触れ、神様が与えてくださるメッセージに心を傾けたいと思います。
 
今日の新約聖書に選ばれたマタイによる福音書の一節は、イエスがいよいよ十字架にかけられる週のはじめに、都エルサレムに入城するシーンを描いたものです。「ダビデの子にホサナ」と歓声をあげた群衆の姿を創造することができるわけですが、「ホサナ」というのは「救ってください」という意味を持ちますが、それは祝福されたことを喜ぶための賛美のかけ声として、旧約聖書の時代から人々のあいだで用いられてきたフレーズでした。イエスこそ私たちの世界を救う御方なのだという、人々の熱い思いを感じさせるのがホサナだというのです。
 
救い主イエスが私たちを祝福してくださる。このことが大前提に立ってこそ、私たちの日々を生きる大きな土台となっていくことを、私たちはどれだけリアリティをもって受け入れられるかということが、この言葉の肝であると私は思っています。私たちが神からの祝福をなかなか感じ取れない時に、ここに祝福は存在しないと簡単に捨て去ってしまうのでしょうか。神の責任に押し付けてしまうのでしょうか。実は、神の祝福を受け止める私たちの側に問題があるということに、私たちは気付けないことがあります。
 
神の祝福は不変なのです。しかし、その祝福をキャッチする私たちが、自分の思い通りにならなければ、そのことに不平をこぼし、自分なりの言い訳をつけてはそれを退け、自分を常に正当化しようとする。祝福をいただこうとする人に対してあれこれ注文をつけては、その祝福を受けさせないようにしてしまう。人と人とが正義をぶつけることによって、神の祝福などそっちのけにしてしまう。私たちは、そんなことを独り善がりな態度で、神の祝福を見えなくさせてしまっているのではないか。そんなことを真剣に考えたいのです。
 
私たちはだからこそ、神に向けるまなざしというものを確かめながらも、神が私たちを見つめてくださっているその視線というものを見つけ、それを聖霊の助けを得ながら、是非キャッチしていきたいのです。そこに賛美があり、喜びがあり、希望がある。私事で言えば、今実際に眼が見えないからこそ、見るということの尊さに心を寄せることができるのも、大きな感謝だなと思わされました。
 
一週間の最終日、皆さんの時が豊かに祝福されますように。そして、日曜日への良き備えの時となりますように。心よりお祈りします。

15/11/2024

2024.11.15(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記1章31節
人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章35節
二人(の弟子)も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日、伯父の病状を主治医の先生から聞くために、朝イチで病院へ向かいました。伯父の口からしか病院のこと、自分の病状のことは知らされていませんでしたので、あらためて病気のことをすべてご存知である方からの、詳細で冷静かつ的確な話を聞けたことは、本当に感謝なことでした。先生からの話によって、今後私は何をしなければならないかがはっきりと分かりました。残り少ない人生であることが分かった伯父に神が触れてくださり、少なくても病と闘わなければならない伯父にとって、希望の源である神である主が必ずともにおられること受け入れてほしいと、強く、強く願わされました。私の祈りの課題がひとつ、明確に加えられたことを神に感謝するばかりでした。伯父のために祈りに覚えてくださっている皆さまにも、心から感謝いたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して思わされたこと、それは「人生の伴走者である神が必ずおられる」ということでした。私にとっては伯父がその人生のなかで、そのゴールを迎えようとするなかでとても大切な伴走者が与えられていると信じるからこそ、今日の聖書の言葉がよりクリアに、私の心のなかにとどまっているような気がします。
 
今日の旧約聖書である申命記の冒頭にある言葉は、伴走者どころか私たちをおぶり、背負ってくださる神である主ヤハウェについて書き記されています。申命記は、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、神が約束された土地をめざすまでの40年間、まさに荒野での日々を過ごさなければならなかった。しかし、その旅路も終着点が見えてきたところで、民たちのリーダーであるモーセによって語られたのでした。
 
40年間の苦労も、実は神が民たちを背負ってくださらなければ、ここまで来ることができなかった。そのことにあらためて気づかされるのは、その旅路の最後の部分で行程を振り返った時だったのです。私たちもまた、自分自身に与えられた人生を振り返る時に、いつもそこには神がおられた。時には背負われ、時にはともに人生の馳せ場をともに走り、歩んでくださる神がおられるのだ。これこそ、私たちにとっての慰めとなり希望となるのだと、私は今日の聖書の言葉を通してますます思わされたのでした。
 
それは、救い主イエスが復活された日の夕刻に、ふたりの弟子たちがエマオへと歩むその途上でイエスに出会うものの、その時は気付かず、エマオに到着してともに食卓を囲んだときに、はっと気づかされたあの出来事に相通ずるのだと。自分たちの主を十字架で失って、失意のうちにあった弟子たちの孤独は、実は孤独で無かったのだと。主がともに、私たちの心に十分に臨んでくださっていたのです。
 
私たちの人生の旅路も、いつもともにいてくださるイエスによる守りと平安が、今日の一日もまた、私たちの命の道を支えてくださいますように。お祈りいたします。

14/11/2024

2024.11.14(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記10章14節
見よ、天も、天の天も、地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章14節
「いと高き所には栄光、神にあれ
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
最初に、引き続き私のことで祈りをあわせてくださり、心から感謝いたします。昨日総合病院の眼科で精密検査を受けましたが、結論から言いますと、入院手術の前に止血剤を用いてしばらく様子をみましょうということになりました。月末にもう一度精密検査を受けることになります。
 
左眼の見え方ですが、相変わらずもやがかかって見えない状態が続いていますが、それでも一昨日よりは昨日、昨日よりは今朝のほうが、見え方に良いほうに改善しているような感触を得ています。皆さんのお祈りの効果かな?と思い、皆さんにも心から感謝する次第です。本当にありがとうございます。
 
今日は朝一番で、伯父の主治医から伯父の状況を聞くために入院先の病院へ向かいます。伯父の今後のためにも祈りつつ、今日の一日を過ごしたいと思います。伯父のためにもお祈りくださり、重ねて感謝いたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に新約聖書の言葉として選ばれたルカによる福音書2章14節は、あまりにも有名な聖句であることは皆さんもご承知のことと思います。マリアとヨセフのあいだに赤子が誕生した際、羊飼いたちの見た天使たちの賛美のなかで、語られたあの言葉です。
 
天に地に、神の栄光と平和があまねくところにいたるまで広がり、そして賛美され語り継がれる。神の世界がもたらす豊かさが、暗闇のなかに光輝くところにこそ、私たちの闇にも神が必ずご自分の栄光と平和というものを輝かせてくださるのだという希望を芽生えさせてくださるのです。
 
私事ばかりで申し訳ありません。目が見えないという、ある意味「闇」の体験を現在進行形でしている私にとって、その闇に光が投じられていく姿というものをこれから経験できると思うと、イエスが誕生した時に羊飼いが経験した光景と重ね合わせることができるのではないかと思ったのです。あの時に天から鳴り響いた賛美の歌声は、まさにそういうことをさやかに示してくださる神がおられるのだということを、希望のうちに実感できる私がいるのだ。そう思ったのです。
 
私たちは現実が押し寄せる世の中で生活していますが、しかし、そのような現実のなかにも「神の世界」を見い出すことができるのだと。天も、天の天も、地にあるすべてのものも、それはすべて神である主ヤハウェのものなのだということを実感し、その実感が希望になるような一日であることを心から望みつつ、神に祈りつつ、与えられた一日の旅路を歩むことができますように。皆さんの主にある守りと平安を、心からお祈りいたします。

13/11/2024

2024.11.13(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章4節
勇士の弓は折られ
弱い者が力を帯びます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章10節
それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
昨日は、私のリクエストに応えてくださり、心から感謝いたします。多くのコメントや祈りの言葉をいただきました。どれだけ昨日のローズンゲンに示された聖書の言葉とあわせて、私にとって心強いものとなったでしょう!そのことを思い巡らしながら、今日のローズンゲンを開きますと、またもや、今日の御言葉はまさに私のためにあるのではないかと思わされました。ローズンゲン自体にそのような特別な力があるわけではないのですが、ローズンゲンを通して、神が確かにご自分の言葉を携えて働いてくださっていることは事実ですから、そのことに本当に嬉しくなりました。その思いをつづりたいと思います。
 
昨日、ローズンゲン黙想を投稿した直後、同じ街に住む伯父から電話がありました。身寄りのない伯父にとって、一番身近にいるのは私なのですが、伯父との交流が再開したのは去年のことで、約40年ぶりの再会でした。伯父は身体的経済的に多少の不自由を抱えながら、毎日を過ごしていました。その伯父からの電話は、身体がまったく動かなくなってしまったというものでした。したいことができなくなってパニック状態とのことでした。
 
伯父本人は救急搬送されることを希望しましたので、私が救急車を呼んで伯父はかかりつけの病院へ搬送されました。私も左眼は見えない状態でしたが、見える右眼を使って運転しながら、病院へと向かいました。病院では伯父に会うことはできませんでしたが、救急外来の担当医から、検査の結果、伯父は治療中だった胃がんが脳に転移をしているゆえに、記憶面運動面に障害を起こしているとのことでした。(夕方には病室も決まり、伯父から電話の連絡を受けたときにはホッとしました。伯父にも主治医の先生から脳のことの告知はされたとのことで、私も主治医からの説明を明日受けることになりました。)
 
伯父が運ばれた病院を後にして、私はかかりつけの眼科へ行きました。そこで検査を受けて受けた診断は「眼底出血」でした。出血量がかなり多いので、このまま様子をみて出血がおさまるのを見るか、総合病院で精密検査をして入院・手術の道をとるかの道が示されて、私は後者をとることにしました。紹介状を書いてもらいましたので、今日、近くの大学病院へ出向いて、診察を受けることにしています。相変わらず左眼が見えませんので、いろいろと支障はあるのですが、見える右眼を使って、このように文字を打つことができるので、本当に感謝です。(聖書などの細かい文字を読むことはかなり難しいですが、インターネットで聖書の言葉を読むことができるので、本当に感謝です)
 
そんなこんなの一日でしたが、無事にその時を過ごして、平安のうちに終えることができました。いささかの不安も、そのことで頭や心がいっぱいになることなく、きわめて冷静に過ごすことができました。神が与えてくださる平安に、自らの身も心も委ねることができたと思っています。皆さんの祈りやお支えも本当に力になりました。
 
そのうえで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに「これ以上言うこと無し」のメッセージであったと私は感じています。弱いものこそ力を帯び、弱い時こそ強いのだというメッセージ。私は今ある意味では片目が見えませんので、いつも感じることのない弱さがあると思っています。しかし、なぜか心は平安なのです。これこそ、神が生きる力を与えてくださっているからだと、私は信じて疑いません。確かに不自由です。しかし、不自由さを通して自由にさせられている、自由にさせてくださる神がともにおられるのです。こんなに感謝なことは無いと思いました。
 
今日、自分の眼をもう一度診てもらって、今後の治療を決めることになります。明日は伯父の今後の方針を決めることになります。どんなときにも、神が与えてくださる力によって、うろたえることなく、落ち着きをもって、神のなさる一切に希望が持てるのだ。そんなことを心に刻んで、一日を歩んでまいりたいと思います。
 
黙想というよりは、私の近況報告で申し訳ありません。どうか今日一日の皆さんの歩みに、神の守りと平安が豊かにありますように。お祈りいたします。

12/11/2024

2024.11.12(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章15節
静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一4章20節
神の国は言葉ではなく、力にあるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
私事になりますが、今朝起きたときに「あれっ?」という感じになりました。左眼が見えなくなっていることに気付きました。光は十分に感じますし、物がそこにあるとかいうのは何となくわかるのですが、とにかくぼんやりとしか分からない。とりあえず、24時間営業の眼科へ行き、眼帯テープを買って左眼につけたおかげで、右眼でパソコンの文字を打つことができています。朝イチで眼科へ行きたいと思いますが、大事無いようにもしよろしければお祈りくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いします。
 
そんな時に与えられた今日のローズンゲンは、私の心にダイレクトに響くものでした。突然の出来事にうろたえることなく、ただただ冷静に、神との信頼関係に心を寄せて生きることこそ、私の力となっていくのだと。それは神の力をいただけるということであり、その力が私の生きる源になっていくのだと。そのことを今日の非日常を生きる土台として、私に与えられたことに、心から感謝するばかりでした。
 
今日は短いですが、黙想をここまでとしたいと思います。どうぞ皆さんの一日に、神様からの守りと祝福が豊かにありますように。そのことを心からお祈りいたします。

11/11/2024

2024.11.11(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ホセア書3章5節
イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章8節
誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「求める」という言葉です。求める相手はイスラエルの神であり、見えるかたちでの支配者であるダビデ、のちに救い主となられたイエスに対してです。求めるとはどういうことかについて、黙想したいと思いました。
 
求めるというと、何かの要求をもってその相手に自分の希望を願い出ることをイメージさせますが、旧約聖書の世界において求めるとは、単に自分の思い通りの欲求や要求を指すというよりは、精神的な関係性に基づいて求めるという行為がなされたと言われています。
 
今日のホセア書にある「求める」の原語は、バーカーシュ(בָּקַשׁ)というヘブライ語が用いられています。この言葉には、神との関係を追求すること、神がともにおられるのを希求すること、神の意志に自分を合わせることなどが意味として含まれています。つまり、求めるという行為は、神への徹底的な依存という、私たちの心の姿勢を表していると言われています。
 
つまり、イエスが民衆に対して「求める者は受ける」と語られたのは、神への心からの依存によって、神の御心に従って生きようとする私たちの思いが、そもそも神が私たちに向けられておられる喜びというものを受け取ることができる根拠となるという意味でなのです。
 
今日のホセア書にもあるように、私たちが神に近づいたから神が私たちに恵みを与えてくださるということではないのです。私たちがそうする前に、すでに神はご自分の最大限の恵みというものを私たちに与えようとして待っておられる。大切なのは、私たちの側がそのような神の存在に気付いているかどうかということなのです。
 
そのために、今日も聖霊様の助けをいただきつつ、聖書の言葉に耳と心を傾けて一日のときを過ごしてまいりたいと願わされました。神の恵みに対して気づき、求めることの幸いを味わい知ることができますように。皆さんの主にある守りと平安をお祈りします。

10/11/2024

2024.11.10(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章10節
私は主にあって大いに喜び
私の魂は私の神にあって喜び躍る。
主が救いの衣を私に着せ
正義の上着をまとわせてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章9節
光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
新しい一週間のはじまりを迎えました。今日、世界中で行われる主の日の祝祭を私たちが迎えるにあたって、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は、まことにふさわしいものであると私は受け止めました。
 
旧約聖書・イザヤ書61章は、神が荒廃のなかにあるご自分の民を、恵みに満ちあふれた世界へと導いてくださることについて語られた預言のことばです。後にイエスも会堂でこの言葉を安息日の会堂で読み、そのことが今や実現していることを告げられました(ルカによる福音書4章)。荒廃が荒廃のままでは終わらないという、実に希望の拠り所を思うことができる聖書の言葉として大切にされてきたのです。
 
私は、このイザヤ書61章を読むときに、今日のローズンゲンに指し示された「主にあって」という言葉に注目しました。つまり、荒れ果ててしまった私たちに希望の光を与えてくださるのは、神である主ヤハウェである。このことが土台にあってこそ、私たちは希望を抱いて迎え来る日々を神とともに生きることができるのだ。この神が与えてくださる希望に、私たちはどれだけの思いをもってキャッチし、受け止めようとしているかというのは、本当に大切な私たちの営みなのだと。
 
私たちは自分自身である程度の救済をすることができたとしても、それはいっ時のものに過ぎません。永続的かつ究極的に私たちの命を守り抜いてくださるのは、神御自身が正義であるがゆえです。この正義を私たちの身にまとわせてくださる。私たちはまさに「神を着る」ことで、神とともに生きることができるのだと私は受け止め、今週一週間の歩みに押し出されたいと思いました。
 
どうぞ皆さんの新しい一週間も、また、その初日となる今日の歩みも、義をまとわせてくださる神の恵みがともに豊かにありますように。お祈りします。

09/11/2024

2024.11.9(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編22節
主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ
主の治めるすべての場所で。
私の魂よ、主をたたえよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章5~6節
御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今週も最終日を迎えました。今週一週間、どのような日々を過ごすことが出来たでしょうか。良いことも、良くなかったことも、楽しかったことも、辛かったこともあったでしょう。しかし、それでも私たちには、神である主ヤハウェがともにいてくださるのだと、聖書の言葉が語り続けている。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句も、何ら変わることなく、そのことを私たちに語り継いでいるのです。
 
主をほめたたえる。何ゆえにでしょうか。その実感が私たちの心からわいてこなければ、どんなに形ばかりの崇拝行為をおこない、大声で賛美や祈りをがなりたててても、それは単なるパフォーマンスに過ぎないのかもしれません。だからこそ、神である主をほめたたえることについて、じっくりと黙想をすることは大切なことなのです。だからこそ、私たちは聖霊の助けをいただきながら、神との対話を楽しみたいのです。神が語られる、示される声とおうものに、じっくりと耳と心を傾けて、その声を私たちの心にしっかりとキャッチしていきたいのです。
 
なかなかそのような声が聞こえないからと言って、私は神から見捨てられていると感じる必要はこれっぽっちもありません。もし、そのようなことを感じる理由があるとすれば、私たちにとってこの世の中があまりにも過酷だからかもしれません。何かを急かすような環境が、すぐに良し悪しの評価をくだし、簡単に勝ち負けを判定する世界があるからかもしれません。しかし、孤独のなかにこそ、神がイエス・キリストの実体とこの世界に示された数々の根拠によって、私たちに臨んでくださいます。たとえそのことが地味に感じたとしてもです。
 
私たちは、即効的な、きらびやかで華やかな、スペクタクル的な奇跡「だけ」を求めていないでしょうか。それらは確かに「わかりやすい」のです。しかし、わかりにくいというところにこそ、大切な宝が納められているかもしれないのです。それは、決して神のいたずらではないのです。だからこそ、私たちは御言葉と聖霊の両輪をもって、神との深い対話というものを楽しみたいのです。このような黙想の営みが結果的に、神をほめたたえるという私たちの嘘偽りのない、神への行為へと動かされていくのだ。私は、今日の御言葉を通して、そのように受け取りたいと思わされました。
 
どうぞ、今日の一日が、神の豊かな導きによって明日へとつなぐ時となりますように。心からお祈りします。

08/11/2024

2024.11.8(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章1節
私だ。義によって語り
救う力の大いなる者。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書20章15~16節
私の気前のよさを妬むのか。
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神が人間へなさる祝福を、人間が阻んで良いのだろうか?
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私の思いに与えられたメッセージでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、いわゆる「ぶどう園の労働者のたとえ」の一節です。主人がぶどう園で働くために朝早く人々を雇い、昼間にもさらに人を雇い、残り1時間だけでもと人を雇います。しかし、賃金は朝早く働いた者も、ほんの少し働いた者も同じ額でした。早朝から働いた労働者は不平を主人にこぼします。それに対して主人が語った言葉が、今日の聖句というわけです。
 
確かに「不公平」を思わせるような出来事だと、私たちの目には映るかもしれません。現代の世ならば、ブラック企業と揶揄されるに違いないでしょう。しかし、主人に例えられた神は「私の気前のよさを妬むのか」と、それらの不平を一蹴してしまいます。ちなみにその賃金とは、人が一日問題なく過ごすことのできるに十分な額だったのです。
 
私たちは資本主義の世界に生きていますから、このような神の対応は現実にそぐわないように感じるでしょう。しかし、それは資本主義の負の産物と決めつけるのもどうなのかなと感じることもあります。だれもが過不足なく分配されることを目指した共産・社会主義もまた完璧なものとは言い難いのは、歴史が物語っていることでもあります。つまり、何を言いたいかというと、それは私たち人間ならば誰でも抱く、悲しい性なのだと思うのです。
 
つまり、人間は横を見て、周りを見渡しては優劣をつけ、格差をつけたがる存在なのだと思います。こうして人の努力というものがゆがんだ仕方で悪用されるのだと思うのです。これこそ、人が神になろうとする、いわゆる「罪」の根本部分にあるものだと、私は思います。
 
だからこそ、私たちには「気前のよい」神が必要なのだと思います。細かいことにあれこれこだわることなく、本質だけを大切にして私たち人間を大切にされる神の存在がです。神はなんでもかんでも良いと無秩序になられたわけでは決してありません。しかし、私たちが抱くような、細かいことに眼を向けすぎて本当に大切なことまで奪い取ってしまうようなことがあるならば、そこに神の祝福が存在するのだろうかということについて、私たちは真剣に考えなければいけないのではないだろうか。そんなことを思わされたのでした。
 
神は、ご自分の抱く本質に基づいて、気前よく救いの道を私たちに与えてくださいました。その神の思いを、私たちはゆがめることなくいただく者でありますように。今日一日の主にある平安を、心よりお祈りします。

07/11/2024

2024.11.7(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下14章10節
我々の神、主よ、我々を助けてください。我々はあなたを頼りとしているからです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章23節
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、新約聖書・ヘブライ人への手紙10章の言葉に、今日は注目したいと思いました。
 
私たちが揺るぎなく希望を持ち続けることができるとしたら、それは何を根拠とするかについて、今日の聖句である23節には「救いの希望を与えてくださった方の『真実』によるもの」だと、私たちに明らかにしています。ここで語られているのは、救い主であるイエス・キリストご本人であるのですが、そのイエスを「真実な方」であると、この手紙の筆者は綴っているのです。
 
この「真実な」という言葉、新約聖書の原文であるギリシア語では、「ピスティス」という単語の形容詞型である「ピストゥス」という言葉が用いられています。ピスティスとは、日本語で「信仰」としばしば用いられているものなのです。
 
信仰といえば、私たちが神仏に向かう行為ばかりが重視されがちなのですが、決してそういうことでもありません。ギリシア語のピスティスが語ろうとしているのは、私たちの神仏に向かう行為の「前提」となることを指した言葉であることがわかります。
 
私たちが希望をもって生きるというというのは、私たちの決断に基づく行為であることに違いありません。しかし、その前提になる、希望を抱くにふさわしい生き方をされた方がおられる。その方そのものが「真実(信仰)」の源であるということを、私たちは「信仰」という言葉を考え、とらえる上で絶対不可欠なものとなることを、とらえ続けたいのです。
 
どんなに私たちが熱心に、いわゆる「信仰的な行為」を営んだとしても、その元となる方の「真実(ピスティス)」に基づいていなければ、その行為は人間によるただのアピールに過ぎないのだと、私は自戒しつつも思わされます。イエスの言葉と行いから、私たちはいかにしてこの御方の「真実」に基づいた本質というものを、聖霊の助けによって私たちひとりひとりの心身に浸みこませていただけるか。目に見える行為ばかりに価値を見いだすのではなく、あくまで私たちを満たしてくださるイエスの真実というものを、生きる希望としていきたいのです。
 
かつて、神の民たちが神である「主(ヤハウェ)」に向かって、「あなたを頼りとしている」という告白をしました。頼りとするというのは、頼りにされる方がまさに「真実」であるからこそ、民たちは頼りとすることができました。それが決して、口先だけのものではなく、本当にそうしたいから、偽りのない神に向かって自分自身をゆだね、頼ることができた。それが、今日の旧約聖書の言葉が指し示しているメッセージであると私は受け取りたいのです。
 
今日もそのようなキリストの真実によって、私たちが生きることができますように。神による守りと祝福を、心からお祈りします。

06/11/2024

2024.11.6(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編84編5節
幸いな者、あなたの家に住む人は。
彼らは絶えずあなたを賛美します。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章26節
霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
霊が呻く(うめく)。
今日の新約聖書の言葉であるローマの信徒への手紙の一節で、私たちに語りかけています。うめくとはどういう意味でしょうか?感嘆のあまり、力強い息とともに絞り出される声のことをいいます。つまり、霊(聖霊)は、私たちのために感嘆の声をあげながら私たちの祈りを聞かれ、神に執りなしてくださるというのです。
 
つまり、どのように祈って良いかわからない。美辞麗句をもって祈れなかったとしても、私たちの「祈りたい」という切なる思いを、神は喜んでくださるのです。私たちは神に対して、何か良いこと、模範となるようなことをしなければならないと思うかもしれません。しかし、その良いこととか模範というものは、世間一般で言われる、人目から見て立派なことを指すのではないと私は思います。
 
大切なことは、人目よりも神のみ前に自分自身の素の姿をさらけ出した時に、さらけ出せた時に、神は私たちのために喜び、聖霊がうめいてくださることによって。感嘆の声をあげて神に私たちのために執りなしてくださるということなのです。

私たちが信仰者として生きる時、誰のための信仰者であるのでしょうか?もちろん隣人のためであるかもしれませんし、自分自身のためでもあるのかもしれません。しかし、何よりも大切なのは、神があってこその私の信仰なのです。私たちの如何ともしがたい姿に、神はご自分に対してその姿が向けられた時に、実に喜んでくださる。その究極のかたちが救い主イエスに込められているのだと、私は受け取りたいと思いました。
 
どんな時にも、私たちが自分の素直な姿を神に向けてさらけ出すことができますように。そして、そのような姿に神が臨んでくださることを信じて、今日も歩むことができますように。お祈りします。

05/11/2024

2024.11.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書11章19~20節
私は彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。それは彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章20~21節
神の国はいつ来るのか。神の国はあなたがたの中にある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、私たちが「神とともに歩む」ことができるために、神が備えてくださる「心」について、私たち一人ひとりに黙想を与えるものだと私は受け止めました。
 
今日の旧約聖書であるエゼキエル書においては、神が私たちに「心」を与えるのだということが、預言者エゼキエルによって語られています。どのような心でしょうか。「肉の心」と記されています。そして、この肉の心は「石の心」と対比するようなかたちで語られていることが分かります。
 
石の心とは、カチコチに凝り固まった状態のことを指すわけです。私たちの固定概念に縛られた、それこそ頑固な心のことを指します。柔軟さがないので、あらゆることに対応できない、自分自身の信念だけを押し通そうとする状態のことです。そのような状態は、一見すると「自信がある」ように見えます。しかし、その自信はときにはもろく、簡単に崩れてしまうものなのかもしれません。石の心とは、頑丈なように見えて、実はそうではない一面があるというなのでしょう。
 
私たちのうちにあるそのような石の心を、神は「肉の心」を与えることによって変革してくださるというのです。肉とは、血液や栄養が十分に流れて、筋肉がつねに瑞々しく、しなやかな状態のことを指します。十分に鍛えられた筋肉はしなやかに動きますから、あらゆる衝撃に対応することができるというのです。実にフレキシブルな対応をもって、日々の暮らしに向き合うことができる。それが「肉の心」なのです。
 
そして、肉の心は神が与えてくださる法や掟というものを守ることができるために、欠かせないものなのだということを、今日の言葉から知ることができます。なにも文字面の律法を守るという意味ではありません。神がご自分の法や掟を通して示されるご自身の「価値観」というものを柔軟に受け入れ、その本質によって生きることができるというのです。
 
この柔軟さこそ、このハードな世の中においても、私たちのただ中に「神の国」があふれていることを実感できるための、大きな助けになっていくのだと私は今日のふたつの聖句を通して受け止めたいと思いました。神が与えてくださるしなやかな心をもって、今日も主にあって柔軟な生き方をすることができますように。お祈りします。

04/11/2024

2024.11.4(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書1章2節
もろもろの民よ、こぞって聞け。
地とそこに満ちるものよ、心して聞け。
主なる神はあなたがたの証人となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章7節
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
10月31日から4日間、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。ブログアップする時間が取れなかったことと、身体の疲れもあってしばらく休ませてもらいました。今日から再開したいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに選ばれた、旧約聖書・ミカ書の冒頭の一節で語られるのは、「神は私たちの証人となってくださる」ということです。私たちが神の証し人になるのではなく、神が私たちの生きざまというものをすべてご存知なうえで、私たちの存在を証明してくださるというのです。つまり、私たちの良し悪しのすべてを通して、神が神であることを明らかにし、人々に知らせるというのです。
 
私が私たちを通してご自分を明らかにしてくださるというのは、決して私たちの「良い部分」だけを取り出して明らかにするということではないと私は考えています。どちらかというと、私たちの隠しておきたい、到底人様に見せることのできないものまでも、神は用いてご自分を明らかにされるのだと思うのです。
 
どうしても私たちは、神の栄光のためにという言葉によって「非の打ちどころのない、誰からも称賛されるような模範的な生き方」を目指すようなイメージを抱いていないでしょうか。もちろん、結果としてそのようなこともあるかもしれません。しかし、私は「神の栄光のために」という言葉は「神が神とされるために」という意味で用いられるべきなのではないかと思うのです。あえて悪がる必要はないのですが、私たちのボロボロで頼りなく、欠けばかりの偽らざる姿にこそ、神が私たちの神であることの証明がなされていくのだと私は思うのです。
 
この神によって、私たちは自分が蒔いたものを収穫することができるのだと思うのです。「蒔いたものを刈り取る」という言葉は、どちらかというとネガティヴなイメージを引き起こす言葉として、しばしば用いられているように私は感じています。しかし、そのような自業自得的な用い方こそ、なんか自分で汗水たらして、歯を食いしばって頑張らなければならないような印象をも、私たちに与えていないだろうか。だとすれば、この聖句の本質というものを十分にくみ取れないのではないかとも思うのです。
 
むしろ、ガラテヤ書のこの聖句の語ろうとしていることは「神は侮られるような方ではありません」なのではないかと思うのです。神御自身がご自分を明らかにするために、私たちの存在を大切にし、そして用いてくださっている。このことを、私たち一人ひとりがどのように受け止めるかで、そこには本当の意味での平和も訪れるのだと、私たちは信じて今日の一日を歩みたいと思いました。
 
どうか、三連休の最終日である今日の一日も、神の栄光が響き渡ることを喜べるような時でありますように。お祈りします。