13/11/2024

2024.11.13(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章4節
勇士の弓は折られ
弱い者が力を帯びます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章10節
それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日は、私のリクエストに応えてくださり、心から感謝いたします。多くのコメントや祈りの言葉をいただきました。どれだけ昨日のローズンゲンに示された聖書の言葉とあわせて、私にとって心強いものとなったでしょう!そのことを思い巡らしながら、今日のローズンゲンを開きますと、またもや、今日の御言葉はまさに私のためにあるのではないかと思わされました。ローズンゲン自体にそのような特別な力があるわけではないのですが、ローズンゲンを通して、神が確かにご自分の言葉を携えて働いてくださっていることは事実ですから、そのことに本当に嬉しくなりました。その思いをつづりたいと思います。
 
昨日、ローズンゲン黙想を投稿した直後、同じ街に住む伯父から電話がありました。身寄りのない伯父にとって、一番身近にいるのは私なのですが、伯父との交流が再開したのは去年のことで、約40年ぶりの再会でした。伯父は身体的経済的に多少の不自由を抱えながら、毎日を過ごしていました。その伯父からの電話は、身体がまったく動かなくなってしまったというものでした。したいことができなくなってパニック状態とのことでした。
 
伯父本人は救急搬送されることを希望しましたので、私が救急車を呼んで伯父はかかりつけの病院へ搬送されました。私も左眼は見えない状態でしたが、見える右眼を使って運転しながら、病院へと向かいました。病院では伯父に会うことはできませんでしたが、救急外来の担当医から、検査の結果、伯父は治療中だった胃がんが脳に転移をしているゆえに、記憶面運動面に障害を起こしているとのことでした。(夕方には病室も決まり、伯父から電話の連絡を受けたときにはホッとしました。伯父にも主治医の先生から脳のことの告知はされたとのことで、私も主治医からの説明を明日受けることになりました。)
 
伯父が運ばれた病院を後にして、私はかかりつけの眼科へ行きました。そこで検査を受けて受けた診断は「眼底出血」でした。出血量がかなり多いので、このまま様子をみて出血がおさまるのを見るか、総合病院で精密検査をして入院・手術の道をとるかの道が示されて、私は後者をとることにしました。紹介状を書いてもらいましたので、今日、近くの大学病院へ出向いて、診察を受けることにしています。相変わらず左眼が見えませんので、いろいろと支障はあるのですが、見える右眼を使って、このように文字を打つことができるので、本当に感謝です。(聖書などの細かい文字を読むことはかなり難しいですが、インターネットで聖書の言葉を読むことができるので、本当に感謝です)
 
そんなこんなの一日でしたが、無事にその時を過ごして、平安のうちに終えることができました。いささかの不安も、そのことで頭や心がいっぱいになることなく、きわめて冷静に過ごすことができました。神が与えてくださる平安に、自らの身も心も委ねることができたと思っています。皆さんの祈りやお支えも本当に力になりました。
 
そのうえで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに「これ以上言うこと無し」のメッセージであったと私は感じています。弱いものこそ力を帯び、弱い時こそ強いのだというメッセージ。私は今ある意味では片目が見えませんので、いつも感じることのない弱さがあると思っています。しかし、なぜか心は平安なのです。これこそ、神が生きる力を与えてくださっているからだと、私は信じて疑いません。確かに不自由です。しかし、不自由さを通して自由にさせられている、自由にさせてくださる神がともにおられるのです。こんなに感謝なことは無いと思いました。
 
今日、自分の眼をもう一度診てもらって、今後の治療を決めることになります。明日は伯父の今後の方針を決めることになります。どんなときにも、神が与えてくださる力によって、うろたえることなく、落ち着きをもって、神のなさる一切に希望が持てるのだ。そんなことを心に刻んで、一日を歩んでまいりたいと思います。
 
黙想というよりは、私の近況報告で申し訳ありません。どうか今日一日の皆さんの歩みに、神の守りと平安が豊かにありますように。お祈りいたします。

12/11/2024

2024.11.12(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章15節
静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一4章20節
神の国は言葉ではなく、力にあるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
私事になりますが、今朝起きたときに「あれっ?」という感じになりました。左眼が見えなくなっていることに気付きました。光は十分に感じますし、物がそこにあるとかいうのは何となくわかるのですが、とにかくぼんやりとしか分からない。とりあえず、24時間営業の眼科へ行き、眼帯テープを買って左眼につけたおかげで、右眼でパソコンの文字を打つことができています。朝イチで眼科へ行きたいと思いますが、大事無いようにもしよろしければお祈りくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いします。
 
そんな時に与えられた今日のローズンゲンは、私の心にダイレクトに響くものでした。突然の出来事にうろたえることなく、ただただ冷静に、神との信頼関係に心を寄せて生きることこそ、私の力となっていくのだと。それは神の力をいただけるということであり、その力が私の生きる源になっていくのだと。そのことを今日の非日常を生きる土台として、私に与えられたことに、心から感謝するばかりでした。
 
今日は短いですが、黙想をここまでとしたいと思います。どうぞ皆さんの一日に、神様からの守りと祝福が豊かにありますように。そのことを心からお祈りいたします。

11/11/2024

2024.11.11(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ホセア書3章5節
イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章8節
誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「求める」という言葉です。求める相手はイスラエルの神であり、見えるかたちでの支配者であるダビデ、のちに救い主となられたイエスに対してです。求めるとはどういうことかについて、黙想したいと思いました。
 
求めるというと、何かの要求をもってその相手に自分の希望を願い出ることをイメージさせますが、旧約聖書の世界において求めるとは、単に自分の思い通りの欲求や要求を指すというよりは、精神的な関係性に基づいて求めるという行為がなされたと言われています。
 
今日のホセア書にある「求める」の原語は、バーカーシュ(בָּקַשׁ)というヘブライ語が用いられています。この言葉には、神との関係を追求すること、神がともにおられるのを希求すること、神の意志に自分を合わせることなどが意味として含まれています。つまり、求めるという行為は、神への徹底的な依存という、私たちの心の姿勢を表していると言われています。
 
つまり、イエスが民衆に対して「求める者は受ける」と語られたのは、神への心からの依存によって、神の御心に従って生きようとする私たちの思いが、そもそも神が私たちに向けられておられる喜びというものを受け取ることができる根拠となるという意味でなのです。
 
今日のホセア書にもあるように、私たちが神に近づいたから神が私たちに恵みを与えてくださるということではないのです。私たちがそうする前に、すでに神はご自分の最大限の恵みというものを私たちに与えようとして待っておられる。大切なのは、私たちの側がそのような神の存在に気付いているかどうかということなのです。
 
そのために、今日も聖霊様の助けをいただきつつ、聖書の言葉に耳と心を傾けて一日のときを過ごしてまいりたいと願わされました。神の恵みに対して気づき、求めることの幸いを味わい知ることができますように。皆さんの主にある守りと平安をお祈りします。

10/11/2024

2024.11.10(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章10節
私は主にあって大いに喜び
私の魂は私の神にあって喜び躍る。
主が救いの衣を私に着せ
正義の上着をまとわせてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章9節
光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
新しい一週間のはじまりを迎えました。今日、世界中で行われる主の日の祝祭を私たちが迎えるにあたって、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は、まことにふさわしいものであると私は受け止めました。
 
旧約聖書・イザヤ書61章は、神が荒廃のなかにあるご自分の民を、恵みに満ちあふれた世界へと導いてくださることについて語られた預言のことばです。後にイエスも会堂でこの言葉を安息日の会堂で読み、そのことが今や実現していることを告げられました(ルカによる福音書4章)。荒廃が荒廃のままでは終わらないという、実に希望の拠り所を思うことができる聖書の言葉として大切にされてきたのです。
 
私は、このイザヤ書61章を読むときに、今日のローズンゲンに指し示された「主にあって」という言葉に注目しました。つまり、荒れ果ててしまった私たちに希望の光を与えてくださるのは、神である主ヤハウェである。このことが土台にあってこそ、私たちは希望を抱いて迎え来る日々を神とともに生きることができるのだ。この神が与えてくださる希望に、私たちはどれだけの思いをもってキャッチし、受け止めようとしているかというのは、本当に大切な私たちの営みなのだと。
 
私たちは自分自身である程度の救済をすることができたとしても、それはいっ時のものに過ぎません。永続的かつ究極的に私たちの命を守り抜いてくださるのは、神御自身が正義であるがゆえです。この正義を私たちの身にまとわせてくださる。私たちはまさに「神を着る」ことで、神とともに生きることができるのだと私は受け止め、今週一週間の歩みに押し出されたいと思いました。
 
どうぞ皆さんの新しい一週間も、また、その初日となる今日の歩みも、義をまとわせてくださる神の恵みがともに豊かにありますように。お祈りします。

09/11/2024

2024.11.9(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編22節
主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ
主の治めるすべての場所で。
私の魂よ、主をたたえよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章5~6節
御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今週も最終日を迎えました。今週一週間、どのような日々を過ごすことが出来たでしょうか。良いことも、良くなかったことも、楽しかったことも、辛かったこともあったでしょう。しかし、それでも私たちには、神である主ヤハウェがともにいてくださるのだと、聖書の言葉が語り続けている。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句も、何ら変わることなく、そのことを私たちに語り継いでいるのです。
 
主をほめたたえる。何ゆえにでしょうか。その実感が私たちの心からわいてこなければ、どんなに形ばかりの崇拝行為をおこない、大声で賛美や祈りをがなりたててても、それは単なるパフォーマンスに過ぎないのかもしれません。だからこそ、神である主をほめたたえることについて、じっくりと黙想をすることは大切なことなのです。だからこそ、私たちは聖霊の助けをいただきながら、神との対話を楽しみたいのです。神が語られる、示される声とおうものに、じっくりと耳と心を傾けて、その声を私たちの心にしっかりとキャッチしていきたいのです。
 
なかなかそのような声が聞こえないからと言って、私は神から見捨てられていると感じる必要はこれっぽっちもありません。もし、そのようなことを感じる理由があるとすれば、私たちにとってこの世の中があまりにも過酷だからかもしれません。何かを急かすような環境が、すぐに良し悪しの評価をくだし、簡単に勝ち負けを判定する世界があるからかもしれません。しかし、孤独のなかにこそ、神がイエス・キリストの実体とこの世界に示された数々の根拠によって、私たちに臨んでくださいます。たとえそのことが地味に感じたとしてもです。
 
私たちは、即効的な、きらびやかで華やかな、スペクタクル的な奇跡「だけ」を求めていないでしょうか。それらは確かに「わかりやすい」のです。しかし、わかりにくいというところにこそ、大切な宝が納められているかもしれないのです。それは、決して神のいたずらではないのです。だからこそ、私たちは御言葉と聖霊の両輪をもって、神との深い対話というものを楽しみたいのです。このような黙想の営みが結果的に、神をほめたたえるという私たちの嘘偽りのない、神への行為へと動かされていくのだ。私は、今日の御言葉を通して、そのように受け取りたいと思わされました。
 
どうぞ、今日の一日が、神の豊かな導きによって明日へとつなぐ時となりますように。心からお祈りします。

08/11/2024

2024.11.8(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章1節
私だ。義によって語り
救う力の大いなる者。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書20章15~16節
私の気前のよさを妬むのか。
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神が人間へなさる祝福を、人間が阻んで良いのだろうか?
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私の思いに与えられたメッセージでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、いわゆる「ぶどう園の労働者のたとえ」の一節です。主人がぶどう園で働くために朝早く人々を雇い、昼間にもさらに人を雇い、残り1時間だけでもと人を雇います。しかし、賃金は朝早く働いた者も、ほんの少し働いた者も同じ額でした。早朝から働いた労働者は不平を主人にこぼします。それに対して主人が語った言葉が、今日の聖句というわけです。
 
確かに「不公平」を思わせるような出来事だと、私たちの目には映るかもしれません。現代の世ならば、ブラック企業と揶揄されるに違いないでしょう。しかし、主人に例えられた神は「私の気前のよさを妬むのか」と、それらの不平を一蹴してしまいます。ちなみにその賃金とは、人が一日問題なく過ごすことのできるに十分な額だったのです。
 
私たちは資本主義の世界に生きていますから、このような神の対応は現実にそぐわないように感じるでしょう。しかし、それは資本主義の負の産物と決めつけるのもどうなのかなと感じることもあります。だれもが過不足なく分配されることを目指した共産・社会主義もまた完璧なものとは言い難いのは、歴史が物語っていることでもあります。つまり、何を言いたいかというと、それは私たち人間ならば誰でも抱く、悲しい性なのだと思うのです。
 
つまり、人間は横を見て、周りを見渡しては優劣をつけ、格差をつけたがる存在なのだと思います。こうして人の努力というものがゆがんだ仕方で悪用されるのだと思うのです。これこそ、人が神になろうとする、いわゆる「罪」の根本部分にあるものだと、私は思います。
 
だからこそ、私たちには「気前のよい」神が必要なのだと思います。細かいことにあれこれこだわることなく、本質だけを大切にして私たち人間を大切にされる神の存在がです。神はなんでもかんでも良いと無秩序になられたわけでは決してありません。しかし、私たちが抱くような、細かいことに眼を向けすぎて本当に大切なことまで奪い取ってしまうようなことがあるならば、そこに神の祝福が存在するのだろうかということについて、私たちは真剣に考えなければいけないのではないだろうか。そんなことを思わされたのでした。
 
神は、ご自分の抱く本質に基づいて、気前よく救いの道を私たちに与えてくださいました。その神の思いを、私たちはゆがめることなくいただく者でありますように。今日一日の主にある平安を、心よりお祈りします。

07/11/2024

2024.11.7(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下14章10節
我々の神、主よ、我々を助けてください。我々はあなたを頼りとしているからです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章23節
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、新約聖書・ヘブライ人への手紙10章の言葉に、今日は注目したいと思いました。
 
私たちが揺るぎなく希望を持ち続けることができるとしたら、それは何を根拠とするかについて、今日の聖句である23節には「救いの希望を与えてくださった方の『真実』によるもの」だと、私たちに明らかにしています。ここで語られているのは、救い主であるイエス・キリストご本人であるのですが、そのイエスを「真実な方」であると、この手紙の筆者は綴っているのです。
 
この「真実な」という言葉、新約聖書の原文であるギリシア語では、「ピスティス」という単語の形容詞型である「ピストゥス」という言葉が用いられています。ピスティスとは、日本語で「信仰」としばしば用いられているものなのです。
 
信仰といえば、私たちが神仏に向かう行為ばかりが重視されがちなのですが、決してそういうことでもありません。ギリシア語のピスティスが語ろうとしているのは、私たちの神仏に向かう行為の「前提」となることを指した言葉であることがわかります。
 
私たちが希望をもって生きるというというのは、私たちの決断に基づく行為であることに違いありません。しかし、その前提になる、希望を抱くにふさわしい生き方をされた方がおられる。その方そのものが「真実(信仰)」の源であるということを、私たちは「信仰」という言葉を考え、とらえる上で絶対不可欠なものとなることを、とらえ続けたいのです。
 
どんなに私たちが熱心に、いわゆる「信仰的な行為」を営んだとしても、その元となる方の「真実(ピスティス)」に基づいていなければ、その行為は人間によるただのアピールに過ぎないのだと、私は自戒しつつも思わされます。イエスの言葉と行いから、私たちはいかにしてこの御方の「真実」に基づいた本質というものを、聖霊の助けによって私たちひとりひとりの心身に浸みこませていただけるか。目に見える行為ばかりに価値を見いだすのではなく、あくまで私たちを満たしてくださるイエスの真実というものを、生きる希望としていきたいのです。
 
かつて、神の民たちが神である「主(ヤハウェ)」に向かって、「あなたを頼りとしている」という告白をしました。頼りとするというのは、頼りにされる方がまさに「真実」であるからこそ、民たちは頼りとすることができました。それが決して、口先だけのものではなく、本当にそうしたいから、偽りのない神に向かって自分自身をゆだね、頼ることができた。それが、今日の旧約聖書の言葉が指し示しているメッセージであると私は受け取りたいのです。
 
今日もそのようなキリストの真実によって、私たちが生きることができますように。神による守りと祝福を、心からお祈りします。

06/11/2024

2024.11.6(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編84編5節
幸いな者、あなたの家に住む人は。
彼らは絶えずあなたを賛美します。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章26節
霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
霊が呻く(うめく)。
今日の新約聖書の言葉であるローマの信徒への手紙の一節で、私たちに語りかけています。うめくとはどういう意味でしょうか?感嘆のあまり、力強い息とともに絞り出される声のことをいいます。つまり、霊(聖霊)は、私たちのために感嘆の声をあげながら私たちの祈りを聞かれ、神に執りなしてくださるというのです。
 
つまり、どのように祈って良いかわからない。美辞麗句をもって祈れなかったとしても、私たちの「祈りたい」という切なる思いを、神は喜んでくださるのです。私たちは神に対して、何か良いこと、模範となるようなことをしなければならないと思うかもしれません。しかし、その良いこととか模範というものは、世間一般で言われる、人目から見て立派なことを指すのではないと私は思います。
 
大切なことは、人目よりも神のみ前に自分自身の素の姿をさらけ出した時に、さらけ出せた時に、神は私たちのために喜び、聖霊がうめいてくださることによって。感嘆の声をあげて神に私たちのために執りなしてくださるということなのです。

私たちが信仰者として生きる時、誰のための信仰者であるのでしょうか?もちろん隣人のためであるかもしれませんし、自分自身のためでもあるのかもしれません。しかし、何よりも大切なのは、神があってこその私の信仰なのです。私たちの如何ともしがたい姿に、神はご自分に対してその姿が向けられた時に、実に喜んでくださる。その究極のかたちが救い主イエスに込められているのだと、私は受け取りたいと思いました。
 
どんな時にも、私たちが自分の素直な姿を神に向けてさらけ出すことができますように。そして、そのような姿に神が臨んでくださることを信じて、今日も歩むことができますように。お祈りします。

05/11/2024

2024.11.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書11章19~20節
私は彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。それは彼らが私の掟に従って歩み、私の法を守り行うためである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章20~21節
神の国はいつ来るのか。神の国はあなたがたの中にある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、私たちが「神とともに歩む」ことができるために、神が備えてくださる「心」について、私たち一人ひとりに黙想を与えるものだと私は受け止めました。
 
今日の旧約聖書であるエゼキエル書においては、神が私たちに「心」を与えるのだということが、預言者エゼキエルによって語られています。どのような心でしょうか。「肉の心」と記されています。そして、この肉の心は「石の心」と対比するようなかたちで語られていることが分かります。
 
石の心とは、カチコチに凝り固まった状態のことを指すわけです。私たちの固定概念に縛られた、それこそ頑固な心のことを指します。柔軟さがないので、あらゆることに対応できない、自分自身の信念だけを押し通そうとする状態のことです。そのような状態は、一見すると「自信がある」ように見えます。しかし、その自信はときにはもろく、簡単に崩れてしまうものなのかもしれません。石の心とは、頑丈なように見えて、実はそうではない一面があるというなのでしょう。
 
私たちのうちにあるそのような石の心を、神は「肉の心」を与えることによって変革してくださるというのです。肉とは、血液や栄養が十分に流れて、筋肉がつねに瑞々しく、しなやかな状態のことを指します。十分に鍛えられた筋肉はしなやかに動きますから、あらゆる衝撃に対応することができるというのです。実にフレキシブルな対応をもって、日々の暮らしに向き合うことができる。それが「肉の心」なのです。
 
そして、肉の心は神が与えてくださる法や掟というものを守ることができるために、欠かせないものなのだということを、今日の言葉から知ることができます。なにも文字面の律法を守るという意味ではありません。神がご自分の法や掟を通して示されるご自身の「価値観」というものを柔軟に受け入れ、その本質によって生きることができるというのです。
 
この柔軟さこそ、このハードな世の中においても、私たちのただ中に「神の国」があふれていることを実感できるための、大きな助けになっていくのだと私は今日のふたつの聖句を通して受け止めたいと思いました。神が与えてくださるしなやかな心をもって、今日も主にあって柔軟な生き方をすることができますように。お祈りします。

04/11/2024

2024.11.4(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書1章2節
もろもろの民よ、こぞって聞け。
地とそこに満ちるものよ、心して聞け。
主なる神はあなたがたの証人となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章7節
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
10月31日から4日間、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。ブログアップする時間が取れなかったことと、身体の疲れもあってしばらく休ませてもらいました。今日から再開したいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに選ばれた、旧約聖書・ミカ書の冒頭の一節で語られるのは、「神は私たちの証人となってくださる」ということです。私たちが神の証し人になるのではなく、神が私たちの生きざまというものをすべてご存知なうえで、私たちの存在を証明してくださるというのです。つまり、私たちの良し悪しのすべてを通して、神が神であることを明らかにし、人々に知らせるというのです。
 
私が私たちを通してご自分を明らかにしてくださるというのは、決して私たちの「良い部分」だけを取り出して明らかにするということではないと私は考えています。どちらかというと、私たちの隠しておきたい、到底人様に見せることのできないものまでも、神は用いてご自分を明らかにされるのだと思うのです。
 
どうしても私たちは、神の栄光のためにという言葉によって「非の打ちどころのない、誰からも称賛されるような模範的な生き方」を目指すようなイメージを抱いていないでしょうか。もちろん、結果としてそのようなこともあるかもしれません。しかし、私は「神の栄光のために」という言葉は「神が神とされるために」という意味で用いられるべきなのではないかと思うのです。あえて悪がる必要はないのですが、私たちのボロボロで頼りなく、欠けばかりの偽らざる姿にこそ、神が私たちの神であることの証明がなされていくのだと私は思うのです。
 
この神によって、私たちは自分が蒔いたものを収穫することができるのだと思うのです。「蒔いたものを刈り取る」という言葉は、どちらかというとネガティヴなイメージを引き起こす言葉として、しばしば用いられているように私は感じています。しかし、そのような自業自得的な用い方こそ、なんか自分で汗水たらして、歯を食いしばって頑張らなければならないような印象をも、私たちに与えていないだろうか。だとすれば、この聖句の本質というものを十分にくみ取れないのではないかとも思うのです。
 
むしろ、ガラテヤ書のこの聖句の語ろうとしていることは「神は侮られるような方ではありません」なのではないかと思うのです。神御自身がご自分を明らかにするために、私たちの存在を大切にし、そして用いてくださっている。このことを、私たち一人ひとりがどのように受け止めるかで、そこには本当の意味での平和も訪れるのだと、私たちは信じて今日の一日を歩みたいと思いました。
 
どうか、三連休の最終日である今日の一日も、神の栄光が響き渡ることを喜べるような時でありますように。お祈りします。