08/11/2024

2024.11.8(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章1節
私だ。義によって語り
救う力の大いなる者。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書20章15~16節
私の気前のよさを妬むのか。
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
神が人間へなさる祝福を、人間が阻んで良いのだろうか?
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私の思いに与えられたメッセージでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、いわゆる「ぶどう園の労働者のたとえ」の一節です。主人がぶどう園で働くために朝早く人々を雇い、昼間にもさらに人を雇い、残り1時間だけでもと人を雇います。しかし、賃金は朝早く働いた者も、ほんの少し働いた者も同じ額でした。早朝から働いた労働者は不平を主人にこぼします。それに対して主人が語った言葉が、今日の聖句というわけです。
 
確かに「不公平」を思わせるような出来事だと、私たちの目には映るかもしれません。現代の世ならば、ブラック企業と揶揄されるに違いないでしょう。しかし、主人に例えられた神は「私の気前のよさを妬むのか」と、それらの不平を一蹴してしまいます。ちなみにその賃金とは、人が一日問題なく過ごすことのできるに十分な額だったのです。
 
私たちは資本主義の世界に生きていますから、このような神の対応は現実にそぐわないように感じるでしょう。しかし、それは資本主義の負の産物と決めつけるのもどうなのかなと感じることもあります。だれもが過不足なく分配されることを目指した共産・社会主義もまた完璧なものとは言い難いのは、歴史が物語っていることでもあります。つまり、何を言いたいかというと、それは私たち人間ならば誰でも抱く、悲しい性なのだと思うのです。
 
つまり、人間は横を見て、周りを見渡しては優劣をつけ、格差をつけたがる存在なのだと思います。こうして人の努力というものがゆがんだ仕方で悪用されるのだと思うのです。これこそ、人が神になろうとする、いわゆる「罪」の根本部分にあるものだと、私は思います。
 
だからこそ、私たちには「気前のよい」神が必要なのだと思います。細かいことにあれこれこだわることなく、本質だけを大切にして私たち人間を大切にされる神の存在がです。神はなんでもかんでも良いと無秩序になられたわけでは決してありません。しかし、私たちが抱くような、細かいことに眼を向けすぎて本当に大切なことまで奪い取ってしまうようなことがあるならば、そこに神の祝福が存在するのだろうかということについて、私たちは真剣に考えなければいけないのではないだろうか。そんなことを思わされたのでした。
 
神は、ご自分の抱く本質に基づいて、気前よく救いの道を私たちに与えてくださいました。その神の思いを、私たちはゆがめることなくいただく者でありますように。今日一日の主にある平安を、心よりお祈りします。

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