くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書1章2節
もろもろの民よ、こぞって聞け。
地とそこに満ちるものよ、心して聞け。
主なる神はあなたがたの証人となる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章7節
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
10月31日から4日間、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。ブログアップする時間が取れなかったことと、身体の疲れもあってしばらく休ませてもらいました。今日から再開したいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
今日のローズンゲンに選ばれた、旧約聖書・ミカ書の冒頭の一節で語られるのは、「神は私たちの証人となってくださる」ということです。私たちが神の証し人になるのではなく、神が私たちの生きざまというものをすべてご存知なうえで、私たちの存在を証明してくださるというのです。つまり、私たちの良し悪しのすべてを通して、神が神であることを明らかにし、人々に知らせるというのです。
私が私たちを通してご自分を明らかにしてくださるというのは、決して私たちの「良い部分」だけを取り出して明らかにするということではないと私は考えています。どちらかというと、私たちの隠しておきたい、到底人様に見せることのできないものまでも、神は用いてご自分を明らかにされるのだと思うのです。
どうしても私たちは、神の栄光のためにという言葉によって「非の打ちどころのない、誰からも称賛されるような模範的な生き方」を目指すようなイメージを抱いていないでしょうか。もちろん、結果としてそのようなこともあるかもしれません。しかし、私は「神の栄光のために」という言葉は「神が神とされるために」という意味で用いられるべきなのではないかと思うのです。あえて悪がる必要はないのですが、私たちのボロボロで頼りなく、欠けばかりの偽らざる姿にこそ、神が私たちの神であることの証明がなされていくのだと私は思うのです。
この神によって、私たちは自分が蒔いたものを収穫することができるのだと思うのです。「蒔いたものを刈り取る」という言葉は、どちらかというとネガティヴなイメージを引き起こす言葉として、しばしば用いられているように私は感じています。しかし、そのような自業自得的な用い方こそ、なんか自分で汗水たらして、歯を食いしばって頑張らなければならないような印象をも、私たちに与えていないだろうか。だとすれば、この聖句の本質というものを十分にくみ取れないのではないかとも思うのです。
むしろ、ガラテヤ書のこの聖句の語ろうとしていることは「神は侮られるような方ではありません」なのではないかと思うのです。神御自身がご自分を明らかにするために、私たちの存在を大切にし、そして用いてくださっている。このことを、私たち一人ひとりがどのように受け止めるかで、そこには本当の意味での平和も訪れるのだと、私たちは信じて今日の一日を歩みたいと思いました。
どうか、三連休の最終日である今日の一日も、神の栄光が響き渡ることを喜べるような時でありますように。お祈りします。
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