15/11/2024

2024.11.15(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記1章31節
人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章35節
二人(の弟子)も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
昨日、伯父の病状を主治医の先生から聞くために、朝イチで病院へ向かいました。伯父の口からしか病院のこと、自分の病状のことは知らされていませんでしたので、あらためて病気のことをすべてご存知である方からの、詳細で冷静かつ的確な話を聞けたことは、本当に感謝なことでした。先生からの話によって、今後私は何をしなければならないかがはっきりと分かりました。残り少ない人生であることが分かった伯父に神が触れてくださり、少なくても病と闘わなければならない伯父にとって、希望の源である神である主が必ずともにおられること受け入れてほしいと、強く、強く願わされました。私の祈りの課題がひとつ、明確に加えられたことを神に感謝するばかりでした。伯父のために祈りに覚えてくださっている皆さまにも、心から感謝いたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して思わされたこと、それは「人生の伴走者である神が必ずおられる」ということでした。私にとっては伯父がその人生のなかで、そのゴールを迎えようとするなかでとても大切な伴走者が与えられていると信じるからこそ、今日の聖書の言葉がよりクリアに、私の心のなかにとどまっているような気がします。
 
今日の旧約聖書である申命記の冒頭にある言葉は、伴走者どころか私たちをおぶり、背負ってくださる神である主ヤハウェについて書き記されています。申命記は、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、神が約束された土地をめざすまでの40年間、まさに荒野での日々を過ごさなければならなかった。しかし、その旅路も終着点が見えてきたところで、民たちのリーダーであるモーセによって語られたのでした。
 
40年間の苦労も、実は神が民たちを背負ってくださらなければ、ここまで来ることができなかった。そのことにあらためて気づかされるのは、その旅路の最後の部分で行程を振り返った時だったのです。私たちもまた、自分自身に与えられた人生を振り返る時に、いつもそこには神がおられた。時には背負われ、時にはともに人生の馳せ場をともに走り、歩んでくださる神がおられるのだ。これこそ、私たちにとっての慰めとなり希望となるのだと、私は今日の聖書の言葉を通してますます思わされたのでした。
 
それは、救い主イエスが復活された日の夕刻に、ふたりの弟子たちがエマオへと歩むその途上でイエスに出会うものの、その時は気付かず、エマオに到着してともに食卓を囲んだときに、はっと気づかされたあの出来事に相通ずるのだと。自分たちの主を十字架で失って、失意のうちにあった弟子たちの孤独は、実は孤独で無かったのだと。主がともに、私たちの心に十分に臨んでくださっていたのです。
 
私たちの人生の旅路も、いつもともにいてくださるイエスによる守りと平安が、今日の一日もまた、私たちの命の道を支えてくださいますように。お祈りいたします。

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