くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章13節
主は恵みに満ち、憐れみ深く
怒るに遅く、慈しみに富み
災いを下そうとしても、思い直される。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書13章8~9節
(ぶどう園の主人に)園丁は答えた。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年(いちじくの)実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が感じた第一印象は「神は忍耐強く待っておられる方である」ということでした。何を待っておられるかというと、私たちの「出来の悪さ」に対して、忍耐強く待っておられるということです。
今日の新約聖書の言葉であるルカによる福音書13章の言葉は、イエスによって語られたたとえ話です。ここで語られているのは、ぶどう園のなかに植えられたいちじくの木です。どうしてぶどう園にいちじくの木が植えられるのだろうとも思うのですが、そこには大きな意味があるようです。当時、ぶどう園に他の実生の木を植えることは、決してめずらしいことではなかったようです。ただ、いちじくの木は根を広く張ることから、もし実がなることがなければ、切り倒して他の実生の木に植え替えるということがあったようなのです。
イエスによって語られたたとえ話は、なかなか実のならないいちじくの木に対して、ぶどう園の管理者が持ち主に対して、いろいろ世話をしてみますので、切り倒すのをもう少し待ってくださいとお願いしているシーンが描かれています。もし、来年実がならなければ、その時は切り倒してくださいと、管理者は主人に願い出たのです。これは何を意味しているのだろうか。絶対に切り倒さないでくださいと管理者が願っているわけでもありません。だめならば切り倒すのはしょうがないことだ。しかし、実がなることを最後まであきらめない管理者の姿が描かれていることも事実です。
決してあきらめず、じっくり忍耐しながら、実がなるのを待ち続けるというのは、本当に骨の折れることかもしれません。しかし、私たちの神はそのようにして、私たちの心のうちに実を結ぶことを、じっと待っておられる方なのだと私は受け止めたいと思いました。なによりも、私たちの神はそうやって、ご自分の民と呼んでくださる私たちが神の民としてたとえふさわしい歩みができなかったとしても、何度も何度も失敗を繰り返したとしても、最後の最後まで待っていてくださるのだと。私たちが神の助けによって神とともにある幸いを自分自身の生き方とするまで、待っていてくださるのだと。
そういう神が私たちとともにいようとしてくださるゆえに、私たちは神とともに歩むということの幸いを真剣に受け止め、そのために神に変えさせてもらおうという気持ちへと自分自身の思いと心を、神である主ヤハウェに向けることができるのではないかと思うし、そのことを心から願い出たいと私は思うのです。
今日の旧約聖書の言葉である、ヨエル書の一節はまさに、神がいかに忍耐にあふれた方なのだろうということを物語るものとなっています。この神の忍耐強さのおかげで、私たちは今日も神のことを理解するように導かれているのだと。決して自分のダメさ加減に開き直って何も変わらない自分自身を貫き通して悪ぶれるのではなく、神の忍耐が私たちを生かしていることを、聖書の言葉と聖霊様の助けによって確かめながら、今日の一日を歩んでまいりたいと思いました。
どうか皆さんの一日も、神とともに歩む幸いをかみしめることのできる時でありますように。心からお祈りいたします。
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