くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章10節
明かりを持たずに闇を歩くときでも
主の名に信頼し、自分の神を支えとする。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章8節
闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝います。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「闇のなかに輝く光はどこにあるのか」というテーマであると私は受け止めました。そのことについて、黙想したいと思います。
闇のなかに輝く光というテーマは、聖書全体を代表するテーマであると言っても言い過ぎでないと私は思います。天地創造の時に、神が「光あれ!」という言葉とともに、闇に光を投じられることによって、すべてが開始されました。その時から、神は闇を闇のままにはしておかれない。必ず光を当てさせてくださる御方であることを、私たちは心の希望として神とともに歩む幸いというものが与えられたと言って良いのだと思うからです。
今日の旧約聖書の言葉にもあるように、私たちは「主の名」に信頼することで、たとえ闇のなかを歩かなければならなかったとしても、神である主ヤハウェ御自身を光に抱いて歩むことができるのだと、イザヤの預言の言葉は私たちに示しているのです。
ここで言う主とは、あるじという意味でとらえるのではなく、あくまで「ヤハウェ(YHWH)」という固有名詞のことを指しているのだということを、私たちはしっかりと心に留めておく必要があるのだと私は強く思います。「私はいる」という意味のお名前なのです。私はあなたがたとともにいる。このことが、闇のなかを歩こうとも恐れることはないのだという、強力な根拠となるのです。
信仰の先達たちは「主の名をみだりに用いてはならない」という十戒の言葉を極端に解釈することによって、ヤハウェというお名前自体を用いることを禁じて、代わりに「主(アドナイ)」という言葉に代えたという歴史があります。ですから、ヤハウェという固有のお名前に込められた意味というものを、私たちの目に見えにくくさせてしまったのではないかと思うのです。
かつて、文語訳聖書という聖書がありましたが、そこには「ヱホバ」というお名前が記されていました。主と書くよりは固有名詞がそうであるという認識が高まるのだと私は思います(現在では、エホバという発音自体が間違いであるというのが定説となりましたので、使われることがほぼ無くなっています)。
しかし、大切なのはその固有名詞にどのような意味があって、それが私たちにどのような影響を及ぼすのかということに対する深い理解です。ただ名前だけを使っていれば良いという話ではありません。そのような動機で名前だけを連呼しているのであれば、それこそ神の名をみだりに用いていることになるのかもしれません。余談ですが、私がかつてエホバの証人だったときに、エホバという神の名前を使い、呼ぶことは常に教えられていたけれど、神の名前の意味について詳しく教えられたり、深く考えるという機会はほぼありませんでした。
だからこそ、主の名を信頼するという今日のような御言葉に出会った時に、その意味というものを噛みしめ、深め、それが今の私にどのような幸いや喜びをもたらすのかということを、じっくりと黙想する機会が与えられているのだと思うのです。こういう営みのなかで、必ず神は、闇に光をあててくださるのだと私は受け止めたいと思いました。左眼が見えない今だからこそ、光を射しこんでくださる神がともにおられるということだけで、どれだけ慰めになるかということを、今日も確かめながら歩んでいきたいのです。
どうぞ、今日の一日に神である主ヤハウェの光を浴びる幸いに包まれますように。心からお祈りします。
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