くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章17節
主があなたを道で導かれたときにあなたが、あなたの神である主を捨てたのでこのことを身に招いたのではないのか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章13節
きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は昨日のローズンゲンの延長線上に語られているメッセージであると受け止めました。昨日に引き続いて厳しさを感じる神の言葉であると感じたのです。そのことについて綴ってみたいと思います。
今日のふたつの聖句を通して与えられたテーマは「自由の用い方」であると私は受け止めました。神が自由を与えてくださる御方であるというのは、天地万物の管理者として神から委ねられたその時から、何も変わることのない神の態度であると私は思っています。つまり「治める者(管理者)」としての務めと責任というものが、自由という言葉と抜き差しならない関係のなかにあることを思わせられるのです。
自然界で言うならば、私たちは資源というものを有効に用いることが許されています。だからと言って、私利私欲のためにその資源を乱用して環境を破壊するような方向で進んでいくならば、必ずどこかで災いを被ることになるということを私たちは歴史のなかで、そして今現在経験していることとして実感しているのではないでしょうか。だからこそ、管理する責任というものがつねに問われているのだと私は思います。例を挙げれば、原子力発電というものは安価かつクリーンな電力を供給をする絶好の方法として用いられていますが、一旦事故が起きれば放射能の拡散によって多くに影響が生じることを考えれば、それを利用し、また管理する側の務めと責任というものは、決してないがしろにできないのです。
それと同じように、私たちの生き方においても、自由の用い方というものは大いに問われているのだと思います。自由だからと言って、なんでもかんでも自分のしたいようにすれば良いなどということはありません。私の自由を謳歌すればするほど、その自由のもとに犠牲を払わなければならない人がいることだって十分にあるのです。
私たちが味わうことのできる自由は、私自身の独占物ではありません。あくまで神が与えてくださった贈り物であることを、私たちはいかに受け入れることができるかということが大切なのだと思います。神が与えてくださったところには、神の思いが十分に詰まっているのです。だからこそ、私たちに自由を贈ってくださった方の思いを尋ね求め、それを理解し、しっかり受け入れ、それを大切に管理・マネジメントしていくことが、私たちに与えられた務めなのでしょう。
神を捨てるのも、我が道を闊歩するのも、神が与えた自由のなかで生かされている私たちの判断と決断です。しかし、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、その結果イスラエルの民たちに災いを招いたのは彼らの決断の結果であって、神にその責任を押し付けることはできないのです。だからこそ、神の思いというものを今日も聖書の言葉から、聖霊様の助けをいただきながら、歩んでいきたいと願わされました。自由を心から喜び楽しむためにです。
今日も、神様の守りと祝福が、皆さまとともにありますように。お祈りします。
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