くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編22節
主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ
主の治めるすべての場所で。
私の魂よ、主をたたえよ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章5~6節
御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。今週一週間、どのような日々を過ごすことが出来たでしょうか。良いことも、良くなかったことも、楽しかったことも、辛かったこともあったでしょう。しかし、それでも私たちには、神である主ヤハウェがともにいてくださるのだと、聖書の言葉が語り続けている。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句も、何ら変わることなく、そのことを私たちに語り継いでいるのです。
主をほめたたえる。何ゆえにでしょうか。その実感が私たちの心からわいてこなければ、どんなに形ばかりの崇拝行為をおこない、大声で賛美や祈りをがなりたててても、それは単なるパフォーマンスに過ぎないのかもしれません。だからこそ、神である主をほめたたえることについて、じっくりと黙想をすることは大切なことなのです。だからこそ、私たちは聖霊の助けをいただきながら、神との対話を楽しみたいのです。神が語られる、示される声とおうものに、じっくりと耳と心を傾けて、その声を私たちの心にしっかりとキャッチしていきたいのです。
なかなかそのような声が聞こえないからと言って、私は神から見捨てられていると感じる必要はこれっぽっちもありません。もし、そのようなことを感じる理由があるとすれば、私たちにとってこの世の中があまりにも過酷だからかもしれません。何かを急かすような環境が、すぐに良し悪しの評価をくだし、簡単に勝ち負けを判定する世界があるからかもしれません。しかし、孤独のなかにこそ、神がイエス・キリストの実体とこの世界に示された数々の根拠によって、私たちに臨んでくださいます。たとえそのことが地味に感じたとしてもです。
私たちは、即効的な、きらびやかで華やかな、スペクタクル的な奇跡「だけ」を求めていないでしょうか。それらは確かに「わかりやすい」のです。しかし、わかりにくいというところにこそ、大切な宝が納められているかもしれないのです。それは、決して神のいたずらではないのです。だからこそ、私たちは御言葉と聖霊の両輪をもって、神との深い対話というものを楽しみたいのです。このような黙想の営みが結果的に、神をほめたたえるという私たちの嘘偽りのない、神への行為へと動かされていくのだ。私は、今日の御言葉を通して、そのように受け取りたいと思わされました。
どうぞ、今日の一日が、神の豊かな導きによって明日へとつなぐ時となりますように。心からお祈りします。
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