くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編9編3節
いと高き方、あなたを喜び、祝い
その名をほめ歌おう。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章4節
主にあっていつも喜びなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は、それぞれの場で主の日を過ごされたことと思います。私が働く仙台宮城野教会でも、朝夕の礼拝を来会者のかたがたとともに持つことができました。いつものメンバーで固定している私たちの教会ですが、私が着任してから少しでも教会の存在を知っていただきたいと願いつつ、教会の皆さんとおこなってきたことが、少しずつ実を結び始めているような気がしています。というのも、近所にお住まいの方が私たちの教会を見つけてくださって、礼拝に出席してくださることが以前よりも少しずつ増えてきつつあります。そのことが素直に喜べる。ここにこそ神が喜びを私たちに与えてくださるからだと私は思うのです。昨日も、そのことを心から感じることのできた一日でした。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「喜び」です。私たちはよく「主を喜ばせることができますように」という言葉を祈りに含めたり、信仰の言葉として用いたりすることがあります。この言葉自体、私は悪いものではないとは思うのですが、そもそも論で考えるならば、私たちは自分の言動や態度で神を喜ばそうという考えは、誤解を恐れず申し上げれば、結構危うい言葉なのではないかとも思ったりしているわけです。
どういうことでしょうか。私が言いたいのは、私たちが神を喜ばせようとする前に、すでに神は私たちの存在そのものを、喜びをもって造られ、命の息吹を与え、私たちが生きることですでに喜んでおられるという前提があるということだと、私は思っているのです。この喜びが私たちに十分に向けられているからこそ、私たちは神の喜びを受け取ることができるし、神の喜びを用いて生きることができるのだというのです。
ですから、神を喜ばせるということは、私たちが神のご機嫌を取るようなかたちで用いられることでは決してなく、神と私たちとの深い関係性のなかで、神が与えてくださる喜びをキャッチボールするような感覚で神と交わるときに、はじめて「神を喜ばせる」という言葉が成立するのではないかなと思うのです。そういう意味で言えば、私は神を喜ばせるというよりは「神の喜びに、喜びで応答する」という言い方のほうが良いのではないかとも思ったりしています。
私たちは人間と人間とのあいだに、喜びを見い出せない場合もあります。今日の新約聖書の言葉である、フィリピの信徒への手紙4章の冒頭には、教会を支えたふたりの女性のあいだに起きた不和について、パウロは手紙で言及しています。どちらとも教会で熱心に神を喜ばせようと懸命に働いていたことでしょう。しかし、決定的にこのふたりに足りなかったのは、神が与える喜びでした。この喜びをまんなかにすれば、喜びに応答すれば、彼女たちはふたたび主のからだである教会において、大いに喜べるに違いないのです。
こういう感覚というものを大切にしたいと願わされた、今日の聖書の言葉が与えられたことに喜び、また感謝したいと思いました。神が喜ばれるからこそ喜べる。このことを胸にして今日の一日を歩むことができますように。お祈りします。
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